成瀬孫仁日記(九)昭和十八年六月~昭和十八年九月
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あんみつ姫
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 485
六月
一日(火)
射撃場へ勤労奉仕に行く。全員で僅か五分の一の約五十名。市立病院へ行くため不参加。右肺門が悪いと血沈をとられる。二時頃川村先生回られる。五時頃米内先生回られる。米内先生の時には煙草の煙が出ていた。
六日(日)
六月一日に理由なく勤労奉仕をさぼった者は六月四日一斉に三日間の停学を命ぜられる。新任の高橋学監(陸軍少将)は軍隊における重営倉《注1》くらいに考えたのではないだろうか。壮重な調子で停学を申し渡したようであるが、申し渡された当人達は賞状をもらう気持がしたそうだから大したものだ。申し渡しが終わって帰っても公休三日とはすごいと喜んでいた。学院は大したものだ。白井教授日く「学院の建児四百の精鋭を率いて行けば天下に何かなさざるあらんや」と。皮肉か。
十一日(金)
朝から満軍《満州国軍》の軍医学校の病院へ行く。診断書はもらえなかった。レントゲンで二回見たが、胸は悪くないという。悪くないのに越したことはないから悪くないことにして置こう。
十八日(金)
いよいよ勤労奉仕隊が午後三時三十分の列車で出発するので昨日からその準備に忙殺されている。試験終了後、皆思いのまま過したが、一人また一人去って行き、今日また全員「北安」へ勤労奉仕に出発するとは一抹の淋しさを感じる。残留のため奉仕隊の荷物輸送係を命じられ、満系五名と駅まで馬車で荷物を運び、輸送列車に積込む。サラバ元気で。
十九日(土)
故郷の町役場から突然徴兵検査を本年受けるように言って来る。
二十日(日)
夜、徴兵検査の件で斉藤中佐の宅に行く。配属将校《注2》殿日く「放っとけば良い」と学校から何か手続をするらしい。
二十一日(月)
南寮から農園作業のために北寮に移る。
二十五日(金)
高橋学監が来り、四年生のみを集めて就職の話があり、結局三十名ばかり軍へ就職しなければならないから志願するようにと提案、返答は保留する。
寝ていると溝口先生が来て「作業を見ていると日系は駄目だ。明日から特別午前中だけにする。内地へ帰省したい者は帰れ」と。あの時の先生の言葉は忘れられない。早速帰るとするか。
夜数名で高橋学監の宅に行く。最初から志願する気持はなく断るつもりだった。話をしていると学監の眼が涙にうるんで来て何ともいえない顔になって来た。五十四歳の陸軍少将が僅か数人の学生を二時間説得し頑張って断られ続けた。併し今にも泣き出しそうになる学監の姿を眺めやると切ない気持になり、心は動揺した。
この途中で、満州国軍の陸軍中将になり、奉天の訓練学校の校長として赴任した梅村旧学監が訪ねて来て、我々が居るのを見ると軽く会釈し、挨拶だけして帰って行った。少佐の副官帯同の中将閣下の姿を見ると「金吾楼」と呼んでいた学院時代の面影はない。いいひとだったなあと思った。
補記
六月一日 生活や気持が暗かったので体までおかしくなっていたのではないかと思う。所謂希望のない日々と言うべきか。全然記憶にないが、日記にこんなことを書いているとこを見ると寮の部屋で煙草を喫ってはいけないことになっていたのか。
六月十一日 満軍の軍医学校の病院なんて何処にあったのか。診察に行った記憶もない。
六月二十五日 旧学藍梅村中将は私がシベリヤから帰国した昭和二十五年四月十七日舞鶴着の明優丸で一緒に帰られた。
注1:陸軍での懲罰の一つで 一日6合の麦飯と水だけで おかずは固形塩しか与えられない 寝具も無く 極めて重い懲罰であったので 3日間を限度とした
