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俺の戦争 其の1 BUP

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2012/9/13 6:46
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 残暑お見舞い申し上げます。
 例により、ヒマツブシです、御読み捨て下さい。

 此の夏の暑さは、記録的と言われてますが、俺も戦争で昭和17年から21年まで、南の島に居りましたが、あっちの方がズーット過し易いと、想い出している、今日この頃であります。

 特にセレベス島のマカッサルと言う港町にいたときは、夕方になると涼しい海風が吹いて、夜中は毛布を被って寝てました。
此処の海岸(ロサリビーチ)の出ているサイトが御座います。
    ↓
 ロサリ海岸の夕陽
 http://www5d.biglobe.ne.jp/~makassar/up/sunset.html
 此処の夕陽は「東洋一」と言われておりました(もっともマニラ湾の夕陽も同じように言われてましたが)
 此処に載せた、俺の作った拙い地図をご参照下さい。
 「宿舎」って書いてある家で寝てました。
 此の絵の左上に「プール」と「海岸の喫茶店」って書いてあるのが見えると思います。
 此のプールで泳いだあと、此の喫茶店の籐椅子で「レモナーデ」などを頂きながら夕陽を眺めるのです(午後6時頃)。
 何処かに「レモナーデ」って書いたら「レモナード」の間違いでは、と言われたことが御座いましたが、当時は300年のオランダの統治下、オランダ語が一般に使われていたのです。
 此の「海岸の喫茶店」のことは ↓ の画像をご覧下さい。
 海岸の喫茶店
 http://www5d.biglobe.ne.jp/~makassar/mks/makassar1942.html
 此の姉妹は、俺のガールフレンド、インドネシア語でオシャベリをしてました。

 昭和18年に入り、豪州からのB-24の空襲が激しくなり、あるときの空襲で、港の岸壁付近で密集していた人たちに爆弾が落ちて、多数の犠牲者が出ました。
 遺体の処理にプールを使用したあと、プールは閉鎖されました。
 喫茶店も閉鎖されました。
 あとから噂で聞いたのですが、喫茶店主の中国人系の現地人がスパイだったとか。
 真偽の程は不明です。
 宿舎と書いてある家から海岸に向かう道路は綺麗に舗装されて居り、子供たちがローラースケートで遊んでおりました。
 俺もガキの頃、ローラースケートで遊んでましたので、やりたくなり、子供さんに、何処で売ってるの?って聞いたら、港の付近の中華商店街の店で買えるそうで、早速、買い求め、子供さんたちと一緒に滑ることにしました。
 (もっとも、俺も子供だったけれどネ)

 言葉は通じるものですよ、一緒に遊んでいるうちに上達しました。
 インドネシア語です、もっとも当時はマレー語って言ってましたが。
 「宿舎」の隣に「W」って書いてある家が見えると思います。
 俺のスケート友達、小学生のジョニー君の家です。

 草臥れたので、又 アトでね。
 (午前中はプールで泳いでましたので)

 (こんなこと書いてると、オマエ本当に戦争に行ったのか?って言われそうなんで、弱ってます)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2012/9/14 8:01
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 ご無沙汰を致しました。
 台風一過、やっと涼しくなって来たようですので、ヒマツブシでもやらせてください。
 今日は木曜日で、コナミのプールも定休日なんです。

 さて、帝国海軍は昭和17年(1942年)6月のミッドウエイ海戦で主力空母4隻とその艦載機を一挙に失い、それに代り豪北(豪州の北の意味)の島々に滑走路一本の航空基地を設営、作戦の継続を余儀なくされました。
 其の南海の占領地間の航空輸送のため、速成した人員を各基地にバラ撒くことになりましたが、俺も、其の一人でした。
 第二南遣艦隊の根拠地セレベス島のマカッサルに空路、到着したのが昭和17年8月のことであります。
 それからの俺の行状の一部が、前回の書き込みでアリマス。(前置きが長くてゴメン)

