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村松の庭訓を胸に《増補版》 苦難のルソン山岳州(抄)

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通常 村松の庭訓を胸に《増補版》 苦難のルソン山岳州(抄)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/3/24 7:46
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 苦難のルソン山岳州 (抄)

 十一期  金 子  博

 翌日より通信器材等一式を、各人が分離分担し、個人装備と一緒に背負って、狭隘悪路の峻険な山岳行に入った。当初から食糧難で肉体的に皆疲労していたが、軍人精神と云おうか其の気力や、まさに意気軒昂たるものがあった。

 然し急峻な悪路の登り降りに加えて、雨季に入って居り、道は泥濘(ぬかる)み谷川の水は溢れて激流となり、足を取られて其の儘下流にて斃れる者も出る有様となった。更に地上許りでなく、ジャングル地帯では、上方から山蛭が音もなく襲って来た。此奴は衿首だけでなく露出している手や足にも吸いつき、気付いた時は既に遅く丸々と太って中々とれない。そして天幕を通す豪雨の中、飯盆炊さんでは水分を含んだ松の木は燃えにくく (通常は松脂を含み燃え易い)煙がやけに目にしみて痛い。漸く出来た雑炊 (米の量は小匙一杯で他は南方春菊) を食べる水膨れの腹は直ぐに凹む。体力は一段と衰えたが、然し我々は頑張った。そして更に奥地に向い、バグダンを過ぎて二、三日後から、多数の避難邦人と行き交う。彼等は何れの地に向うのだろう?比の辺では原住民のバハイ(民家) は見当らず、遠くに散見された。私の主食は南方春菊と、時折入手する薩摩芋と其の葉であり、他の隊員も大同小異であった。尚ゴキブリは皆無、蛇は二、三度見たが逃げられた。家鼠は食べたいと思い、短小銃で狙ったか果せなかった。そして米も底を尽き、遂に雑草で露命を繋ぐ状態となり、大半が半病人となった。

 其処で小隊長は完全病人組と元気組(半病人) とに編成し、器材のピストン輸送に切替えた。方法は諸兄先刻御承知の様に、最初は目的地四粁迄個人装備を夫々が運搬し、其処で病人組が全員の装備を監視し、元気組が現地迄引返し、通信器材を搬送するのである。

 又此の辺は細道の左右に、栄養失調やマラリヤ、心臓脚気、其の他の病に確り行き繁れた無数の将兵が横たわり、其の周囲には蝿が群がり、死臭が強く鼻を突いた。中には気息奄々乍らも眼を此方に向けて、力なく手を伸ばす顔は土気色にむくんでいた。無論周囲には蝿が群っているが、追う体力も気力もない。残念乍ら我々はそんな彼等を見ても、何の感懐も持てない過労と栄養失調状態にあった。もはや物の哀れや悲愴感等はなく明日は我が身、救助や穴を掘って埋めてやる体力はもう離れてなかった。正に餓鬼道、地獄と云うべきか。

 時は恰も昭和二十年七月初旬の頃と思う。此処で約三日間滞留したが、仲間の三、四名が、栄養失調とマラリヤ等のために病没し、無念の涙をのんだ。

 我々は遺体に合掌し比の地を離れた。相変らずピストン輸送の毎日で、落伍すれば其れで終焉である。又脱走も一匹狼と同じで、ゲリラや原住民にやられる。如何に苦しくとも集団で行動しなければならない。しかし私には全く食糧の持合せがなく、他の元気組も日に日に衰え其の半数が完全病人となった。

 そこで小隊長は手足まといになる病人を切離す為、彼の地を離れて二週間位の後、本部から命令があったと称し 「小隊は特別斥候隊の任につく。依って病人は各集団を作って勝手に自活せよ」 と全員に下命した。そして私は特別斥候隊に入り、此れ迄行を共にした三名の一等兵は極度の衰弱の為、新に病人組となり翌朝小隊から離脱して行った。然し彼等は手持の食糧、塩もなく行く先には死あるのみで、其の足どりは重く、後姿は心なしか生気がなかった。

