いかに大事な家系図か
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大事な家系図 (あんみつ姫, 2004/2/24 13:53)
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Re: 大事な家系図 (あんみつ姫, 2004/2/24 14:29)
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Re: 大事な家系図 (あんみつ姫, 2004/2/24 14:46)
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Re: 大事な家系図 (あんみつ姫, 2004/2/24 15:01)
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Re: 大事な家系図 (あんみつ姫, 2004/2/24 22:46)
- いかに大事な家系図か (あんみつ姫, 2004/2/24 23:42)
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Re: 大事な家系図 (あんみつ姫, 2004/2/24 22:46)
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Re: 大事な家系図 (あんみつ姫, 2004/2/24 15:01)
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Re: 大事な家系図 (あんみつ姫, 2004/2/24 14:46)
- Re: 大事な家系図ご立派ですね (としつる, 2004/2/29 17:09)
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Re: 大事な家系図 (あんみつ姫, 2004/2/24 14:29)
- Re: 大事な家系図ご立派ですね (あんみつ姫, 2004/3/2 11:25)
あんみつ姫
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 485
てうさんの記録は、次の頁から系図に移ります。
それを見ると、なぜ「敬虔なる謝意の祈りを捧げた」ほど大事な家系図であるのかが、わかります('-'*)
例えば、五代の藤左衛門の項には
法名 淸誉浄閑信士 墓所 正願寺
浪人百姓《ろうにんひゃくしょう=武士の身分で平時は農作業したもの》下葉原ノ岡村に居住す
其妻ハ《は》雑事役
河西庄右ヱ門の女《=むすめ》 男《子供》二人あり病死、後妻は大熊
村笹岡各兵衛の妹 女子一人ありて離別《りべつ=離婚》 其後《そのご》
藤森六兵衛の女と婚し女子一人あり
と、あります。
また九代直重は
浪人 藤左衛門の子
為元、弾之助 又 弾右衛門と称す
河西家中興の祖《ちゅうこうのそ=一旦衰えたものを盛り返した人》なり、母は河西庄右衛門の女
寛永七年八月(皇紀《こうき=神武天皇即位の年を元年とする日本独自の年の数え方、1872年制定》
二二九〇年)下条原に出生
始めの妻は中村祖兵衛の女 男女四人の子ありて
病死す、 後妻は渡辺七郎兵衛の女 その子男女
七人、その中の一女は直喬と婚し其の家を継ぐ
即ち軍治喬城の母なり 享保十九年卒す行年六十二才
法名 本覚妙誓大師 墓 温泉寺
正保二年祖父の由緒《ゆいしょ=いわれ》により召し出されて勤仕《きんし=仕える》す
勅岳院の御代下桑原の庄 岡村北沢の内に住居す
先の佐渡の守和泉の守の屋敷なり
寛文十年二月大工奉公 忠晴公の御代なり
文禄十三年七月十六日 願いに依《よ》りその役を免じ
養子甚五郎へ引替隠居《いんきょ》
享保元年十二月廿五日卒す行年《ぎょうねん=この世に生きた年数》八十七才
法名 方誉院隠西誓到居士
直重初め渡辺甚五郎(妻の弟)を養子とせり
然《しか》るにその実兄弥惣兵衛大阪にて病死、
渡辺家断絶《だんぜつ=家名が絶える》せんとする為実父七郎兵衛より直重に
乞ふて《こうて=頼んで》甚五郎を渡辺家に復帰せしめん事を以てす
即ち忠虎公の大阪御加番の時
元禄十四年三月晦日《みそか=末日》願旨を以て甚五郎を渡辺家に
返し、改めて新に溝口太右ヱ門利久の末子善右衛門
(比右ヱ門)を養子とす、即ち直喬
等と、延々と説明書きがあって、これを紛失することはさぞかし
御家の大事であったろうと察せられました。
まだ士族という言葉のあった明治生まれの人にとって、家系図と言う物は
大切な家宝だったのでしょう。
それを見ると、なぜ「敬虔なる謝意の祈りを捧げた」ほど大事な家系図であるのかが、わかります('-'*)
例えば、五代の藤左衛門の項には
法名 淸誉浄閑信士 墓所 正願寺
浪人百姓《ろうにんひゃくしょう=武士の身分で平時は農作業したもの》下葉原ノ岡村に居住す
其妻ハ《は》雑事役
河西庄右ヱ門の女《=むすめ》 男《子供》二人あり病死、後妻は大熊
村笹岡各兵衛の妹 女子一人ありて離別《りべつ=離婚》 其後《そのご》
藤森六兵衛の女と婚し女子一人あり
と、あります。
また九代直重は
浪人 藤左衛門の子
為元、弾之助 又 弾右衛門と称す
河西家中興の祖《ちゅうこうのそ=一旦衰えたものを盛り返した人》なり、母は河西庄右衛門の女
寛永七年八月(皇紀《こうき=神武天皇即位の年を元年とする日本独自の年の数え方、1872年制定》
二二九〇年)下条原に出生
始めの妻は中村祖兵衛の女 男女四人の子ありて
病死す、 後妻は渡辺七郎兵衛の女 その子男女
七人、その中の一女は直喬と婚し其の家を継ぐ
即ち軍治喬城の母なり 享保十九年卒す行年六十二才
法名 本覚妙誓大師 墓 温泉寺
正保二年祖父の由緒《ゆいしょ=いわれ》により召し出されて勤仕《きんし=仕える》す
勅岳院の御代下桑原の庄 岡村北沢の内に住居す
先の佐渡の守和泉の守の屋敷なり
寛文十年二月大工奉公 忠晴公の御代なり
文禄十三年七月十六日 願いに依《よ》りその役を免じ
養子甚五郎へ引替隠居《いんきょ》
享保元年十二月廿五日卒す行年《ぎょうねん=この世に生きた年数》八十七才
法名 方誉院隠西誓到居士
直重初め渡辺甚五郎(妻の弟)を養子とせり
然《しか》るにその実兄弥惣兵衛大阪にて病死、
渡辺家断絶《だんぜつ=家名が絶える》せんとする為実父七郎兵衛より直重に
乞ふて《こうて=頼んで》甚五郎を渡辺家に復帰せしめん事を以てす
即ち忠虎公の大阪御加番の時
元禄十四年三月晦日《みそか=末日》願旨を以て甚五郎を渡辺家に
返し、改めて新に溝口太右ヱ門利久の末子善右衛門
(比右ヱ門)を養子とす、即ち直喬
等と、延々と説明書きがあって、これを紛失することはさぞかし
御家の大事であったろうと察せられました。
まだ士族という言葉のあった明治生まれの人にとって、家系図と言う物は
大切な家宝だったのでしょう。
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あんみつ姫