 俺の任務は、当基地を通過する輸送機との対空通信、人員は俺一人、他に誰も居ないのです。
 此の街から約20キロ離れたマンダイと言う村落に滑走路一本の航空基地が在ります。
 艦上攻撃機が2機ほどで、対潜哨戒をやってましたが、当部隊とは無関係。
 基地の片隅に椰子の葉っぱで屋根を漉き雨露を凌ぐ掘っ立て小屋に対空通信用の「空4号無線電信機」を置き、アンテナを張り、6210KC(KHZ)の短波で、俺の仕事が始まりました。
 任務は、隣の基地、北はメナド(今の地名はマナド)、南は爪哇島のスラバヤ、西はボルネオ島のバリックパパン、東はケンダリー、アンボン。

 (スラバヤには俺が赴任する予定だった南西方面艦隊の司令部が在ります、ケンダリーは、第23航空戦隊の基地、此処から豪州のダーウイン、ポートモレスビー爆撃の1式陸攻が発進しておりました、バリックパパンは油田・製油所が在り重要拠点でした)
 上記各地から飛んで来る陸上輸送機、大型飛行艇、連絡機、その他、航空機との通信連絡、敵機の行動の情報、基地周辺の気象情報、到着予定、その他の連絡事項の暗号通信が俺の任務でありました。

 其の全てを、17歳になる直前の俺にやらせたのですから、帝国海軍の考え方が、今もって俺には・・・ワカリマセン。
 例えば、着陸15分くらい前に、滑走路付近の風向風速の問い合わせが暗号で入ります。
 其れに依り滑走路への進入方向が変わるからです。
 何時もは、俺が、戦闘指揮所の吹流しを見て、北の風、5メートルとかを暗号で知らせるのですが、ある時、面倒くさいので、其の辺りに居た兵隊に、風向を訊いたら、そいつは勘違いして吹流しが南方向に流れているので、南の風って言ったので、そのまま打電したら、反対方向なので、危うくオーバーランするところでした。
 素人にやらせて、確認しなかった俺の失敗でした。
 初期の航空暗号はカタカナ、簡単で、憶えてしまうんですよ、天候を訊いて来れば、上空を見ながら、晴れ、雲量3、雲高 二千米、なんて頭の中で暗号を組み立てて打電してました。
 (その後は「空暗号」3数字を乱数表で変換して送るようになりましたが)
 出発基地を離陸して、当基地に着陸するまで、当基地を離陸して目的地に着陸すれば任務終了です。
 任務終了すれば、後は用は御座いませんので、マカッサル市街地の「宿舎」に帰ります。
 其の用と言うのが、アマリ無いのです、一週間に、二、三度しか御座いませんので、アトはヒマ、宿舎でゴロゴロして遊んでました。

 「伏見博英海軍大尉ケンダリー発マサッカル行きの飛行機に搭乗中、昭和18年8月21日に撃墜されて戦死」(数少ない皇族の戦死者の一人で、検索で沢山出てきます)迄は・・・。
 其の零式輸送機には俺の親友が乗ってました。
 其の当時の、俺のコールサインはカタカナの「ヤンラ」、離陸して間もなく、正常に離陸マカッサルに向かうと連絡があり、ノンビリと受信機の前に座ってました。
 突然「ヤンラ ヤンラ ・・・」と呼ぶモールス符号が聴こえて、後は何の連絡もなく通信が途絶しました。
 その時、敵機B-24に遭遇したのです。
 到着予定時間になっても、着陸して来る気配はなく、日が暮れました。
 翌日になり、撃墜されたとの連絡が、陸上捜索部隊より入りました。
 根拠地隊の司令部より参謀が、俺の仕事場に来て、怒鳴り散らして帰りました。
 俺の運命は、此処に極まり、間もなく、南西方面艦隊、航空輸送部への移動の命令を受けました。
 敵機がウヨウヨ飛んでいる、珊瑚海、ニューギニアへの飛ぶ、ボロ輸送機の搭乗員にされてしまいました。(邪魔だから早く死ねとの命令と受け止めました)
 輸送経路図の画像を載せました。
 こんな仕事を終戦までやらされていたのです。

