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風化させまい戦争体験 「みにこみ7」より(3)

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通常 風化させまい戦争体験 「みにこみ7」より(3)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/12/24 8:51
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
風化させまい戦争体験(3)

 生死をかけた引揚げ者の苦難

 中国大陸や朝鮮にいた日本人は8月15日を境に立場が逆転し、敗戦国の屈辱をうけ、無一文となり恐怖にさらされました。夢にみた日本の土を踏むことなく、多くの方が無念の死をとげたのです。今回は引き揚げのすさまじい体験を二人の方に語っていただきました。

―――――――――――――――――――――――

吉田健治さん
(代沢五丁目在住)

 私たち一家は昭和十七年に当時の満州、現在の中国東北部に開拓団として渡り、父は団長でした。終戦の二十年に私は小学一年生で、学校は村から四キロほど離れていたため、寮があり家に帰るときは、みんな一緒に馬車で移動しました。一面の大草原で狼や熊が出て危険だったからです。

 八月十五日、日本が負けたとなるや、匪賊(ひぞく)《注1》に襲われ、家畜などを略奪されました。
 ソ満国境に近かったようで、続いてソ連軍の侵攻。日本軍の姿は皆無でした。不安と恐怖の日々でしたが、やっと列車が来るという前日に、警備をしていた父が匪賊の銃に撃たれ亡くなる事態。翌日は列車が来るので、しかたなく爪と髪の毛だけを残して埋葬しました。列車に乗れたものの猛吹雪、衝突事故などが重なり、姉は車輛に右腕を挟まれる大怪我をし、いまだに右手が不自由です。それからハルビンの近くに収容されたものの、毎日飢えていました。
 コの字形の三階建の建物の中庭には大きな穴が掘ってあり、連日何人もの遺体が無残に放りこまれました。
 一番よく覚えているのは、母にオデキのようなものができ、天然痘だといわれ、隔離されたことです。その時心配だったので兄は私を連れて隔離場所までついてゆきました。その二日後、引揚げ者用の列車が出ることになり、母をどうするかと団長の方などと相談の末、この機会を逃してはいつ帰国できるか、わからないので、密かに母を連れ出すことにしました。隔離場所を知っていたのが幸い、夜中の暗がりに出かけ、鉄条網の外れたところからくぐり、鍵のかかっていない戸から入りました。「走ると怪しまれるからゆうゆう歩いて帰れ」と団長さんから言われたとおりにやり無事成功。
 この脱出のおかげで母子は離れ離れにならずに帰国できたのです。

 そして翌日、一家五人は港へ向かいました。無我夢中でしたので、どこの港か覚えていませんが、二十一年の春だったと思います。日本に着くまでの船中で亡くなる人が続出。それでも舞鶴に近くなり、陸地が見えてくると、大人たちは泣いて喜んでいました。一方私はそれよりも空腹のあまり、「食う」ことしか考えていませんでした。舞鶴から新潟県魚沼の父の実家に着いてまず食べた、ぽってりした白米のお粥がうまかったことを忘れません。
 「ゆっくり、ゆっくり食ろよ」と言う髭《ひげ》のおじいちゃんの笑顔を思い出します。

注1 匪賊=徒党を組んで略奪・殺人などを行う盗賊

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編集者 (代理投稿)

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