村松の庭訓を胸に《増補版》 「終わりなき追悼」
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村松の庭訓を胸に《増補版》 (編集者, 2011/3/23 9:21)
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- 村松の庭訓を胸に《増補版》 あとがき (編集者, 2011/3/28 8:33)
編集者
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九、終わりなき追悼
--現地有志による「戦没陸軍少年通信兵慰霊碑を守る会」 の誕生
このように、冊子「村松の庭訓を胸に」刊行の反響は、当初の私どもの予想を超える分野まで急速に広まって行きましたが、更に二十二年秋、突然、最大の吉報が私どもの許に飛び込んできました。即ち、前記伊藤氏は、村松碑の洗浄に関連し 「村松碑を守ることは我々地元の務めである」とおっしゃって有志を募り善処することを約束して下さっていたのですが、これが現実のものとなり、現地に「戦没陸軍少年通信兵慰霊碑を守る会(仮称)」が結成され、十月十一日の 「慰霊の日」 に、その 「慰霊の集い」 を営むことになった旨伝えてこられたのです。
式典は、急なことで連絡が間に合わず少通関係者の出席は数名に止まりましたが、地元の方々四十数名参列のもと、碑前に於いて愛宕神社の神官によって厳粛に営まれました。
ついては、その席上、私は、「慰霊の言葉」を述べる機会を得ましたので、これを次に掲げます。
慰霊の言葉
本日、ここに「慰霊の目」を選び、村松在住の有志の方々による慰霊の式典が挙行されるに当たり、旧村松陸軍少年通信兵学校生徒の一人として、謹んで戦没先輩の御霊に対し、追悼の誠を捧げるともに、一言、所信を申し述べます。
思えば、昭和四十五年の十月十一日、此処村松に本慰霊碑が建立されて以来、毎年の有志による参詣会や定期的な全国少通連合会の手による合同慰霊祭が、夫々厳粛に営まれてきましたが、その後、年を経るに従って関係者も次第に高齢化し、遂に平成十三年の合同慰霊祭を最後に総ての公式な慰霊祭はその幕を閉じ、以後は個々の自主慰霊に委ねられることになりました。従って、残された私ども関係者にとって現在の最大の悩みは、今後の碑の維持や管理をどうするか、にあったと言って過言ではありません。
然るに、こうした現状を前に、去る六年前の学校正門の復元、昨年秋の碑の洗浄等々、戦没者の慰霊と顕彰に数々のご業績を重ねてこられた前村松町長であり、現五泉市長でもあられる伊藤勝美様が、この程 「村松少通校の歴史を後生に語り継ぐことは我々現地に住む者の務めである」 とのお考えのもとに、同志を糾合され、見事、今日の慰霊祭挙行に漕ぎ付けてくださったことは、真に有難く、この碑に眠る御霊のお喜びはもとより、全国に散在されるご遺族の皆様も、さぞかしご安心なさったことと存じ、ここに、旧少通関係者を代表し、伊藤様並びに氏を支えてお力添えを賜った有志の方々のご厚誼に対し哀心より御礼申し上げます。
而して、陸軍少年通信兵は昭和八年、東京杉並の陸軍通信学校内に生徒隊として一期生が誕生して以来、終戦までにその期数は十三を数えましたが、この村松碑には村松少通校に学んだ十一期生にとどまらず先の大戦で戦没した全期にわたる少年通信兵の御霊八百十二柱が合祀されております。また、少年通信兵の慰霊碑としては、この村松碑の外に九州の平戸島碑がありますが、これは五島列島沖で遭難した十一期生を悼んで建立されたもので、碑の本体は正にこの 「村松碑」 にあり、この意味においても、村松碑が今回永久安堵されることになった意義は真に大きなものがあると存じます。
また、こうした中で、私は少年兵教育のメッカと言われた村松少通校と地元村松の関わりには、何か格別なものがあったように感じております。
村松少通校では、高木校長の 「少年兵は純真であれ」 の訓育方針の下に、「厳しい軍律の中における慈しみの教育」 が施され、これが明治二十九年来の略半世紀にわたった軍都としての威容と伝統を誇る村松町民の気風にマッチして、町当局を始めとする官民一体となった暖かいご庇護に結びつき、十一期生はその 「庭訓」 を胸に勇躍出陣して行ったのだと思います。---尤も、それは、戦後明らかになったように、出航直後の魚雷攻撃による五島列島沖並びに済州島沖での遭難、上陸した比島が待ち受けていた 「生き地獄」 にも等しい飢えとマラリア更に 「異国の丘」 の歌そのままのシベリア抑留による苦難等々、十一期生の辿った道は、南に北に、私共の想像を遥かに超える厳しいものでありましたけれども………。
