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村松の庭訓を胸に《増補版》 「本誌「村松の庭訓を胸に」の刊行とその反響

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通常 村松の庭訓を胸に《増補版》 「本誌「村松の庭訓を胸に」の刊行とその反響

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/3/26 8:45
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 
八、本誌 「村松の庭訓を胸に」 の刊行と、その反響

 それにしても、上述 (七五頁) のように、全国少通連合会による合同慰霊祭が関係者の高齢化を理由に平成十三年にその幕を閉ざしたあと、常に私達の脳裏から離れなかった懸念は、「我々亡き後の村松碑の保守と管理を如何すべきか」 の問題でした。
 ここにおいて、私ども二人 (佐藤と私) は折々相談した結果、「この問題を解決するには現地・村松にお住まいの方々のご厚誼にお槌りするより他はない」 との結論に達し、そのご理解を頂く方途の一つとして考えたのが本誌の刊行であり、これを郷土資料館に常備することによって、関心をお持ち下さった来館者に無償で差し上げることでした ( 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・初版、平成二十年十月刊)。

 ところが、この直後の十二月、現地の 「新潟日報」 は、その誌上に本誌の刊行を取り上げ、「少年兵の悲劇 後世に」 と題して七段抜きで大きく報道してくれました。
 そして、これを契機に、ご覧下さったご遺族を始め沢山の方々から続々お手紙が寄せられたほか、その反響は私どもの予想を遥かに上回るものがありました。ー--それらの内容はおよそ次の通りです。

(一) メロウ伝承館によるインターネット上への全文掲載
    明けて一月、同伝承館の代表の方から 「私自身、内容に深い感銘を受けた。これをぜひ後世の人たちに伝えさせて欲しい」 との要請があり、承諾しましたところ、全文が、難解な語句には若い人にも理解できるよう注釈を付けられるなどして広く一般に公開する途が拓かれました。

(二) 東村山 (東京少通校跡) における有志による供養会の開催
   某日、東村山にお住いのご婦人からお電話があり、「庭訓を読んで、自分の子供が通っていた学校が旧東京少通校跡に建てられた学校だったことを知って衝撃を受けた。同じ年頃の少年がこのような悲惨な最期を遂げたとは…:‥‥。護摩供養をしたいので戦没した少通兵の氏名と、その出身県と戦死した場所を教えて欲しい」 との依頼があり、二十一年六月、地元有志による盛大な供養会が営まれました。護摩壇では八百十二柱の護摩木が焚かれ、その前には、食べ盛りの少年たちにとっては、さぞかし辛かったであろうと沢山の赤飯が炊かれ、清浄な水まで供えてくださるなど、参列者の一人は、その光景を主催者の声涙ともに下る挨拶とともにきわめて感動的であった、と伝えてきました。

(三) 新潟明訓高校放送部によるPVD制作・発表
    これも同じく庭訓をご覧になった同校の放送部顧問の先生からNHKの全国高校放送コンクールに出展したいから、と取材の申込みがあり、これを基に 「十五歳の決断」 と 「終わりなき追悼」 の二編が完成しました。共に地区大会予選を首位で突破し全国大会に駒を進めましたが、特に二十一年秋の十三期生による慰霊祭の模様も含めた 「追悼」 は、二十二年夏の宮崎大会で見事 「優秀賞」 を獲得しました。

(四) 村松碑の洗浄
    「庭訓」 刊行当時、村松碑は建立から四十年、多年の風雪に晒されて碑正面の 「慰霊碑」 の文字も白色の塗料が剥落するなど碑全体としても相当の汚れが目立ってきました。そこで、その洗浄を、かねて少通校に多大のご理解をお寄せ下さっている現地の伊藤勝美氏 (上述 「軍都村松の悼尾を飾る村松少通校」九百参照) にご相談申し上げましたところ、氏はご快諾の上、高圧洗浄機を使って碑全体を建碑当時の姿に見事復元して下さいました。

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