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風化させまい戦争体験 「みにこみ7」より

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2008/11/28 18:08
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
はじめに

 この記録は、下記「みにこみ7」事務局のご了解を得て、転載させていただくものです。

 メロウ伝承館スタッフ

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みにこみ7
 発 行 「みにこみ7」編集委員会
 事務局 (東京都世田谷区)代沢まちづくり出張所内


「風化させまい戦争体験」について

 戦後六十二年が過ぎ太平洋戦争の戦中、戦後を体験している方が年々少なくなっています。
 ともすると戦争の恐ろしさ、惨めさが忘れられようとしている現実があります。
 二度と再びあのような悲惨で、しかも愚かな戦争への道を選ばないようにするためにも、ここでもう一度、かの戟争の事実を確かめようと、さまざまな場面、状況の中での戦争体験を語っていただくことにしました。
 つまり「戦場」 「空襲」 「引き揚げ」 「学童疎開」 「学徒動員」 「食糧難」 「言論統制」などについてです。
 それらの体験をお持ちの方は事務局までご連絡下さい。

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風化させまい戦争体験・1

 戦争体験の第一回は柳下典雄さん(代沢4丁目)にお願いしました。

南中国戦線での体験を語る

 昭和十四(1939)年に満二十歳で現役兵として北海道の旭川へ人隊した私は、二年後、中国大陸でも南方の広東の近くへ派遣されました。

 上陸後駐屯《=注1》したのは、福建省に近い現在のチャオチョウ(潮州)付近でした。村というより町でした。
 太鼓橋があったのをおぼえています。
 私たちは砲兵で、野砲や山砲という大砲を扱いましたが、山砲の方が多かったと思います。
 山砲は、分解できるので山や不整地でも運びやすく、最前線では有効でした。

 しかし私たちのところは奥地でなかったので、それほどの激戦はありませんでした。時に向こうが攻めてきたり、またこちらが攻単に出ました。怖い思いといえば、攻撃に出て一個小隊で山ひとつを守っていた時、中腹の塹壕《ざんごう注2》に四、五人で入っていましたが、あたりは真っ暗闇でしょ、いつどこから敵が出てくるかと、緊張の時間でしたよ。一度は敵の大隊長を捕虜にしたことがありました。それ以外の一般の兵士もいましたが、彼らを銃殺するようなことはなかったのですが、中国は広かったので、場所によってはいろいろあったのでしょう。

 戦地とはいえ、私たちのところは比較的平穏で、中国の一般市民や村民とのいざこざもなく、南方の島やビルマのように、食うものがなく戦死とはいえ、その大半が餓死だったという悲劇はありませんでした。

 軍隊生活では、上官によるシゴキがよくいわれますが、私の経験では、内地では整列ビンタといって、理由のよくわからないビンタが再々ありましたが、戦地へ行ってからはなく、やはり明日の命が知れぬ者同士、つまり戦友という気持ちになっていたのかもしれません。

昭和十八年にようやく除隊になり、船で九州に無事帰った時はうれしかったですね。

 その後の私は消防署に勤務しました。昭和十九年からアメリカによる本土空襲が始まり、東京が連日の爆撃一で焼け跡が広がりました。戦争末期には、四十歳代の男たちでさえ多数召集を受けたのに、私は消防に従事していたためでしょうか、そのまま終戦を迎えました。
 いちばん犠牲者が多かったのは、私たちの年代のようですが、さいわい私は怪我《けが》もなく生きて帰りました。それでも、もう二度とふたたび戦争はあってはならないと思います。戦争は真っ平です。

注1 駐屯=軍隊がある土地にとどまること
注2 塹壕= 戦場で、歩兵が敵弾を避けるために作る防御施設

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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/12/5 9:20
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
風化させまい戦争体験(2)