 本当は、マカッサルでの楽しかった”戦場のクリスマス”のオハナシでも書こうと思いましたが、暑さが急に緩んで涼しい風が吹き込んできましたので、こんなつまらないハナシになってしまいました。
 次は、彼女と一緒に防空壕に入ったお話でも・・・。
 突然、話題が変わり申し訳け御座いませんがぁ、オランダ語で、 Ik hou van jou.(イック ハウ ファン ヤウ)の意味、此の年になるまで知らなかったのです。
 此の”イック ハウ ファン ヤウ”って言葉が俺の脳の片隅に65年間くらい眠ってましたが、先日、フト思いだして Google で検索したんです。
 あの時知ってればなぁ~・・・、運命が変わっていたカモネ。

 長いヒマツブシで失礼を致しました。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2012/9/15 6:50
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 BUP先輩、ヒマツブシを毎回とっても興味・関心をもって読ませて頂いており少年時代、熱血愛国少年で少年飛行兵の試験を受けるために 5桁の数字がパッパッパッと出るのを覚えたり、両手両足を使っての器機操作など練習に通っていた者です。

 生まれは昭和7年9月11日 上記は小学校5、6年の担当の先生が 生徒に吉田松陰の思想・行動をひたすら殉国と安易に教えた結果です。げに教育の影響・効果は恐ろしきかなです。

 倶楽部の名簿には 貴兄の生年月日の記入が無く、確か大正の最後15年(昭和元年)だと推定しており、7歳年上と思っておりますが、、、

 さて前回の発言の下記引用
引用:
第二南遣艦隊の根拠地セレベス島のマカッサルに空路、到着したのが昭和17年8月のことであります。
 私は西宮小学校4年、満10歳になる寸前です。年の差は7年?です。
 また(その2)の下記引用
引用:
さて、帝国海軍は昭和17年(1942年)6月のミッドウエイ海戦で主力空母4隻とその艦載>機を一挙に失い、それに代り豪北(豪州の北の意味)の島々に滑走路一本の航空基地を設営、作戦の継続を余儀なくされました。
其の全てを、17歳になる直前の俺にやらせたのですから、帝国海軍の考え方が、今もって俺には・・・ワカリマセン。
 「俺は」 云々での書き方 とっても親しみをもって読ませて頂いています。また ございますと丁寧な文章で感心させられています。 
 戦況の把握や、地域の軍隊の配置などのお詳しいのには驚かされます。
 「17歳になる直前」は、満年齢でしょうか?

引用:
「伏見博英海軍大尉ケンダリー発マサッカル行きの飛行機に搭乗中、昭和18年8月21日に撃墜されて戦死」(数少ない皇族の戦死者の一人で、検索で沢山出てきます)迄は・・・。

 これは翌年、私メ5年生の満11歳になる一ヶ月前です。
 愛国少年の私は、同学年の者の中で 地理が得意、特に南方戦線に我が軍が展開する地域、島々は殆ど頭に入っておりました。

 その後 内地の19年、20年の爆撃は、殆どがB29 一トン爆弾か 焼夷弾でした。
 わが家は阪急電車 夙川、通ってたのは旧制兵庫県立芦屋中学でした。
 家は阪急の線路に等間隔で落とされる1トン爆弾の為、壁が落ち 至近家屋まで焼夷弾で延焼、おまけに警戒警報(空襲警報で無く)で学校から近道で1間道路 溜池横の道路で機銃掃射にあい(敵さんの顔が見えました)、道の端から池にパッパッパッと銃弾が、、長屋が並んだ側に蹲り 反対から撃って来た 残り弾で遊びの敵が旋回して来れば丸見えで死んでたでしょう。川原を通った仲間が沢山撃たれて死にました。

 で、何んと昭和20年6月 縁故疎開で石川県金沢近郊の松任町へ疎開しました。

 ちょっと時期や生々し体験など ずれた話を長々と 述べ申し訳ありません。
 先の戦争は比較すれば前線・戦地センチの兵隊さんの方が大変な被害、死傷者が出ましたが、内地の都会暮らしの者たちも 沖縄・広島・長崎、例えば3月10日の東京のように激甚なる被害に会い、戦後の暮らしも餓死寸前と大変だった その代表的人間の一人だと思っています。

 ヒマツブシ 今後とも大いに期待しています。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/9/16 6:43
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 