注:1925年「陸軍現役将校学校配属令」が公布され 一定の官公立の学校に 原則として義務的に陸軍現役将校が配属された
一日(火)
射撃場へ勤労奉仕に行く。全員で僅か五分の一の約五十名。市立病院へ行くため不参加。右肺門が悪いと血沈をとられる。二時頃川村先生回られる。五時頃米内先生回られる。米内先生の時には煙草の煙が出ていた。
六日(日)
六月一日に理由なく勤労奉仕をさぼった者は六月四日一斉に三日間の停学を命ぜられる。新任の高橋学監(陸軍少将)は軍隊における重営倉《注1》くらいに考えたのではないだろうか。壮重な調子で停学を申し渡したようであるが、申し渡された当人達は賞状をもらう気持がしたそうだから大したものだ。申し渡しが終わって帰っても公休三日とはすごいと喜んでいた。学院は大したものだ。白井教授日く「学院の建児四百の精鋭を率いて行けば天下に何かなさざるあらんや」と。皮肉か。
十一日(金)
朝から満軍《満州国軍》の軍医学校の病院へ行く。診断書はもらえなかった。レントゲンで二回見たが、胸は悪くないという。悪くないのに越したことはないから悪くないことにして置こう。
十八日(金)
いよいよ勤労奉仕隊が午後三時三十分の列車で出発するので昨日からその準備に忙殺されている。試験終了後、皆思いのまま過したが、一人また一人去って行き、今日また全員「北安」へ勤労奉仕に出発するとは一抹の淋しさを感じる。残留のため奉仕隊の荷物輸送係を命じられ、満系五名と駅まで馬車で荷物を運び、輸送列車に積込む。サラバ元気で。
十九日(土)
故郷の町役場から突然徴兵検査を本年受けるように言って来る。
二十日(日)
夜、徴兵検査の件で斉藤中佐の宅に行く。配属将校《注2》殿日く「放っとけば良い」と学校から何か手続をするらしい。
二十一日(月)
南寮から農園作業のために北寮に移る。
二十五日(金)
高橋学監が来り、四年生のみを集めて就職の話があり、結局三十名ばかり軍へ就職しなければならないから志願するようにと提案、返答は保留する。
寝ていると溝口先生が来て「作業を見ていると日系は駄目だ。明日から特別午前中だけにする。内地へ帰省したい者は帰れ」と。あの時の先生の言葉は忘れられない。早速帰るとするか。
夜数名で高橋学監の宅に行く。最初から志願する気持はなく断るつもりだった。話をしていると学監の眼が涙にうるんで来て何ともいえない顔になって来た。五十四歳の陸軍少将が僅か数人の学生を二時間説得し頑張って断られ続けた。併し今にも泣き出しそうになる学監の姿を眺めやると切ない気持になり、心は動揺した。
この途中で、満州国軍の陸軍中将になり、奉天の訓練学校の校長として赴任した梅村旧学監が訪ねて来て、我々が居るのを見ると軽く会釈し、挨拶だけして帰って行った。少佐の副官帯同の中将閣下の姿を見ると「金吾楼」と呼んでいた学院時代の面影はない。いいひとだったなあと思った。
補記
六月一日 生活や気持が暗かったので体までおかしくなっていたのではないかと思う。所謂希望のない日々と言うべきか。全然記憶にないが、日記にこんなことを書いているとこを見ると寮の部屋で煙草を喫ってはいけないことになっていたのか。
六月十一日 満軍の軍医学校の病院なんて何処にあったのか。診察に行った記憶もない。
六月二十五日 旧学藍梅村中将は私がシベリヤから帰国した昭和二十五年四月十七日舞鶴着の明優丸で一緒に帰られた。
注1:陸軍での懲罰の一つで 一日6合の麦飯と水だけで おかずは固形塩しか与えられない 寝具も無く 極めて重い懲罰であったので 3日間を限度とした
注:1925年「陸軍現役将校学校配属令」が公布され 一定の官公立の学校に 原則として義務的に陸軍現役将校が配属された