一夜にして死者10万の東京大空襲を語る

 昭和20年3月10日の東京の下町を襲った米空軍B29爆撃機による無差別焼夷弾《しょういだん》攻撃は、広島の原爆に匹敵する被害をもたらした残虐な空襲でした。
 今回は、ニ人の方に当時の体験を語っていただきました。
 3月10日は『東京都平和の日』


木下弘子さん
  (代沢三丁目在住)

 三月十日の東京大空襲に遭《あ》った時、私は女学校一年生の十三歳でした。住んでいたのは、江東区大島(元城東区)です。あの大空襲で最も被害の多かった地域です。

 十日の午前一時頃だったでしょうか、空襲警報が鳴り響き、私たち家族四人は、少し離れているが、安全度が高いと父が選んだ防空壕へ避難しました。結果的には、父のこの判断で焼死を免れたのでしょう。二月末には、浅草橋や本所、深川あたりが焼かれているので、もう今夜は危ないと思っていたところ、空襲警報になるや、たちまち焼夷弾の雨でした。その三畳ほどの広さの防空壕も安全とはいえず、入り口の隙間《すきま》から煙と熱風が入ってきて、酸欠になってゆくのがわかりました。

午前五時ごろ、その壕《ごう》を出ると、近くの第五大島小学校が物凄い勢いで焼け落ちるところで、火の粉が真横から吹き付け、また、すぐそばを流れる小名木《おなぎ》川には、猛火と熱風を逃れてきた人たちが入っていて、次々飛び込む人も見ました。中にはすでに焼死したり溺死《できし》したりした人も多かったようですが、逃げるのに夢中でよく覚えていません。

 荒川のほうへ通じる広い通りに出ると、黒焦げの遺体がごろごろしており、その焼死体を踏みながら逃げるという凄まじさ。また黒焦げの子どもを抱いたまま、気が狂ったように泣き叫ぶ母親の姿もありました。それからわが家のあったところへ行ってみましたが、何も残っていませんでした。後で分かったのですが、第三大島小の私の同級生で生き残ったのは、私を含めてわずか五名位だったそうです。
 それから私たちは、とりあえず市川の知り合いの方の家まで、たどり着きました。高粱《コーリャン》のご飯をいただき、一泊させてもらって、翌日は市川から新宿まで歩いて行き、父方の祖母のいた岡谷へ汽車で向ったものの、避難民で超満員の列車は、窓から乗り降りし、トイレにも行けない状態でした。

 岡谷から母や四人の弟妹が疎開していた伊那の母の実家に行き、私は高遠に近い農家の叔母の家に預けられ、伊那の女学校に転入したのですが、それからがまたたいへん。女学校へ歩いて通うのに、叔母がお米で買ってくれた下駄は往復8キロの道ではすぐ割れてしまうので、仕方なく裸足《はだし》で行き、町境に入って下駄を履く。ところが、秋になると信州の寒さは厳しく、足が痛いほど冷たくなります。私は道に落ちている馬糞《ばふん》に足を乗せて温めました。新しい馬糞はとくに温かく心地よかったのを、思い出します。

 幸い九死に一生を得た私ですが、二度とこのような恐ろしい悲惨な事に遭う世の中になってほしくないですね。

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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/12/24 8:50
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 中川 浩さール
 (代沢一丁目在住)

 私は池袋生まれの池袋育ちで、家族と学生時代まで過ごしました。中学一年生(昭和十七年)より学徒動員で、農家に泊まり込みで暗渠工事《あんきょ 注1》の作業をしていました。二年生の八月からは、本所厩橋《うまや橋》の凸版印刷《とっぱん印刷=会社名》に派遣されました。
 
 凸版印刷が昭和二十年三月十日の東京大空襲で被害を受けたようなので様子を見に行きましたが、焼け落ちていました。しかたなく本所警察署に行き相談すると即、遺体連びを手伝うはめとなり、近くの震災記念堂の焼死体や隅田川の水死体を、友だち四・五人で隅田公園へ大八車《注2》に乗せ運びました(現在は東京都慰霊堂に移し、納骨されています)。

