成瀬孫仁日記(九)昭和十八年六月~昭和十八年九月
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成瀬孫仁日記(九)昭和十八年六月~昭和十八年九月 (あんみつ姫, 2009/3/30 12:30)
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投稿日時 2009/3/30 12:30
あんみつ姫
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 485
六月
一日(火)
射撃場へ勤労奉仕に行く。全員で僅か五分の一の約五十名。市立病院へ行くため不参加。右肺門が悪いと血沈をとられる。二時頃川村先生回られる。五時頃米内先生回られる。米内先生の時には煙草の煙が出ていた。
六日(日)
六月一日に理由なく勤労奉仕をさぼった者は六月四日一斉に三日間の停学を命ぜられる。新任の高橋学監(陸軍少将)は軍隊における重営倉《注1》くらいに考えたのではないだろうか。壮重な調子で停学を申し渡したようであるが、申し渡された当人達は賞状をもらう気持がしたそうだから大したものだ。申し渡しが終わって帰っても公休三日とはすごいと喜んでいた。学院は大したものだ。白井教授日く「学院の建児四百の精鋭を率いて行けば天下に何かなさざるあらんや」と。皮肉か。
十一日(金)
朝から満軍《満州国軍》の軍医学校の病院へ行く。診断書はもらえなかった。レントゲンで二回見たが、胸は悪くないという。悪くないのに越したことはないから悪くないことにして置こう。
十八日(金)
いよいよ勤労奉仕隊が午後三時三十分の列車で出発するので昨日からその準備に忙殺されている。試験終了後、皆思いのまま過したが、一人また一人去って行き、今日また全員「北安」へ勤労奉仕に出発するとは一抹の淋しさを感じる。残留のため奉仕隊の荷物輸送係を命じられ、満系五名と駅まで馬車で荷物を運び、輸送列車に積込む。サラバ元気で。
十九日(土)
故郷の町役場から突然徴兵検査を本年受けるように言って来る。
二十日(日)
夜、徴兵検査の件で斉藤中佐の宅に行く。配属将校《注2》殿日く「放っとけば良い」と学校から何か手続をするらしい。
二十一日(月)
南寮から農園作業のために北寮に移る。
二十五日(金)
高橋学監が来り、四年生のみを集めて就職の話があり、結局三十名ばかり軍へ就職しなければならないから志願するようにと提案、返答は保留する。
寝ていると溝口先生が来て「作業を見ていると日系は駄目だ。明日から特別午前中だけにする。内地へ帰省したい者は帰れ」と。あの時の先生の言葉は忘れられない。早速帰るとするか。
夜数名で高橋学監の宅に行く。最初から志願する気持はなく断るつもりだった。話をしていると学監の眼が涙にうるんで来て何ともいえない顔になって来た。五十四歳の陸軍少将が僅か数人の学生を二時間説得し頑張って断られ続けた。併し今にも泣き出しそうになる学監の姿を眺めやると切ない気持になり、心は動揺した。
この途中で、満州国軍の陸軍中将になり、奉天の訓練学校の校長として赴任した梅村旧学監が訪ねて来て、我々が居るのを見ると軽く会釈し、挨拶だけして帰って行った。少佐の副官帯同の中将閣下の姿を見ると「金吾楼」と呼んでいた学院時代の面影はない。いいひとだったなあと思った。
補記
六月一日 生活や気持が暗かったので体までおかしくなっていたのではないかと思う。所謂希望のない日々と言うべきか。全然記憶にないが、日記にこんなことを書いているとこを見ると寮の部屋で煙草を喫ってはいけないことになっていたのか。
六月十一日 満軍の軍医学校の病院なんて何処にあったのか。診察に行った記憶もない。
六月二十五日 旧学藍梅村中将は私がシベリヤから帰国した昭和二十五年四月十七日舞鶴着の明優丸で一緒に帰られた。