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あんみつ姫
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七月
四日(日)
学監が怒る。溝口先生が興奮する。朝起きない者がどしどし学監に殴られた。少将閣下が手前から手を出すとは驚いた。
六日(火)
米内先生が寮に泊り込み、作業に大改革を加える。日系の殆んどが勤労奉仕を止めて出ていく。
七日(水)
午後から夕方にかけて、スンガリーで野道会を行う。
夜学監に呼びつけられて取締不行届と叱られる。
十九日(月)
昨日市民病院に行くと日本に帰れと言われる。明日帰ることにする。
二十日(火)
哈爾浜を発つ。昨年まで帰省は制服、制帽で真面目であった。今年は登山帽に半ズボン、運動靴とはちょっと軽装過ぎた感がないでもない。
二十一日(水)
朝、新京着。晩の「ひかり」で釜山へ発つ。
補記
七月四日 北寮での農作業に皆出ないで、さぼってばかりいるので監督の先生方が怒ったのだろうと想像されるが、僅かな記憶しかない。第一米内先生や川村先生はいくら怒ってみても眼が笑っているのだから、どうにも仕様がないだろう。
八月
二十六日(木)
早朝、六時三十五分小豆島を発つ。十六時二十八分高松発宇高連絡船。夜二十三時三十五分岡山より下関行き不定期急行に乗車。
二十七日(金)
朝十時頃、下関にて関釜連絡船乗船。波ゆるやかに高く「ローリング」激し。
二十九日(日)
十二時四十分哈爾浜着。すごく涼しいのに驚く。熱い紅茶がおいしかった。
三十一日(火)
哈爾浜地区航空大会あり。学院東側の飛行場に無慮「八万人」集まる。「隼」《注1》もいた。
九月
二日(木)
九月二日より九月七日まで北寮の北方にある満州第九二部隊で兵営宿泊。習志野の伝統ある騎兵聯隊で「ノモンハン」で全滅した東部隊だと。
朝五時半起床。点呼。朝食まで二時間余り現役の兵隊相手に銃剣術、馬屋の掃除、馬糞と小便のアンモニヤの臭いの中で馬糞をモッコに入れて担ぎ出す。朝食を急いでかき込み。食器洗いをすませる。九時より午前中の教練、演習が始まる。昼まで練兵場を這い回り、昼食後一時半より午後の課業。御丁寧にも夜は毎晩のように夜間演習。助教の軍曹が教官である幹侯の少尉に「こりゃ兵隊よりもひどい。ちょっとやりすぎじゃありませんか。この学生の相手をしていると、こちらの体がもちませんわ」と言うと少尉殿日く「この学生達は恐らく今年繰上げ卒業で関東軍だ。どうせ皆幹侯《注2》だから良い経験だ」と。
注1:陸軍の戦闘機
注2:陸軍の幹部候補生
四日(日)
学監が怒る。溝口先生が興奮する。朝起きない者がどしどし学監に殴られた。少将閣下が手前から手を出すとは驚いた。
六日(火)
米内先生が寮に泊り込み、作業に大改革を加える。日系の殆んどが勤労奉仕を止めて出ていく。
七日(水)
午後から夕方にかけて、スンガリーで野道会を行う。
夜学監に呼びつけられて取締不行届と叱られる。
十九日(月)
昨日市民病院に行くと日本に帰れと言われる。明日帰ることにする。
二十日(火)
哈爾浜を発つ。昨年まで帰省は制服、制帽で真面目であった。今年は登山帽に半ズボン、運動靴とはちょっと軽装過ぎた感がないでもない。
二十一日(水)
朝、新京着。晩の「ひかり」で釜山へ発つ。
補記
七月四日 北寮での農作業に皆出ないで、さぼってばかりいるので監督の先生方が怒ったのだろうと想像されるが、僅かな記憶しかない。第一米内先生や川村先生はいくら怒ってみても眼が笑っているのだから、どうにも仕様がないだろう。
八月
二十六日(木)
早朝、六時三十五分小豆島を発つ。十六時二十八分高松発宇高連絡船。夜二十三時三十五分岡山より下関行き不定期急行に乗車。