 私たちは、トビグチ《注3》で水死体を引き寄せ、ボートに乗せて運びました。水死体とは、焼夷弾によるものすごい焔《ほのお》と熱風に追われ、次々と川に飛び込んで、先の者が後から飛び込む人の下敷となって、日がたってから浮いてきたものです。

 道路に倒れている人は、まるっきり黒焦げの人や、表面だけ火でなめられた人。また衣服が焼けてロウ人形と化した遺体もありました。そういう遺体はみんな油が浮いて軍手をして運んでもそんなのは役に立たない。みんな手に臭いが染みついて家に帰っても数週間臭いが抜けませんでした。人が焼けた時の臭いというのは、とにかく凄い。また歩道脇の防空壕の中では、お年寄りが座って合掌したまま窒息死していました。

 池袋の自宅は四月十四日に焼夷弾の直撃は受けなかったものの、運悪く類焼で焼かれてしまいました。その後の動員先は、川崎の扇町の国鉄火力発電所に変わりました。ここは京浜工業地帯のため、昼間の艦載機による機銃掃射を鉄筋建物の柱の陰に隠れて難を逃れました。私たちの避難先の青山六丁目も五月二十五日の夜、空襲で焼け出され、しかたなく池袋二丁目の元の所に戻ることにしました。池袋に戻るその途中の表参道にも焼死体がごろごろ。私は三月十日の大空襲で慣れてはいたけれど、たいへんなことでした。

 この二十五日夜、動員先の発電所も爆撃され、発電所まで行く道は30センチおきに爆弾の穴で行くことができませんでした。二度家が焼かれ、動員先の工場も二度空襲を受けたのです。

 私は、軍事教練を叩き込まれていたので、力仕事や危険な仕事は当たり前という感じで、その当時の私は戦争が怖いというより麻痺《まひ》してしまっていたと思います。戦争を知らない今の子どもたちは、本当に幸せだなと思います。

注1 暗渠=地下に埋設したり、ふたをかけたりした水路

注2 大八車=(だいはち車) 荷物運搬用の二輪車で、二、三人でひく大型のもの

注3 トビグチ=棒の先に鳶のくちばしに似た形の鉄製の鉤(かぎ)をつけたもの

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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/12/24 8:51
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
風化させまい戦争体験(3)

 生死をかけた引揚げ者の苦難

 中国大陸や朝鮮にいた日本人は8月15日を境に立場が逆転し、敗戦国の屈辱をうけ、無一文となり恐怖にさらされました。夢にみた日本の土を踏むことなく、多くの方が無念の死をとげたのです。今回は引き揚げのすさまじい体験を二人の方に語っていただきました。

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吉田健治さん
(代沢五丁目在住)

 私たち一家は昭和十七年に当時の満州、現在の中国東北部に開拓団として渡り、父は団長でした。終戦の二十年に私は小学一年生で、学校は村から四キロほど離れていたため、寮があり家に帰るときは、みんな一緒に馬車で移動しました。一面の大草原で狼や熊が出て危険だったからです。

