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風化させまい戦争体験 「みにこみ7」より(3)-2

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通常 風化させまい戦争体験 「みにこみ7」より(3)-2

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/12/24 8:58
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 中條郁代さん
 (代沢五丁在住)

 昭和二十年八月十五日の終戦を京城(現ソウル市)で迎えました。祖母や母は集団疎開に出発する私の荷作りをしていました。疎開先はドラマ冬のソナタで有名になった春川(しゅんせん)の筈でした。
 正午の終戦を伝える玉音放送が終わると同時に市内は朝鮮の人たちであふれ、市電には鈴なりの人が乗り「万歳・万歳」(まんせい・まんせい)と叫び旗を振り回す有様でした。夜になると日本人の家は石が投げ込まれ、じつと息をひそめている始末でした。
 何日か経ってやっと落ちつき外も歩けるようになりましたが、街には北朝鮮から命からがら逃げてきた日本人が、うす汚れた衣服で次々と集まり、女の人は丸坊主でした。引き揚げもその人たちが優先で、私たちに許可が出たのは十一月に入ってからでした。出発の朝、自宅は起きぬけの布団、朝食の後もそのまま、親しくしていた 隣の現地の方に後始末を頼んで家を出ました。
 駅から乗ったのは貨車、屋根があるだけましでした。動き出したものの何度も止まり、夜になると動かなくなり汽車を出してもらうのにお金を要求され、皆で出し合いました。
 翌朝やっと釜山《プサン》についても港は乗船を待つ人であふれ、一日目は 駅のホームで野宿、次の日からは港の倉庫に移ることができ、自分たちの荷物で囲いを作りその中で寝ました。さしづめ今の避難所生活をその時すでに体験していたのです。
 十一月の釜山はかなり寒かったように思います。四日目にやっと乗船。七千トン級の船ですが船室にすし詰めの状態で押し込まれ、今なら高速船で二時間で行ける所を一晩かけて対馬海峡を越えました。博多港に近づく頃、機雷で沈められた船の残がいが見られ、日本を目前にして何千人ものが命を失ったのです。
 幸いにも私たちは満州北朝鮮からの人のように命がけの逃避行は経験するとはなく、家族全員無事日本の土を踏めたことを感謝しました。

 それぞれ引揚げてから苦労は筆舌につくせませんが、同じ境遇で育った友の絆《きずな》は強く、今でも小学の同窓会ではお互いの健在を喜び、韓国から出席の方とも旧交を温めています。

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編集者 (代理投稿)

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