 皆様 今朝も涼しい朝を迎えました、もう秋、本番なんでしょうか。
 今朝は、(オッ)家内儀、娘と共に何処かに遊びに出掛けましたので、つかの間の俺の楽しい時間を「ヒマツブシ」で過ごすことが出来そうです。(帰って来るまでは・・・ネ)
引用:
BUP先輩、ヒマツブシを毎回とっても興味・関心をもって読ませて頂いており
 オアシス様、お書き込みを頂き有難う御座います。
 実は、俺、アマリにもくだらない自己中の書き込みで、皆さんアキレハテテ、無視されていると、ヒガンデました。
 大正14年生まれです。

 ”ハナハトマメマスミノカサ”の最終学年でアリマス。
 会員名簿にはメールアドレスなどの一切の個人情報の記載はお断りしております、紙の会員名簿の送付も頂いて居りません。
 実は数年前に、個人情報を悪用されて、変なメールが飛び込み、対策に困り、メルアドの変更やらでヒドイ目に会ったからなのです。
 紙の会員名簿を頂いても使い道が無く、管理に自信がないので、送付をお断りしている次第です。

 小学生5年のとき、”子供の科学”か”何かの雑誌で、綿巻き銅線を五寸釘に巻いて電磁石を作り、ブリキ板をペコペコ動かして信号を送る記事から、自作して、「モールス符号」にはまり込み、イロハとアルハーベットのモールス信号を覚えました。

 その辺りから。俺の将来が視えて来たようですよ。
 さて、閑話休題、マカッサル時代の想い出などを。

 (其の1)の地図に、宿舎の隣に「w」と書いてある家が見えます、我が友、ジョニー君の家です。
 俺が寝ていた家は大邸宅でした、部屋が10くらい在りました、ペンションだったのです。
 輸送機の搭乗員がマカッサルで宿泊するときの為の施設でした。
 つまり、俺は其処の管理人を兼ねておりました。
 上官の命令なので致し方ゴザイマセン。
 元、オランダ人が住んで居りましたので、食堂にはウイルヘルミナ女王様の額縁も飾って在りました。
 都市ガス、電気冷蔵庫、完備、至れり尽くせりの施設でした。
 トイレは勿論水洗、俺の育ったオオモリの家に比べても雲泥の差でアリマス。
 当時としては珍しい、ガス瞬間湯沸かし器も在りました。
 マンデー(水浴)の部屋(カマル マンデー)の水溜めにお湯を入れておくと、小型の風呂になります。
 電気冷蔵庫には、マンゴー、パパイヤ etc. 果物が何時も入ってます。
 使用人もコックさん、ジョンゴース(男の使用人のこと)、バブ(女性の使用人のこと)と、3人も居て、俺の面倒を見てくれるのです。
 お給料は、俺が払うわけは無い、勿論、部隊で払ってくれておりました。
 表玄関の前は道路に面した庭になっており、ベランダには籐椅子、寝椅子が置かれて居りました。
 道路の名前は「敷島通り」、オランダ時代の名前は「フェネラル・ファン ダーレン ウエ」でした。
 朝、夕の出勤、退庁時間には宿舎から、司令部、民生府などに自転車通勤する防暑服姿の男女の軍人・軍属の皆様が通ります。
 夕方は「ティガルーダー」と呼ばれた三輪車(爪哇島ではベチャと呼ばれてましたが)に乗って散歩するアベックも見られました。
 自転車に二人乗りのアベックも居ります、「ゴンチェン」と言います。
 夕方になり涼しくなると、海岸通りの方に散歩に出掛けます。
 其のことを「マカン アンギン」と言ってました、マカンは食べる、アンギンは風、つまり、”風を食べる”の意味です。
 俺は、ベランダの寝椅子に横たわり、ボーっとして、その「マカン アンギン」の人たちを眺めておりました。

