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俺の戦争 其の1 BUP

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通常 俺の戦争 其の1 BUP

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2012/9/13 6:46
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 残暑お見舞い申し上げます。
 例により、ヒマツブシです、御読み捨て下さい。

 此の夏の暑さは、記録的と言われてますが、俺も戦争で昭和17年から21年まで、南の島に居りましたが、あっちの方がズーット過し易いと、想い出している、今日この頃であります。

 特にセレベス島のマカッサルと言う港町にいたときは、夕方になると涼しい海風が吹いて、夜中は毛布を被って寝てました。
此処の海岸(ロサリビーチ)の出ているサイトが御座います。
    ↓
 ロサリ海岸の夕陽
 http://www5d.biglobe.ne.jp/~makassar/up/sunset.html
 此処の夕陽は「東洋一」と言われておりました(もっともマニラ湾の夕陽も同じように言われてましたが)
 此処に載せた、俺の作った拙い地図をご参照下さい。
 「宿舎」って書いてある家で寝てました。
 此の絵の左上に「プール」と「海岸の喫茶店」って書いてあるのが見えると思います。
 此のプールで泳いだあと、此の喫茶店の籐椅子で「レモナーデ」などを頂きながら夕陽を眺めるのです(午後6時頃)。
 何処かに「レモナーデ」って書いたら「レモナード」の間違いでは、と言われたことが御座いましたが、当時は300年のオランダの統治下、オランダ語が一般に使われていたのです。
 此の「海岸の喫茶店」のことは ↓ の画像をご覧下さい。
 海岸の喫茶店
 http://www5d.biglobe.ne.jp/~makassar/mks/makassar1942.html
 此の姉妹は、俺のガールフレンド、インドネシア語でオシャベリをしてました。

 昭和18年に入り、豪州からのB-24の空襲が激しくなり、あるときの空襲で、港の岸壁付近で密集していた人たちに爆弾が落ちて、多数の犠牲者が出ました。
 遺体の処理にプールを使用したあと、プールは閉鎖されました。
 喫茶店も閉鎖されました。
 あとから噂で聞いたのですが、喫茶店主の中国人系の現地人がスパイだったとか。
 真偽の程は不明です。
 宿舎と書いてある家から海岸に向かう道路は綺麗に舗装されて居り、子供たちがローラースケートで遊んでおりました。
 俺もガキの頃、ローラースケートで遊んでましたので、やりたくなり、子供さんに、何処で売ってるの?って聞いたら、港の付近の中華商店街の店で買えるそうで、早速、買い求め、子供さんたちと一緒に滑ることにしました。
 (もっとも、俺も子供だったけれどネ)

 言葉は通じるものですよ、一緒に遊んでいるうちに上達しました。
 インドネシア語です、もっとも当時はマレー語って言ってましたが。
 「宿舎」の隣に「W」って書いてある家が見えると思います。
 俺のスケート友達、小学生のジョニー君の家です。

 草臥れたので、又 アトでね。
 (午前中はプールで泳いでましたので)

 (こんなこと書いてると、オマエ本当に戦争に行ったのか?って言われそうなんで、弱ってます)

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