村松の庭訓を胸に《増補版》 シベリヤ回顧(抄)
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シベリヤ回顧(抄)
十一期 井 上 隆 晴
入ソして最初のシベリヤの冬は、想像以上にわれわれにとって大敵であった。死の世界を思わせる酷寒の大自然は、一寸の容赦もなくわれわれの前にふさがり、冷酷そのものである。日本人の多くが空腹と寒さにあえなくこの世を去ったのもむべなるかなである。最初の冬は、大隊の大多数が伐採作業に従事した。直径一mもある唐松やモミの原始林で、二人用の鋸とタポール (手斧) で赤軍やソ聯人が使うペーチカ用の薪を作る作業は、大変な重労働である。寒さのため可能な限りのものを身につけておれば、体は自由に動かせない。その伐採場の往復路は凍りついた雪。道らしい道はない。その往復路の途中に一つの変化があらわれだしたのである。毎日毎日四、五〇名の作業員が長さ二m、幅二 五m、深さ二 五mくらいの穴を掘りつづけているのだ。そしてその穴は、一方の端から一晩毎にどんどん跡かたなく埋められている……。ある朝、一人が指さして 「あれは何だ」 と叫んだ。一同が眼をやるといつも穴を掘るあたりの雪の上に黄色いものが山積みしてある。丁度ハニワの人形を無造作に積みあげたようだ。近づいて行くうちに一瞬背すじが硬直した。同胞の死体である!テルマ病院でなくなった死体は丸裸にされ、冷凍人間のようにカチカチに凍ったままで夜のうちにソ連人の囚人がトラックで運び、毎夜埋められていたのが、たまたまその日、穴が不足したのかわれわれの眼にとまってしまった。誰一人口をきく者もなく重い足を伐採場へ運ぶ。以後数回黄色の山を見たことがある。
丁度その頃私はある日週番についた。当時まだ旧軍隊の階級は生きており、規律もある程度までは維持された時代である。作業隊員を送り出し、残留者を調べると五六人の病人が冷たい大部屋の板の上に横たわっている。その中に内野という一等兵がいた。極度の栄養失調で顔はむくみ、顔色悪く、私の眼にも重態であることがはっきりと読みとれた。私は早速秋田県出身のU軍医に連絡する。テルマ病院は超満員で全然受けつけないという。軍医は脈をとって首をかしげる。瞳孔はうつろである。何とかしなくては……。軍医は私の強引な願いをきいて貴重な注射を一本うつて部屋を出た、内野は既に意識もうろう。私は収容所の各部屋からありたけの薪を集めてペーチカを焚き、ふとん代りに外套をかける。時にうわごとをいう。昼前の巡視のとき 「シャツクリ」 症状を現しているのを発見し、私は駄目だと直感した。軍医を呼びに走り出た。部屋に帰ってみて私は息を呑んだ。内野は、残された力をふりしぼって、広い、うす暗い床の上をはい廻っている。口からもれる声は確に妻子を呼んでいる。私は何をなすべきか?……。私は助け起こそうとした。軍医がとめた。そして内野は力つきた……。私は雪をとかした水を、木で造ったスプーンで口に入れた。ふりかえると、医薬品の殆ど無い診察用の鞄をさげた軍医の姿が私の眼にぼんやりと霞んで写っていた……。
その夜内野と同姓の僧職出身者に読経を願い、数人の関係者で通夜したのが私にできた唯一のつとめであった。収容所での通夜は前後を通じてそれが最後であった。
テルマ北部に眠る多くの同胞は、名も知られず地下一五m、万年氷の下に今もなお静かに横たわっていることだろう。
(昭四三・二!むらまつ第四号から転載)