 或る日の夕方、塀の外から、ジョニー君が顔を出して、”オカーチャンがオマエに来いってさー”とのことです。
 つまり、W家に招待されたわけでアリマス。
 W家のご主人は海軍民生部(市役所みたいな役所)の役人で、夕方になると、日本人の軍人、軍属がよくお見えになり、広い庭の籐椅子で御歓談されているのを、しばしば拝見はしておりましたが、とても俺などは入れる雰囲気では御座いませんでした。
 ご主人も奥さんもメナド人です、セレベス島北部の出身者でミナハサ族と呼ばれており、比較的に日本人に重用されて、軍関係の公務員をされている方が多かったようです。
 ツマリ、ジョニー君から俺のことを聞いて、子供みたいな俺を慰めて(?)呉れようと、呼んで呉れたわけです。
 サンダルを履いたままのだらしのない格好で、すぐ隣のW家に出掛けました。
 W家の構成は、オヤジは前述通り、海軍民生部のお役人、奥さんは同じくメナド人、長女は奥さんの前亭、オランダ人との混血、美人でした、独身時代、マカッサルの美人コンテストに入賞したとか、結婚していて、ご亭主はメナド人、マカッサル中学の先生、 男の赤ちゃんロニー君が生まれたばかり、少し離れた住宅に住んでました。
 次女は、俺と同年齢、マカッサル中学を出て、民生部の事務員をやってました。
 以下、三女は中学生、長男はジョニー君、次男、三男と賑やかな御家庭でした。
 俺の宿舎のコックさんから、俺の情報は伝わっていたらしいです。
 食い物に好き嫌いが激しく偏食、だらしが無い、etc. ・・・。
 インドネシアにも小豆と同じような豆が在るのです、但し豆の色が所謂、小豆色ではなく、青い色です、従って名前も”カッチャン イジョー”です。
 カッチャンは豆、 イジョーは青いの意味です。
 其のカッチャンイジョーを、お汁粉にしてご馳走して呉れました。

 ・・・・・・・此処まで、書いて、なんだか、俺、本当に戦争に行ったのか、観光旅行に行ったのか、自分でも分からなくなって来ました。

 家内と娘、帰って来そうなので、続きは・・・・・マタネ。
 段々、核心に迫ってきたので、少し・・・書きにくいので、多少、誤魔化すことにします。   では、マタネ・・・
 
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/9/17 8:36
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 皆様 ご無沙汰でした、 ヒマツブシでも、させて下さい。
 (ツレも娘も何処かに消えて、絶好のチャンスなんです)
 先日から急に寒くなって、とうとう、物置から炬燵を出して来ました、足元が暖かくて快調でアリマス。

 さて、前回は”カッチャン イジョー”まででした、・・・と記憶してますがぁ~。
 あの酷暑から秋を飛び越して冬に直行したみたいですね。
 此の国も四季が無くなり、冬、夏の二季になったみたい。
 赤道直下の、あの島々には四季はなく、乾季と雨季の二季だけなんです。

 赤道付近に横たわる赤道前線 I.T.C.Z (InterToropical Convergence Zone)が季節的に南北に移動して、その影響で雨季になったり、乾季になったりするんです。
 雨季には、しとしとと雨が降り続けます。
 日本の冬の季節が、あの島の雨季に当たります。
 庭の大木の根っ子に住み着いた大蛙が夜中にウオーンウオーンと鳴き続けます。

 敵機の本格的な都市爆撃が始まったのは昭和18年に入ってからでした。
 17年のクリスマスは、楽しかった!
 宿舎とジョニー君の家(W家)の間のロサリ海岸に抜ける道の途中にアンボン人のおばさんがケーキを焼いて食べさせて呉れるお店が在りました。
 美味しい紅茶で頂くのです(地図上ではブンドコレクションと書いてますが)、そのおばさんに特大のクリスマスケーキを作って貰い、w家に届けました。

 翌、昭和18年にはいると、東部ニューギニアの戦闘で勝ち誇った米軍の反撃が始まりました。
 主な目標は、油田と製油所の在るボルネオのバリックパパンでした。
 豪北爆撃用の23航戦の基地、ケンダリーも狙われました。
 最初は、帰り道に、ついでに残弾を落として行くような空襲でしたが、次第に本格的な空襲になって来ました。

 防空壕作りが始まりましたが、当部隊の防空壕は特警(陸軍の憲兵と同じ)が連れて来たオランダ軍の捕虜さん達が造って呉れました。
 鉄骨はベッドの金具を利用してました。
 捕虜さんたちは赤銅色をした筋骨隆々の良い体格をしていて圧倒されましたよ。
 休憩時間に横に座っていた捕虜さんに煙草を出したら、ニコッと笑って受け取って呉れました。
 現地製の煙草で名前は”スマンガット”、未成年でしたが配給で押し付けられるので、致し方なく吸ってました(ウソツケ?)。
 頑丈な防空壕で数十人が入れるほどの大きさでした。