注1:陸軍での懲罰の一つで 一日6合の麦飯と水だけで おかずは固形塩しか与えられない 寝具も無く 極めて重い懲罰であったので 3日間を限度とした
注:1925年「陸軍現役将校学校配属令」が公布され 一定の官公立の学校に 原則として義務的に陸軍現役将校が配属された
一日(火)
射撃場へ勤労奉仕に行く。全員で僅か五分の一の約五十名。市立病院へ行くため不参加。右肺門が悪いと血沈をとられる。二時頃川村先生回られる。五時頃米内先生回られる。米内先生の時には煙草の煙が出ていた。
六日(日)
六月一日に理由なく勤労奉仕をさぼった者は六月四日一斉に三日間の停学を命ぜられる。新任の高橋学監(陸軍少将)は軍隊における重営倉《注1》くらいに考えたのではないだろうか。壮重な調子で停学を申し渡したようであるが、申し渡された当人達は賞状をもらう気持がしたそうだから大したものだ。申し渡しが終わって帰っても公休三日とはすごいと喜んでいた。学院は大したものだ。白井教授日く「学院の建児四百の精鋭を率いて行けば天下に何かなさざるあらんや」と。皮肉か。
十一日(金)
朝から満軍《満州国軍》の軍医学校の病院へ行く。診断書はもらえなかった。レントゲンで二回見たが、胸は悪くないという。悪くないのに越したことはないから悪くないことにして置こう。
十八日(金)
いよいよ勤労奉仕隊が午後三時三十分の列車で出発するので昨日からその準備に忙殺されている。試験終了後、皆思いのまま過したが、一人また一人去って行き、今日また全員「北安」へ勤労奉仕に出発するとは一抹の淋しさを感じる。残留のため奉仕隊の荷物輸送係を命じられ、満系五名と駅まで馬車で荷物を運び、輸送列車に積込む。サラバ元気で。
十九日(土)
故郷の町役場から突然徴兵検査を本年受けるように言って来る。
二十日(日)
夜、徴兵検査の件で斉藤中佐の宅に行く。配属将校《注2》殿日く「放っとけば良い」と学校から何か手続をするらしい。
二十一日(月)
南寮から農園作業のために北寮に移る。
二十五日(金)
高橋学監が来り、四年生のみを集めて就職の話があり、結局三十名ばかり軍へ就職しなければならないから志願するようにと提案、返答は保留する。
寝ていると溝口先生が来て「作業を見ていると日系は駄目だ。明日から特別午前中だけにする。内地へ帰省したい者は帰れ」と。あの時の先生の言葉は忘れられない。早速帰るとするか。
夜数名で高橋学監の宅に行く。最初から志願する気持はなく断るつもりだった。話をしていると学監の眼が涙にうるんで来て何ともいえない顔になって来た。五十四歳の陸軍少将が僅か数人の学生を二時間説得し頑張って断られ続けた。併し今にも泣き出しそうになる学監の姿を眺めやると切ない気持になり、心は動揺した。
この途中で、満州国軍の陸軍中将になり、奉天の訓練学校の校長として赴任した梅村旧学監が訪ねて来て、我々が居るのを見ると軽く会釈し、挨拶だけして帰って行った。少佐の副官帯同の中将閣下の姿を見ると「金吾楼」と呼んでいた学院時代の面影はない。いいひとだったなあと思った。
補記
六月一日 生活や気持が暗かったので体までおかしくなっていたのではないかと思う。所謂希望のない日々と言うべきか。全然記憶にないが、日記にこんなことを書いているとこを見ると寮の部屋で煙草を喫ってはいけないことになっていたのか。
六月十一日 満軍の軍医学校の病院なんて何処にあったのか。診察に行った記憶もない。
六月二十五日 旧学藍梅村中将は私がシベリヤから帰国した昭和二十五年四月十七日舞鶴着の明優丸で一緒に帰られた。
注1:陸軍での懲罰の一つで 一日6合の麦飯と水だけで おかずは固形塩しか与えられない 寝具も無く 極めて重い懲罰であったので 3日間を限度とした
注:1925年「陸軍現役将校学校配属令」が公布され 一定の官公立の学校に 原則として義務的に陸軍現役将校が配属された
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あんみつ姫