 八月十五日、日本が負けたとなるや、匪賊(ひぞく)《注1》に襲われ、家畜などを略奪されました。
 ソ満国境に近かったようで、続いてソ連軍の侵攻。日本軍の姿は皆無でした。不安と恐怖の日々でしたが、やっと列車が来るという前日に、警備をしていた父が匪賊の銃に撃たれ亡くなる事態。翌日は列車が来るので、しかたなく爪と髪の毛だけを残して埋葬しました。列車に乗れたものの猛吹雪、衝突事故などが重なり、姉は車輛に右腕を挟まれる大怪我をし、いまだに右手が不自由です。それからハルビンの近くに収容されたものの、毎日飢えていました。
 コの字形の三階建の建物の中庭には大きな穴が掘ってあり、連日何人もの遺体が無残に放りこまれました。
 一番よく覚えているのは、母にオデキのようなものができ、天然痘だといわれ、隔離されたことです。その時心配だったので兄は私を連れて隔離場所までついてゆきました。その二日後、引揚げ者用の列車が出ることになり、母をどうするかと団長の方などと相談の末、この機会を逃してはいつ帰国できるか、わからないので、密かに母を連れ出すことにしました。隔離場所を知っていたのが幸い、夜中の暗がりに出かけ、鉄条網の外れたところからくぐり、鍵のかかっていない戸から入りました。「走ると怪しまれるからゆうゆう歩いて帰れ」と団長さんから言われたとおりにやり無事成功。
 この脱出のおかげで母子は離れ離れにならずに帰国できたのです。

 そして翌日、一家五人は港へ向かいました。無我夢中でしたので、どこの港か覚えていませんが、二十一年の春だったと思います。日本に着くまでの船中で亡くなる人が続出。それでも舞鶴に近くなり、陸地が見えてくると、大人たちは泣いて喜んでいました。一方私はそれよりも空腹のあまり、「食う」ことしか考えていませんでした。舞鶴から新潟県魚沼の父の実家に着いてまず食べた、ぽってりした白米のお粥がうまかったことを忘れません。
 「ゆっくり、ゆっくり食ろよ」と言う髭《ひげ》のおじいちゃんの笑顔を思い出します。

注1 匪賊=徒党を組んで略奪・殺人などを行う盗賊

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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/12/24 8:58
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 中條郁代さん
 (代沢五丁在住)

 昭和二十年八月十五日の終戦を京城(現ソウル市)で迎えました。祖母や母は集団疎開に出発する私の荷作りをしていました。疎開先はドラマ冬のソナタで有名になった春川(しゅんせん)の筈でした。
 正午の終戦を伝える玉音放送が終わると同時に市内は朝鮮の人たちであふれ、市電には鈴なりの人が乗り「万歳・万歳」(まんせい・まんせい)と叫び旗を振り回す有様でした。夜になると日本人の家は石が投げ込まれ、じつと息をひそめている始末でした。
 何日か経ってやっと落ちつき外も歩けるようになりましたが、街には北朝鮮から命からがら逃げてきた日本人が、うす汚れた衣服で次々と集まり、女の人は丸坊主でした。引き揚げもその人たちが優先で、私たちに許可が出たのは十一月に入ってからでした。出発の朝、自宅は起きぬけの布団、朝食の後もそのまま、親しくしていた 隣の現地の方に後始末を頼んで家を出ました。
 駅から乗ったのは貨車、屋根があるだけましでした。動き出したものの何度も止まり、夜になると動かなくなり汽車を出してもらうのにお金を要求され、皆で出し合いました。
 翌朝やっと釜山《プサン》についても港は乗船を待つ人であふれ、一日目は 駅のホームで野宿、次の日からは港の倉庫に移ることができ、自分たちの荷物で囲いを作りその中で寝ました。さしづめ今の避難所生活をその時すでに体験していたのです。
 十一月の釜山はかなり寒かったように思います。四日目にやっと乗船。七千トン級の船ですが船室にすし詰めの状態で押し込まれ、今なら高速船で二時間で行ける所を一晩かけて対馬海峡を越えました。博多港に近づく頃、機雷で沈められた船の残がいが見られ、日本を目前にして何千人ものが命を失ったのです。
 幸いにも私たちは満州北朝鮮からの人のように命がけの逃避行は経験するとはなく、家族全員無事日本の土を踏めたことを感謝しました。

 それぞれ引揚げてから苦労は筆舌につくせませんが、同じ境遇で育った友の絆《きずな》は強く、今でも小学の同窓会ではお互いの健在を喜び、韓国から出席の方とも旧交を温めています。

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編集者 (代理投稿)

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