 あの島の月夜の晩は明るいのです、(月光で新聞が読めるくらい)月夜の晩は毎夜のように敵機が来襲するようになりました。
 
 ある日の空襲で、港湾地区が爆撃され、多数の犠牲者が出て、遺体の始末に海岸のプールが使われ、以降、プールは閉鎖されてしまいました。
 爆撃は海岸沿いに南から北へ、街並みに沿って爆弾が落とされます。
 或る夜の爆撃で、爆撃も終わり静かになり、防空壕から出始めました、俺も出ようと、階段に足を掛けた瞬間、時限爆弾が爆発、防空壕の奥の壁に叩き付けられました。
 俺より前に出た者は・・・。 (ヤメトキマス)
 その日の爆撃で隣家 W家の防空壕も破壊されましたが、家族は無事でしたが、飼い犬の”タイヒール”はダメでした。(犬の名前を憶えているのは少し異常ですね)。

 W家も壊され、地図上の W-2 の場所に引っ越して行きました。
 W-2に引っ越した、W家も、其処に防空壕を造りましたが、其処は街並みから外れてますので、空襲の安全地帯でした。

 防空壕が直撃されると、犠牲者が多くなると言うことで、各自にドラム缶が支給されました。

 庭に埋めて、蚊取り線香を持って、一人づつ入るのです。
 俺は、馬鹿馬鹿しくなって、空襲のありそうな夜は W-2 の家族の家に自転車で避難することにしました。
 (途中で、W家の長女の家に寄り、赤ちゃんだったロニー君を荷台に乗せて)
 広い庭の籐椅子には、同じく避難して来た、民政部の軍属さんやら、エライ方々で、賑わっておりました。

 当時の空襲の逸話にこんなのが御座いましたので。
 http://www5d.biglobe.ne.jp/~makassar/mks/morimitsuko.html
 さて、戦争も・・・やっていたんですよ。
 マンダイの航空基地のニッパ椰子の小屋の中で、空4号無線電信機に噛り付いて、必死に敵情を上空の味方機に伝えてました。
 機銃掃射の雨霰の下で、防空壕に入りたいけれど、入れない、敵機も上空、味方機も上空、銃弾がブスブスってあっちこっちに突き刺さるんです。
 思わず、目の前のスピーカーを頭の上に載せた姿を見られて、大笑いされたことを想い出しました。
 或る時の敵襲で、機銃弾が右腕を掠りました、煙草の灰が化膿止めになるとか、包帯を巻いていたら治りましたが、あと数センチずれていたら、俺の右腕、なかったなぁ~。

 月日が経ち、爪哇島 スラバヤの南西方面艦隊に移動の命令を受けました。
 これからが、本当の戦争、敵機のうようよ飛ぶ、南の空を彷徨うことになりました。
 草臥れたので・・・ 以下 次号。 (誰も期待してないと思いますがぁ~・・・)
 昼飯どうしようか?  そうだ フトメンが在ったなぁ。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/9/18 6:54
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 皆様 ご無沙汰でした、 だいぶ寒くなってきましたが、皆様如何お過ごしでしょうか。ツレは留守なので、此処でヒマツブシでも、させて下さい。

 ”「ジャワは極楽 ビルマは地獄 生きては還れぬニューギニア」(20万人中生き残ったのは1万7千人とのこと)”と「つんだら節」がネットに残ってますが、今は「死んでも帰れぬニューギニア」になってますね。
 そうです、”爪哇は極楽”だったのですよ。
 セレベス島マカッサルも初めは極楽だったのですが、空襲が始まってからは半分地獄になってきました。
 当初、豊富に在った物資も、軍が買い占めたのか、商人が仕舞い込んだのか、店頭には品物が無くなってきました。
 スラバヤに移動の命令を受けて、マカッサルを去ることになりましたが、どうせ、チョイチョイ飛んで来るのですから、”ジヤー行って来るよ”の気分の別れでした。
 スラバヤーマカッサルは、零式輸送機で約3時間の飛行でした。
 スラバヤはジャワ島の大都市で、物資も豊富で商店街も賑わっておりました。
 「オーロラ」とか言う百貨店も御座いました。
 飲食店では、大きなのは「爪哇会館」舞台の上ではピアニストが音楽を。

