風化させまい戦争体験 「みにこみ7」より(2)-2
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風化させまい戦争体験 「みにこみ7」より (編集者, 2008/11/28 18:08)
- 風化させまい戦争体験 「みにこみ7」より(2) (編集者, 2008/12/5 9:20)
- 風化させまい戦争体験 「みにこみ7」より(2)-2 (編集者, 2008/12/24 8:50)
- 風化させまい戦争体験 「みにこみ7」より(3) (編集者, 2008/12/24 8:51)
- 風化させまい戦争体験 「みにこみ7」より(3)-2 (編集者, 2008/12/24 8:58)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
中川 浩さール
(代沢一丁目在住)
私は池袋生まれの池袋育ちで、家族と学生時代まで過ごしました。中学一年生(昭和十七年)より学徒動員で、農家に泊まり込みで暗渠工事《あんきょ 注1》の作業をしていました。二年生の八月からは、本所厩橋《うまや橋》の凸版印刷《とっぱん印刷=会社名》に派遣されました。
凸版印刷が昭和二十年三月十日の東京大空襲で被害を受けたようなので様子を見に行きましたが、焼け落ちていました。しかたなく本所警察署に行き相談すると即、遺体連びを手伝うはめとなり、近くの震災記念堂の焼死体や隅田川の水死体を、友だち四・五人で隅田公園へ大八車《注2》に乗せ運びました(現在は東京都慰霊堂に移し、納骨されています)。
私たちは、トビグチ《注3》で水死体を引き寄せ、ボートに乗せて運びました。水死体とは、焼夷弾によるものすごい焔《ほのお》と熱風に追われ、次々と川に飛び込んで、先の者が後から飛び込む人の下敷となって、日がたってから浮いてきたものです。
道路に倒れている人は、まるっきり黒焦げの人や、表面だけ火でなめられた人。また衣服が焼けてロウ人形と化した遺体もありました。そういう遺体はみんな油が浮いて軍手をして運んでもそんなのは役に立たない。みんな手に臭いが染みついて家に帰っても数週間臭いが抜けませんでした。人が焼けた時の臭いというのは、とにかく凄い。また歩道脇の防空壕の中では、お年寄りが座って合掌したまま窒息死していました。
池袋の自宅は四月十四日に焼夷弾の直撃は受けなかったものの、運悪く類焼で焼かれてしまいました。その後の動員先は、川崎の扇町の国鉄火力発電所に変わりました。ここは京浜工業地帯のため、昼間の艦載機による機銃掃射を鉄筋建物の柱の陰に隠れて難を逃れました。私たちの避難先の青山六丁目も五月二十五日の夜、空襲で焼け出され、しかたなく池袋二丁目の元の所に戻ることにしました。池袋に戻るその途中の表参道にも焼死体がごろごろ。私は三月十日の大空襲で慣れてはいたけれど、たいへんなことでした。
この二十五日夜、動員先の発電所も爆撃され、発電所まで行く道は30センチおきに爆弾の穴で行くことができませんでした。二度家が焼かれ、動員先の工場も二度空襲を受けたのです。
私は、軍事教練を叩き込まれていたので、力仕事や危険な仕事は当たり前という感じで、その当時の私は戦争が怖いというより麻痺《まひ》してしまっていたと思います。戦争を知らない今の子どもたちは、本当に幸せだなと思います。
注1 暗渠=地下に埋設したり、ふたをかけたりした水路
注2 大八車=(だいはち車) 荷物運搬用の二輪車で、二、三人でひく大型のもの
注3 トビグチ=棒の先に鳶のくちばしに似た形の鉄製の鉤(かぎ)をつけたもの
(代沢一丁目在住)
私は池袋生まれの池袋育ちで、家族と学生時代まで過ごしました。中学一年生(昭和十七年)より学徒動員で、農家に泊まり込みで暗渠工事《あんきょ 注1》の作業をしていました。二年生の八月からは、本所厩橋《うまや橋》の凸版印刷《とっぱん印刷=会社名》に派遣されました。
凸版印刷が昭和二十年三月十日の東京大空襲で被害を受けたようなので様子を見に行きましたが、焼け落ちていました。しかたなく本所警察署に行き相談すると即、遺体連びを手伝うはめとなり、近くの震災記念堂の焼死体や隅田川の水死体を、友だち四・五人で隅田公園へ大八車《注2》に乗せ運びました(現在は東京都慰霊堂に移し、納骨されています)。
私たちは、トビグチ《注3》で水死体を引き寄せ、ボートに乗せて運びました。水死体とは、焼夷弾によるものすごい焔《ほのお》と熱風に追われ、次々と川に飛び込んで、先の者が後から飛び込む人の下敷となって、日がたってから浮いてきたものです。
道路に倒れている人は、まるっきり黒焦げの人や、表面だけ火でなめられた人。また衣服が焼けてロウ人形と化した遺体もありました。そういう遺体はみんな油が浮いて軍手をして運んでもそんなのは役に立たない。みんな手に臭いが染みついて家に帰っても数週間臭いが抜けませんでした。人が焼けた時の臭いというのは、とにかく凄い。また歩道脇の防空壕の中では、お年寄りが座って合掌したまま窒息死していました。
池袋の自宅は四月十四日に焼夷弾の直撃は受けなかったものの、運悪く類焼で焼かれてしまいました。その後の動員先は、川崎の扇町の国鉄火力発電所に変わりました。ここは京浜工業地帯のため、昼間の艦載機による機銃掃射を鉄筋建物の柱の陰に隠れて難を逃れました。私たちの避難先の青山六丁目も五月二十五日の夜、空襲で焼け出され、しかたなく池袋二丁目の元の所に戻ることにしました。池袋に戻るその途中の表参道にも焼死体がごろごろ。私は三月十日の大空襲で慣れてはいたけれど、たいへんなことでした。
この二十五日夜、動員先の発電所も爆撃され、発電所まで行く道は30センチおきに爆弾の穴で行くことができませんでした。二度家が焼かれ、動員先の工場も二度空襲を受けたのです。
私は、軍事教練を叩き込まれていたので、力仕事や危険な仕事は当たり前という感じで、その当時の私は戦争が怖いというより麻痺《まひ》してしまっていたと思います。戦争を知らない今の子どもたちは、本当に幸せだなと思います。
注1 暗渠=地下に埋設したり、ふたをかけたりした水路
注2 大八車=(だいはち車) 荷物運搬用の二輪車で、二、三人でひく大型のもの
注3 トビグチ=棒の先に鳶のくちばしに似た形の鉄製の鉤(かぎ)をつけたもの
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編集者 (代理投稿)