二十七日(金)
朝十時頃、下関にて関釜連絡船乗船。波ゆるやかに高く「ローリング」激し。
二十九日(日)
十二時四十分哈爾浜着。すごく涼しいのに驚く。熱い紅茶がおいしかった。
三十一日(火)
哈爾浜地区航空大会あり。学院東側の飛行場に無慮「八万人」集まる。「隼」《注1》もいた。
九月
二日(木)
九月二日より九月七日まで北寮の北方にある満州第九二部隊で兵営宿泊。習志野の伝統ある騎兵聯隊で「ノモンハン」で全滅した東部隊だと。
朝五時半起床。点呼。朝食まで二時間余り現役の兵隊相手に銃剣術、馬屋の掃除、馬糞と小便のアンモニヤの臭いの中で馬糞をモッコに入れて担ぎ出す。朝食を急いでかき込み。食器洗いをすませる。九時より午前中の教練、演習が始まる。昼まで練兵場を這い回り、昼食後一時半より午後の課業。御丁寧にも夜は毎晩のように夜間演習。助教の軍曹が教官である幹侯の少尉に「こりゃ兵隊よりもひどい。ちょっとやりすぎじゃありませんか。この学生の相手をしていると、こちらの体がもちませんわ」と言うと少尉殿日く「この学生達は恐らく今年繰上げ卒業で関東軍だ。どうせ皆幹侯《注2》だから良い経験だ」と。
注1:陸軍の戦闘機
注2:陸軍の幹部候補生
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雑感
手榴弾及び擲弾筒の実弾演習
塹壕《注1》の中に入って本物の手榴弾を投げる。物すごい爆発音と共にヒューと破片が頭上をかすめる。皆固唾を呑んで壕に身を伏せる。何とも言えないスリルを味わった。特に立石(現川野)秀基が前から始めれば一、二、三で投げられるのを後ろから始めたものだから一、二、三、四とやり、なかなか投げないので教官の少尉が早く投げろとあわてる一幕があった。その手榴弾は壕の直ぐ近くで爆発し、音がひときは高かった。力の強そうなのを選んで投擲したが、投げるというより転がるという趣きであまり飛ばなかった。擲弾筒も二百米くらい前方を狙う。弾丸がゆっくりと点になって飛んで行くのが綺麓に見えた。
毒ガス
本物の毒ガスを使用して演習。クシャミ性と催涙性のガス。何でもないようだが、苦しいことおびただしい。学校のガスマスクはどうもきかないらしい。
強行陣地攻撃
三粁くらい手前から攻撃発起。馳足、匍匐前進等々体がクタクタになる。
演習場は部隊と学校の北寮との問にある野原であったが、一度も来たことのない所で、満人の古い墓地があり、土饅頭が崩れ棺が見えるのも無気味だった。
注1:戦争で歩兵が砲撃や銃撃から身を護る為に使った穴や溝
手榴弾及び擲弾筒の実弾演習
塹壕《注1》の中に入って本物の手榴弾を投げる。物すごい爆発音と共にヒューと破片が頭上をかすめる。皆固唾を呑んで壕に身を伏せる。何とも言えないスリルを味わった。特に立石(現川野)秀基が前から始めれば一、二、三で投げられるのを後ろから始めたものだから一、二、三、四とやり、なかなか投げないので教官の少尉が早く投げろとあわてる一幕があった。その手榴弾は壕の直ぐ近くで爆発し、音がひときは高かった。力の強そうなのを選んで投擲したが、投げるというより転がるという趣きであまり飛ばなかった。擲弾筒も二百米くらい前方を狙う。弾丸がゆっくりと点になって飛んで行くのが綺麓に見えた。
毒ガス
本物の毒ガスを使用して演習。クシャミ性と催涙性のガス。何でもないようだが、苦しいことおびただしい。学校のガスマスクはどうもきかないらしい。
強行陣地攻撃
三粁くらい手前から攻撃発起。馳足、匍匐前進等々体がクタクタになる。
演習場は部隊と学校の北寮との問にある野原であったが、一度も来たことのない所で、満人の古い墓地があり、土饅頭が崩れ棺が見えるのも無気味だった。