 ナイトクラブは「さくら」(海軍専用)混血の美女が同席してお酒を、隣には和食レストラン「紅葉」和食はどんぶり物から~、なんでも。
 中華街では中華料理、食べ放題。

 搭乗員宿舎は市内のアンブンガンと言う道路に面して数軒の数人づつ宛がわれ、中央の家が食堂、ビリヤードも付いてました。
 当時は四つ玉で、勿論、賭けて突いてました、負けたやつは中華街の支払い負担。
 http://homepage2.nifty.com/bup/bup-6.htm

 忘れてました、飛行機も飛ばしてたんです。
 当時の空路図は、前(その2)に載せましたので省略。
 メインの比島経由台北行きは、エライ先輩が、俺たち下級の新米は、”生きて帰れぬニューギニア”行でした。
 スラバヤを離陸、マカッサルーケンダリーアンボンーバボーカイマナ、さらに珊瑚海のケイ諸島、アル諸島の島々へ、敵さんがウヨウヨ飛んでるんです。
 東部ニューギニアは、艦隊の管轄が違うのです。
 山本元帥を運んだのは、そっちの艦隊でした。
 こちらの受け持ちでは、デビさんの旦那、若いころのスカルノさんを運んだ記憶が残ってますよ。
 バリ島のデンパッサル経由、小スンダの島々を経て西ニューギニアって言うコースも御座いました。
 バリ島では、台湾畜産とかの会社がハムを作ってましたので、帰途、買って来いとのご命令も承ってました。(変なことばかり想い出すなぁ~・・・)。

 食堂に、飛行計画の黒板が在り、飛行長が飛行スケヂュールと、搭乗員の名前を書くのです。
 四人がペアを組みます、機長(操縦)、機関、航法(操縦兼)、通信の四名ですが、ペアは何時も同じメンバーです。
 島伝いで飛ぶときは、航法が不要ですので、三名になるときも御座いました、昭和19年以降、負け戦になり、危なくなってから、ニューギニア方面に飛ぶときは、整備兼、機銃手も乗り込むことになりました。

 敵機と遭遇して落とされる危険が次第に多くなって来ました。
 着陸15分前に連絡したまま、何時までも着陸しない機がありました、直ちに捜索に飛び立ちましたが、見つかりません、戦後、ジャワ島の火山の中腹で機体が発見されたとの噂を聞いたことが御座いました。
 スラバヤを飛び立ち、ボルネオ島のパンジェルマシンーバリックパパン経由、マカッサルで一泊、帰路も同じと言うのが、俺の大好きな空路でした。
 マカッサルで一泊出来るからなんです。
 お土産を沢山買い込んで、W家に帰れるんですよ!。
 月に一度くらいは飛んでました。
 或る時の飛行で、何かの都合で、マカッサルに一泊せずにバリックパパンに引き返すことが御座いました

 その時、お客さんに”藤山一郎さん”(増永丈夫海軍嘱託・少佐待遇)が居たんです。
 増永嘱託はマカッサル中学で音楽も教えていて、W家の長女の旦那さん(中学の先生)の知り合いだったのです。
 高度三千メートルの上空で、俺はレターを書き始めました。
 "Kepada Nona xxxxx J.T.T." が書き始めなんですが、詳細は省略。
 J.T.T. は、 jang ter-tjinta の略、常套句です。
 現在のインドネシア語のスペルでしたら、 Y.T.C. になると思いますがぁ~。
 (どっちでもいいけれどネ)
 藤山さん経由、先生、姉、から届いたと思いますよ。

 昭和20年の春、戦局も押し詰まり、燃料の在った南方で飛べるように養成した搭乗員を「特攻要員」として、内地に空輸する「特攻輸送作戦」の命令を受けました。
 比島、沖縄は戦場と化して、上空は飛べません。
 シンガポール、サイゴン経由、海南島の三亜または広東、上海経由、鹿屋行きの飛行です。
 昼間は飛べません、夜間飛行の連続、電波誘導は上海のみ。
 飛行長の選抜で、俺たち、若いやつばかりの四名に命令が下りました。
 サイゴの希望は?って訊かれましたので、即座に”マカッサルに飛ばしてください”でした。
  