 元気組も同朝出発、対向の山に向うべく山を降り、深い谷を渡り又登る。然し其の時に思ったのだが、無線器材がない、何処で処分したのか? 私は勿論のこと、他の隊員も一人として背負っていない。それは兎も角私の衰弱もかなり激しく皆についていけず、隊との距離が遠のき急坂を喘ぎ乍ら、漸く宿営中の隊に到着した。

 頃は夕刻、小隊長以下全員が冷たく私を睦める。次いで小隊長の罵声が私に飛ぶ 「貴様何をモタモタしして居る。貴様の様な病人は手足まといだ。此処から直ぐ勝手に立去れ」 と。私は歯をくいしぼって、漸く辿りついた直後のこの雑言、励ましの言葉を期待したのに……一瞬頭に血が上る思いだったがぐっと堪えた。

 もう此の上官に従っても無理であると悟り、それならば先発の病人組に入り、其処で彼等と自活し何としても健康を恢復しようと決心し、私は小隊長に 「帰ります」の「言を残し、重い足を引ずり乍ら山を降った。衰弱して居るとは云え気分がまだ失せず、重い足を引ずり乍ら先刻通った坂道を急いだ。おそらく病人組はそう遠く迄歩ける筈がない、今から後を追っても合流できると判断した。そして、谷川をよこぎり本道に出て其処を左折し約三百米位行くと、仲間の一等兵がぐったりして路傍に横臥しているのに出合った。

 彼等に声をかけると、力のない顔に微笑を浮かべて迎えて呉れた。私はここで今日一日の経過を説明し、病人集団に入るべく皆の後を追って来たのだと話した。彼等は納得しむしろ喜んで呉れた。何故ならば此の集団の中では、私が一番余力があったからだ。そして私も其処へ横になり、今日の昼食兼夕食用の小さな薩摩芋を二本食べ、そして彼等と明日以後の行動と、定住地選定の検討を行った。話合いは階級を離れ、民主的に進められた。私は従来の転進の経験から(一)本道の近傍で水場に近い所、(二)展望がきき万一の時避難できる所、(三)バハイ(民家) の空家探し 但し原住民を追い出して占拠するのは不可(原住民等の反感による夜襲、奇襲がある)、(四)薩摩芋畑に近い所等を提案したところ、大体その線で落着いた。

 翌朝遅く此処を食事なしで出発した。水場があれば水を飲む、峻険な山中での登り降りは病人にとっては苦痛であるが、然し座して死を待つ訳には行かない。路の両側には死屍累々として鬼気迫る。当病人集団始め通過して行く他部隊、或いは他の集団も声なく、無表情に重い足を引きずり乍ら歩く。既に遺体を葬るとか、合掌し其の御冥福を祈る等の正気の沙汰は失せている。否、各人唯歩くだけで精一杯なのだ(今にして思えば大変申訳なく呵責の念に堪えず)。

 数日後見晴しのよい台地に立つ。そして右下の谷に向う細道を発見し、誰ともなくその道を降りたところ、幸な事にバハイが見えて来た。全員が小銃に着剣し警戒し乍らバハイに接近して見ると、誰も居なかった。家の周囲も探ったが人気はなく、近くに小さな川が有り、其処を更に降りて深い谷に達した。又小川を過ぎて百米程行くと薩摩芋畑に出た。然し畑はかなり荒らされていたがよく探せば我々七人の食には事欠かぬと思われたので、此処を宿所と決めた。当初は原住民の襲撃に備え、着剣銃を抱いての起居であったが,何の襲撃もなく四、五日後には警戒心も緩んで来た。
 かくして我々病人は互いに扶け合い乍ら、終戦迄一人の脱落もなく過ごすことが出来た。

 合掌

 (昭六三・一〇-第五号収載)


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