注1:戦争で歩兵が砲撃や銃撃から身を護る為に使った穴や溝
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九月
九日(木)
文教部主催、初めての国立大学総合演習が新京であった。参加人員二五〇〇名。四年生のみ参加。朝六時三十分新京駅下車。行軍で南新京駅近傍の敷島高等女学校に向う。約一里半。途中大雨、びしょ濡れになる。十三時三十分行動開始。南湖、建国神廟を経て畜産獣医大学より南方約二里の所で遭遇戦。高梁畑を横ぎって行く。機関銃が重い。死ぬ思い。晩、歓喜嶺の分水嶺の線まで退却。退却時後衛《注1》となる。途中また大雨に会いびしょ濡れとなる。夜に陣中勤務歩哨《注2》となる。濡れた服を乾かす暇もなく炭火を囲んでごろ寝。寒さに震える。朝五時に起されて斥候《注3》に出される。途中で一度軽機《軽機関銃》の空砲をバリバリ撃つとスウッとした。
大同大街、法政大学前で分列行進。後解散。昼食は医大。夕食は新京商業。
夜新京発十時二十五分の列車で帰哈。その間自由時間あり。
十五日(水)
就職の割当発表あり。日系、関東軍二十五名、官庁八名、協和会十名、外務省五名、満鉄二名、会社十名、満系、官庁五名、会社五名。
北方亜細亜研究会の引継ぎのため白井長助教授宅を訪問。例によって例の如く愉快なり。
十八日(土) 晴れ時々曇り
防空日。忠霊塔の秋の大祭。市街はカーキ色のゲートルで一杯。私の就職先は八〇〇部隊に決定したと。
二十日(月) 晴れ風砂烈し
今日より建大《建国大学》の尾上正男教授、国際法集中講義一週間。
朝登校途中「ツッカケ」の下駄が割れる。裸足で歩いていると皆変な顔をして見る。寒風が吹いているのに素足に土が暖かい。
補記
九月十五日 就職の割当人員が最終的にどうなったかは私は覚えていない。併し、徴兵延期の停止、入隊が決まってからは何処に就職しようと関係ないと無関心であったように思う。
注1:行進部隊の後方に配置 敵の奇襲から主力部隊の安全を確保する警戒部隊をいう
注2:警戒、監視の任つく兵
注3:敵状を偵察する任務
九日(木)
文教部主催、初めての国立大学総合演習が新京であった。参加人員二五〇〇名。四年生のみ参加。朝六時三十分新京駅下車。行軍で南新京駅近傍の敷島高等女学校に向う。約一里半。途中大雨、びしょ濡れになる。十三時三十分行動開始。南湖、建国神廟を経て畜産獣医大学より南方約二里の所で遭遇戦。高梁畑を横ぎって行く。機関銃が重い。死ぬ思い。晩、歓喜嶺の分水嶺の線まで退却。退却時後衛《注1》となる。途中また大雨に会いびしょ濡れとなる。夜に陣中勤務歩哨《注2》となる。濡れた服を乾かす暇もなく炭火を囲んでごろ寝。寒さに震える。朝五時に起されて斥候《注3》に出される。途中で一度軽機《軽機関銃》の空砲をバリバリ撃つとスウッとした。
大同大街、法政大学前で分列行進。後解散。昼食は医大。夕食は新京商業。
夜新京発十時二十五分の列車で帰哈。その間自由時間あり。
十五日(水)
就職の割当発表あり。日系、関東軍二十五名、官庁八名、協和会十名、外務省五名、満鉄二名、会社十名、満系、官庁五名、会社五名。
北方亜細亜研究会の引継ぎのため白井長助教授宅を訪問。例によって例の如く愉快なり。
十八日(土) 晴れ時々曇り
防空日。忠霊塔の秋の大祭。市街はカーキ色のゲートルで一杯。私の就職先は八〇〇部隊に決定したと。
二十日(月) 晴れ風砂烈し
今日より建大《建国大学》の尾上正男教授、国際法集中講義一週間。
朝登校途中「ツッカケ」の下駄が割れる。裸足で歩いていると皆変な顔をして見る。寒風が吹いているのに素足に土が暖かい。
補記