 クタビレタので、 マ タ ネ ・・・。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/9/19 6:18
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 ご無沙汰しております、年の瀬も押し迫りました、一昨日は当集合住宅の年末恒例餅つき大会が行われました。
 張り切って、画像収録中、段差に躓きバタンと前倒しになり両手、ひざを擦り剥いて、さんざんな目に会いました、おまけにカメラもレンズわきの金具が変形、まぁ~、何とか写るから良いとしましましょうか。
 お陰様でプールには傷が治るまで年内は行けそうもありません。

 そこで、”さらば 南十字星”↓で、もの寂しい♪でも聞きながら、ヒマツブシでもして下さい。
 http://homepage2.nifty.com/bup/bup-19.htm

 さて、昭和20年に入りますと戦況は益々悪化、今まで飛んでいたコースは飛べないようになってきました。
 戦争の推移は ↓ のサイトでご覧になれます。
 http://www.shiki.gr.jp/sanbusaku/map_minami.html
 昭和17年(1942)のクリスマスは楽しかった!
 遊びトモタチの隣家のジョニー君の家に呼ばれたんです。
 位置関係は↓の拙い地図みたいなものをご参照ください。
 http://homepage2.nifty.com/bup/bup-10.htm
 宿舎からロサリ海岸(http://www.youtube.com/watch?v=oeHeFTcI3MI
 に抜ける道の左側に”今のブントコレクション”と書いてある家が喫茶店風になっており、アンボン人のおばさんがケーキを作って、お茶も飲めるようなお店でした。
 おばさんに特大のクリスマスケーキを作って貰いW家に届けました、デコレーションは零式輸送機で日の丸も付けて貰ったんです。
 最後の楽しかった”戦場のクリスマス”でした。

 昭和20年春、特攻輸送作戦が始まり、その前にマカッサルに飛ばして貰いました。
 マカッサルの基地マンダイに無事着陸。
 さて、当夜の搭乗員の以前の宿舎は爆撃で破壊されて使用できず”富士ホテル”に泊めてくれることになりました。
 地図らしきものの上部に”富士ホテル”と書いてあるのがソレです。
 あの”放浪記”で有名な”森光子”さんが、このホテルに滞在して怖い目に会ったことが↓のサイトで、ご覧になれます。
 http://www5d.biglobe.ne.jp/~makassar/mks/morimitsuko.html
 地図の最下部右側に小さくw-2って書いてあるのが、爆撃で壊されたW家の避難先の椰子の葉で屋根を葺いた家でした。
 南十字星の下で語り明かしてW家の皆さんと別れを告げました。
 ”Djangan Mati" (死ぬな・・・)って言ってくれましたが。
 悪運強く生き延びて、約1年のJSP(日本敗残兵)を経て復員、焼け跡闇市を徘徊する生活を経て、再会出来たのは昭和27年でした。

 俺も定年を迎えて、もう来ないよって言ったら、一族で盛大な送別会をやって呉れましたが。
 その後四半世紀を経て皆、マカッサル郊外のキリスト教の墓地の十字架の下に眠っております。
 ”さらば 南十字星”俺の戦争は終わりました。
 ♪”Terang Bulan”でも聴きながら、クリスマスを迎えます。
 http://homepage2.nifty.com/bup/bup-18.htm

 ボケ老人の想い出話に長々とお付き合い頂き有難う御座いました。
 皆様、良いクリスマス、お正月をお迎え下さい。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/9/19 6:21
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 BUPさん
引用:
”さらば 南十字星”俺の戦争は終わりました。
♪”Terang Bulan”でも聴きながら、クリスマスを迎えます。
http://homepage2.nifty.com/bup/bup-18.htm
ボケ老人の想い出話に長々とお付き合い頂き有難う御座いました。
皆様、良いクリスマス、お正月をお迎え下さい。

 とんでもない。貴重なお話の数々、ありがとうございました。

 どうぞ、よいお年をお迎えくださいませ。
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