村松の庭訓を胸に《増補版》 あとがき
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村松の庭訓を胸に《増補版》 (編集者, 2011/3/23 9:21)
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- 村松の庭訓を胸に《増補版》 あとがき (編集者, 2011/3/28 8:33)
編集者
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あ と が き
村松での訓育の十一期生に与えた大きさを踏まえ、敢えて誌名を 「村松の庭訓を胸に--平和の礎となった少年通信兵」 としました。しかし、元々少通校には東京校と村松校があり、夫々学校長の訓育方針が多少異なっていたとはいえ、「通信兵の本領」 自体には些かの違いもなく、従って本書は少年通信兵全体の物語として捉えて頂ければ幸せです
思えば、散華した十一期生と私たち十二期生とは、入校時期の僅か半歳の差がその後の運命に天地の懸隔をもたらしました。総てに優れていた先輩たちのこと、せめて戦争の終結が一年早かったら、と悔やまれてなりません。
然らば、生き残った私たちは何を為すべきか。或る年の春、そんな思いを抱き碑前で瞑想に耽っていた私の前に一組の夫婦が通り掛かりました。流石の村松桜もまだ三分咲きとあって人影も疎らな中での会話でしたが、碑の由来については全くご存知なく、私の説明に大変驚いておられました。
ここにおいて、私は翻然として悟りました。現地のお方にして斯くの通り。戦後六十余年、すっかり忘却の彼方に追いやられてしまった戦争の悲惨さ不合理さを史実に基づいて正しく後世の伝えること、それが語り部としての私たちに課せられた使命であり、平和の礎として散っていった先輩たちに捧げられる唯一の餞ではないのか、と。--これが本紙誕生の動機になりました。
しかし、どこまでこうした願いが盛り込めましたかどうか。この点、今回は前回割愛したシベリア抑留や比島戦線の実態の記述も加えてみました。また、昨秋の現地村松における 「戦没陸軍少年通信兵慰会」の誕生は特筆すべき出来事であり、この動きも収めました。
とまれ、昨今のわが国の世情には道義の退廃を始め目に余るものが多々あり、英霊の、自分たちが身を呈して護ろうとした祖国はこんな筈ではなかった、とそんな悲痛な声が聞こえてきそうな気さえ致します。
編集を終えるに当たり、再度にわたって貴重な機会の与えられたことに感謝するとともに、温故知新、本誌をお読みくださった皆様に改めて思いを当時に馳せて頂けたらこれに過ぎる喜びはありません。
村松の 山川さらば 出陣の 胸に祖国の 平和希いて
(故松谷昭二氏母堂・松谷千代様)
(付記)
本文に記しましたように、村松碑をめぐる慰霊祭は、一応平成十三年の合同慰霊祭を以て終幕し、以後は十月十一日を「慰霊の日」 とする自主慰霊に切り替わりましたが (平戸島碑は二十一年、但し以後も有志による慰霊が継続)、その後、村松では昨二十二年「戦没陸軍少年通信兵慰霊碑を守る会」 (仮称)が発足しました。因みに両碑の所在地と、「慰霊碑を守る会」 の現在の事務局は次の通りです。
村松慰霊碑
所在地 新潟県五泉市 村松記念公園
交通 JR磐越西線五泉駅からタクシー二五分
又は新潟駅から村松行き高速バス一時間
平戸島慰霊碑
所在地 長崎県平戸市 鯛の鼻自然公園
交通 平戸市市街地からタクシー 三〇分
慰霊碑を守る会
〒九五九 - 一七六四
新潟県五泉市宮野下六二〇七 - 二 井関 巌
電話 〇二五〇-五八-二九一三