九月十五日 就職の割当人員が最終的にどうなったかは私は覚えていない。併し、徴兵延期の停止、入隊が決まってからは何処に就職しようと関係ないと無関心であったように思う。
注1:行進部隊の後方に配置 敵の奇襲から主力部隊の安全を確保する警戒部隊をいう
注2:警戒、監視の任つく兵
注3:敵状を偵察する任務
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あんみつ姫
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日本女性像(改造九月号から)
田園より一足先にあがりたる
妻が炊の煙立つ見ゆ
わが妻の代掻き馬の肉落つと
犒い哀し汝も痩せし
召しうけし後の日のためわが妻も
ひたすらなれや田を鋤き習う
農村のお嫁さんの条件
身体が丈夫である。働き手である。頭が良い。
農村女性の労働過度を如何にして扱うか。特に産前産後の問題。
産前 (1)休養全然無き者 九七%
(2)一日ないし二十一日休養を取る者 三%
(3)二十二日以上 一%
産後 (1)一週間以内 七三%
(2)二週間以内 一五%
(3)三通問以内 七%
現代科学では産後四~五週間の安静を要する。
農村人口は一四一四万(昭和五年)
内訳は、男 七四〇万(五四・八%)
女 六四〇万(四五二一%)
戦争のため男子減少、女子増加が著しく、また老衰化傾向大。
田園より一足先にあがりたる
妻が炊の煙立つ見ゆ
わが妻の代掻き馬の肉落つと
犒い哀し汝も痩せし
召しうけし後の日のためわが妻も
ひたすらなれや田を鋤き習う
農村のお嫁さんの条件
身体が丈夫である。働き手である。頭が良い。
農村女性の労働過度を如何にして扱うか。特に産前産後の問題。
産前 (1)休養全然無き者 九七%
(2)一日ないし二十一日休養を取る者 三%
(3)二十二日以上 一%
産後 (1)一週間以内 七三%
(2)二週間以内 一五%
(3)三通問以内 七%
現代科学では産後四~五週間の安静を要する。
農村人口は一四一四万(昭和五年)
内訳は、男 七四〇万(五四・八%)
女 六四〇万(四五二一%)
戦争のため男子減少、女子増加が著しく、また老衰化傾向大。
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九月
二十一日(火)
関東軍参謀長笠原中将、山下少佐参謀を帯同して来校。山下少佐と懇談会あり。就職のことなり。充分考えさせられることあり。
二十二日(水)
午後、身体検査。夜教練査閲当日の学課のための教題、作戦用図を渡される。
卒業前にロシヤ語階梯三百頁、十五日間で読み直す予定。今更なんて思うなかれ。
二十三日(木)
布団に日光浴させる。
二十四日(全)雨 寒し
第二十三回学院創立記念日。授業あり。学生の徴兵延期理工科を除いて停止する。
創立記念式に参列して感あり。
二十五日(土)晴れ、寒し
午前八時玄関前集合。査閲準備のための野外演習。練兵場の集団堆土付近に向う。一日中引き回されていささか伸び気味。
教練宿題、晋魏陽作戦における大隊の陣地攻撃。提出。
二十六日(日)快晴
日曜日というのに練兵場に引き出される。毎日、毎日教練。併し良く見ると教練をしている時間よりも遊んでいる時間の方が多いとなると大学当局の無能の底が知れない。
風呂場に行き、冷水の中に飛び込んで体をこすると一日の不愉快が吹き飛ぶ。
二十八日(火)雨天
教練査閲。グライダー及び射撃。
朝六時学校集合。両道を三果樹へ。午前は射撃場へ行き八時半より始まる。成績は学院はびり。工大と中学が良かった。午後、明日の行軍準備。就寝七時三十分。
二十九日(水)快晴