では、何故、当時十五、六歳の少年たちは、それまでの平穏な学業を放棄してまで、敢えて、こうした厳しい「志願」 の途を選んだのでしょうか。-ー-私は、それは、幼くあっても、あくまで純粋に祖国を信じ、祖国存亡の危機に臨んで、進んで 「昭和の白虎隊」 の気概を持って国を護ろうとした日本男子としての本懐であり、それが、まさしく当時の少年たちが選んだ 「十五歳の決断」 だった、と思います。
ここにおいて、私は、これらの史実を明らかにすべく、同期の佐藤嘉道君と協力し、これまでに小冊子 「西海の狼、穏やかに」 と 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」 の二書を公にしましたが、 「村松の庭訓を胸に」 は、予想以外の反響を呼び、版を重ねたほか、メロウ伝承館によってインターネット上に全文が掲載され、その閲覧者は既に四千名を超えました。また、昨年秋の十三期生による慰霊祭の模様は新潟明訓高校の放送部の諸君によって 「終わりなき追悼」 のタイトルでDVD化され、この夏の宮崎の全国総合文化祭では見事「優秀賞」 の栄冠を収められました。
これは真に有難いことで、私は、最近の国際情勢がまたまたキナ臭さを漂わせ始めたいま、昔のことなど、全く顧みない風潮の中で、現代の若い人々が、こうしたことに関心を持ち、史実を正しく見つめ直すことによっていのちの大切さと平和の貴重さに気付いて頂けたら、これに勝る喜びはありません。
私は、八十路を超えたいま、十一期生と私たちと僅か半年の入校時期の差が、その後の人生にこのような大きな違いを齎した運命の過酷さに打たれるとともに、益々鎮魂の思いを深くし、これからも生ある限り、生き残った者の務めとして、これらの史実を更に正確に現代に語り継いで行くことをお誓い申し上げます。
とまれ、今日、村松の皆様のお力添えで、碑に安泰の途が拓かれました。)
在天の御霊よ、どうぞ安らかにお眠りください。そして、貴方がたにとり、また、私どもにとっても 「心のふるさと」 である此処村松を末永くお守りください。
--以上、式典に臨み些か所信を申し述べ、謹んで私の追悼の言葉と致します。
平成二十二年十月十一日
旧村松陸軍少年通信兵学校
第十二期生徒 大 口 光 威
次いで、この式典の後、 「慰霊碑を守る会」 から私どもに 「今後は、この慰霊碑の由来などを広く地域に伝えるとともに地元有志でお守りして行きたい」 「この慰霊の集いを契機として少通関係の皆様と五泉市の交流が益々発展することを願っている」 (注・いずれも原文のまま)との手紙が届きました。
思えば、この慰霊碑が眠る村松公園は、日露戦争を記念して設けられた軍都村松の象徴であり(前掲の 「軍都村松の悼尾を飾る村松少通校」 及び巻末の写真を参照)、其処に建つ忠霊塔や忠魂碑には、以後の数次にわたった戦役に於いて散華された幾多の英霊が祀られている正に文字通りの聖域です (忠霊塔に至る参道脇には、有志による 「村松陸軍少年通信兵慰霊の樹」 と書かれた十月桜一基も供えられています)。
では、そうした環境の中で、先の大戦の結果、新たに仲間入りさせて頂くことになった少年通信兵の 「慰霊碑」 は如何に在るべきか。ーー-この点、私は、最近、この種の施設の去就を巡って他の自治体等で色々厳しい対応が取沙汰されている現状を見聞きするたびに、この碑が此処・村松に建てられて良かった、万一、当初の計画通り東京校跡の東村山に建てられていたら如何なっていたか……と、しみじみその幸運を思わない訳には参りません。
それだけに私は、改めて地元有志の方々の今回のご決断とご温情に心から感謝申し上げるとともに、我々少通関係者としては、これらの有難い動きに対して今後どのような協力の手立てあるかを真剣に模索すべきときだと考えます。--そして、これこそが正に生き残った我々が全体として取り組むべき最後の課題であり、そのためにも私どもは、引き続き先兵としての役割を担いたいと思っています。
以上、私は、この増補版の稿を終えるに当たって、本誌 (初版) 刊行の趣旨がこのような形で結実したことを喜ぶとともに、村松碑の御霊もまた、地元有志の皆様のお気持ちに感応され、末永く此処・村松をご加護下さるよう祈念してやみません。
(完)