Re: 俺の戦争 其の5 BUP
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俺の戦争 其の1 BUP (編集者, 2012/9/13 6:46)
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俺の戦争 其の2 BUP (編集者, 2012/9/14 8:01)
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Re: 俺の戦争 其の2 オアシス (編集者, 2012/9/15 6:50)
- Re: 俺の戦争 其の3 BUP (編集者, 2012/9/16 6:43)
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Re: 俺の戦争 其の2 オアシス (編集者, 2012/9/15 6:50)
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俺の戦争 其の2 BUP (編集者, 2012/9/14 8:01)
- Re: 俺の戦争 其の5 BUP (編集者, 2012/9/18 6:54)
- Re: さらば 南十字星(俺の戦争 終) BUP (編集者, 2012/9/19 6:18)
- Re: さらば 南十字星(俺の戦争 終) マーチャン (編集者, 2012/9/19 6:21)
編集者
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投稿数: 4298
皆様 ご無沙汰でした、 だいぶ寒くなってきましたが、皆様如何お過ごしでしょうか。ツレは留守なので、此処でヒマツブシでも、させて下さい。
”「ジャワは極楽 ビルマは地獄 生きては還れぬニューギニア」(20万人中生き残ったのは1万7千人とのこと)”と「つんだら節」がネットに残ってますが、今は「死んでも帰れぬニューギニア」になってますね。
そうです、”爪哇は極楽”だったのですよ。
セレベス島マカッサルも初めは極楽だったのですが、空襲が始まってからは半分地獄になってきました。
当初、豊富に在った物資も、軍が買い占めたのか、商人が仕舞い込んだのか、店頭には品物が無くなってきました。
スラバヤに移動の命令を受けて、マカッサルを去ることになりましたが、どうせ、チョイチョイ飛んで来るのですから、”ジヤー行って来るよ”の気分の別れでした。
スラバヤーマカッサルは、零式輸送機で約3時間の飛行でした。
スラバヤはジャワ島の大都市で、物資も豊富で商店街も賑わっておりました。
「オーロラ」とか言う百貨店も御座いました。
飲食店では、大きなのは「爪哇会館」舞台の上ではピアニストが音楽を。
ナイトクラブは「さくら」(海軍専用)混血の美女が同席してお酒を、隣には和食レストラン「紅葉」和食はどんぶり物から~、なんでも。
中華街では中華料理、食べ放題。
搭乗員宿舎は市内のアンブンガンと言う道路に面して数軒の数人づつ宛がわれ、中央の家が食堂、ビリヤードも付いてました。
当時は四つ玉で、勿論、賭けて突いてました、負けたやつは中華街の支払い負担。
http://homepage2.nifty.com/bup/bup-6.htm
忘れてました、飛行機も飛ばしてたんです。
当時の空路図は、前(その2)に載せましたので省略。
メインの比島経由台北行きは、エライ先輩が、俺たち下級の新米は、”生きて帰れぬニューギニア”行でした。
スラバヤを離陸、マカッサルーケンダリーアンボンーバボーカイマナ、さらに珊瑚海のケイ諸島、アル諸島の島々へ、敵さんがウヨウヨ飛んでるんです。
東部ニューギニアは、艦隊の管轄が違うのです。
山本元帥を運んだのは、そっちの艦隊でした。
こちらの受け持ちでは、デビさんの旦那、若いころのスカルノさんを運んだ記憶が残ってますよ。
バリ島のデンパッサル経由、小スンダの島々を経て西ニューギニアって言うコースも御座いました。
バリ島では、台湾畜産とかの会社がハムを作ってましたので、帰途、買って来いとのご命令も承ってました。(変なことばかり想い出すなぁ~・・・)。
食堂に、飛行計画の黒板が在り、飛行長が飛行スケヂュールと、搭乗員の名前を書くのです。
四人がペアを組みます、機長(操縦)、機関、航法(操縦兼)、通信の四名ですが、ペアは何時も同じメンバーです。
島伝いで飛ぶときは、航法が不要ですので、三名になるときも御座いました、昭和19年以降、負け戦になり、危なくなってから、ニューギニア方面に飛ぶときは、整備兼、機銃手も乗り込むことになりました。
敵機と遭遇して落とされる危険が次第に多くなって来ました。
着陸15分前に連絡したまま、何時までも着陸しない機がありました、直ちに捜索に飛び立ちましたが、見つかりません、戦後、ジャワ島の火山の中腹で機体が発見されたとの噂を聞いたことが御座いました。
スラバヤを飛び立ち、ボルネオ島のパンジェルマシンーバリックパパン経由、マカッサルで一泊、帰路も同じと言うのが、俺の大好きな空路でした。
マカッサルで一泊出来るからなんです。
お土産を沢山買い込んで、W家に帰れるんですよ!。
月に一度くらいは飛んでました。
或る時の飛行で、何かの都合で、マカッサルに一泊せずにバリックパパンに引き返すことが御座いました
その時、お客さんに”藤山一郎さん”(増永丈夫海軍嘱託・少佐待遇)が居たんです。
増永嘱託はマカッサル中学で音楽も教えていて、W家の長女の旦那さん(中学の先生)の知り合いだったのです。
高度三千メートルの上空で、俺はレターを書き始めました。
"Kepada Nona xxxxx J.T.T." が書き始めなんですが、詳細は省略。
J.T.T. は、 jang ter-tjinta の略、常套句です。
現在のインドネシア語のスペルでしたら、 Y.T.C. になると思いますがぁ~。
(どっちでもいいけれどネ)
藤山さん経由、先生、姉、から届いたと思いますよ。
昭和20年の春、戦局も押し詰まり、燃料の在った南方で飛べるように養成した搭乗員を「特攻要員」として、内地に空輸する「特攻輸送作戦」の命令を受けました。
比島、沖縄は戦場と化して、上空は飛べません。
シンガポール、サイゴン経由、海南島の三亜または広東、上海経由、鹿屋行きの飛行です。
昼間は飛べません、夜間飛行の連続、電波誘導は上海のみ。
飛行長の選抜で、俺たち、若いやつばかりの四名に命令が下りました。
サイゴの希望は?って訊かれましたので、即座に”マカッサルに飛ばしてください”でした。
クタビレタので、 マ タ ネ ・・・。