起床二時。洗面。食堂にて馬鈴薯のふかしたのを食べ、三時四十分玄関前集合。四時、全校の職員、学生に見送られて出発。南寮に泊った査閲官、行徳中将及び院長は馬で行く。三貫目の砂嚢を背嚢に入れ、外套と銃を持つと相当重い。スターリーハルビン、三果樹を経て午前七時半北寮へ帰る。釣四里半。
北寮の東の練兵場にて査閲あり。課目は四年生は小隊の陣地攻撃、銃剣術、小哨の配置、図上作戦、六時頃終了。現地にて査閲官、行徳中将の話「もっと頑張り、全体に徹せよ」、講評「おおむね良好」馬鹿にしている。
感心したこと。
査閲官、行徳中将が皆の動作がにぶいと自ら銃を取って匍匐前進、躍進後の射撃の動作を土の上を這い回って模範を示したのには驚いた。
補記
九月二十四日 学院創立記念日に授業をしている。昨年までのことを考えると逼迫した時代の変化を感じさせる。
この頃教練のため作戦用図を書かされたり、宿題に晋魏陽作戦における大隊の陣地攻撃案とかを提出させられたが、我々兵隊要員、よくても最末端の下級将校には関係のないこと、来るべき教練査閲の点数稼ぎの報告用の作業としか思われない。
(成瀬孫仁日記(十)につづく)
二十一日(火)
関東軍参謀長笠原中将、山下少佐参謀を帯同して来校。山下少佐と懇談会あり。就職のことなり。充分考えさせられることあり。
二十二日(水)
午後、身体検査。夜教練査閲当日の学課のための教題、作戦用図を渡される。
卒業前にロシヤ語階梯三百頁、十五日間で読み直す予定。今更なんて思うなかれ。
二十三日(木)
布団に日光浴させる。
二十四日(全)雨 寒し
第二十三回学院創立記念日。授業あり。学生の徴兵延期理工科を除いて停止する。
創立記念式に参列して感あり。
二十五日(土)晴れ、寒し
午前八時玄関前集合。査閲準備のための野外演習。練兵場の集団堆土付近に向う。一日中引き回されていささか伸び気味。
教練宿題、晋魏陽作戦における大隊の陣地攻撃。提出。
二十六日(日)快晴
日曜日というのに練兵場に引き出される。毎日、毎日教練。併し良く見ると教練をしている時間よりも遊んでいる時間の方が多いとなると大学当局の無能の底が知れない。
風呂場に行き、冷水の中に飛び込んで体をこすると一日の不愉快が吹き飛ぶ。
二十八日(火)雨天
教練査閲。グライダー及び射撃。
朝六時学校集合。両道を三果樹へ。午前は射撃場へ行き八時半より始まる。成績は学院はびり。工大と中学が良かった。午後、明日の行軍準備。就寝七時三十分。
二十九日(水)快晴
起床二時。洗面。食堂にて馬鈴薯のふかしたのを食べ、三時四十分玄関前集合。四時、全校の職員、学生に見送られて出発。南寮に泊った査閲官、行徳中将及び院長は馬で行く。三貫目の砂嚢を背嚢に入れ、外套と銃を持つと相当重い。スターリーハルビン、三果樹を経て午前七時半北寮へ帰る。釣四里半。
北寮の東の練兵場にて査閲あり。課目は四年生は小隊の陣地攻撃、銃剣術、小哨の配置、図上作戦、六時頃終了。現地にて査閲官、行徳中将の話「もっと頑張り、全体に徹せよ」、講評「おおむね良好」馬鹿にしている。
感心したこと。
査閲官、行徳中将が皆の動作がにぶいと自ら銃を取って匍匐前進、躍進後の射撃の動作を土の上を這い回って模範を示したのには驚いた。
補記
九月二十四日 学院創立記念日に授業をしている。昨年までのことを考えると逼迫した時代の変化を感じさせる。
この頃教練のため作戦用図を書かされたり、宿題に晋魏陽作戦における大隊の陣地攻撃案とかを提出させられたが、我々兵隊要員、よくても最末端の下級将校には関係のないこと、来るべき教練査閲の点数稼ぎの報告用の作業としか思われない。
(成瀬孫仁日記(十)につづく)
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