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我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆 23

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通常 我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆 23

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/5/4 7:35
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 終戦復員の章 1

 翌八月十五日は、朝からイヤに静かであった。警戒警報も、空襲警報も鳴らない。船舶部隊へ行くと、正午に天皇陛下の放送があるので、全員営庭に集合するようにと達示があった。正午。船舶部隊の全員がラジオの前に集合した。初めて聞く陛下の玉音なので、一言も聞き洩らすまいと耳を傾けたものの、雑音がひどく全然聞き取れなかった。「時局が重大なので国民に対し奮起を促された」のではないかと思ったが、何か周囲の雰囲気が変なのである。どうも戦争が終わったらしいという声も聞こえる。何れにしてもハッキリしたことは唐津の部隊へ帰ったら判ることだ。兎も角、舟艇を受領する任務を帯びて出張して来ているのだから、一刻も早く任務を遂行して帰隊したかったので、混乱している部隊幹部の尻を叩いて舟艇を受け取った。しかし航海に必要な海図はないという。ない筈はないのだが、混乱の中でそれどころではないのであろう。

 ままよ、適当に行こう。舟艇は十五噸位のポンポン船である。最初は私が舵輪を握り、宇土半島と大矢野島の間の海峡を北に進んだ。海峡を出てそのまま真っすぐに進めば、長崎県の島原半島に突き当たる筈だ。突き当たったら海岸線に沿って右へ廻れば有明海に入る筈だ。有明海に入ったら適当な港を見付けて接岸し、陸路を唐津まで帰れば良い。いい加減なものである。それでも筈だ、筈だがその通りになって、何処かの港に入港した。そして十六日に唐津に帰り着いたと思うのだが入港した港が何処だったのか、この辺りは全く記憶にない。

 帰隊して見ると私達の部隊も混乱しているようであった。副官に聞き質すとやはり戦争は負けたらしいという。しばらくの間呆然自失の状態が続いた。どうすれば良いのか全く判断が付かない。敗戦なんて信じられるものか。我が大日本帝国に敗戦はない。戦えば必ず勝ち、攻むれば必ず取るのが帝国陸軍である。何かの間違いに違いない。確かに今は戦況は不利であるが、我が部隊はまだ一兵たりとも傷ついてはいない。現に我々はこうして本土決戦の為に、一意専心戦闘の準備をしているではないか。最後の勝利は絶対に我が軍にあると思ったが、心の空白は如何ともし難かった。

 大隊長の香川大尉が第十六方面軍司令部から帰隊して中隊長集合となった。ここで初めて、天皇陛下の命令に依り戦争が終わったこと。我が大日本帝国が連合国のポツダム宣言を受諾したこと。つまり戦争に負けたこと等を知らされた。そして隊内に暴動などの起こらないように厳重に警戒すること。別命があるまで待機すること等を命令された。私は小隊長二名を呼び、大隊長命令をそのまま伝えて、改めて警戒を厳重にすることを命令した。(殊に百二十名以上の朝鮮籍の兵隊の取り扱いには注意すること)。中隊長室の椅子に腰を下ろした途端、ボロボロと涙が流れて、それからはもう涙が止まらない。

 口惜しくて情けなくて腹が立ってどうしようもない。外へ出ると、やはり同じ気持ちなのであろう。材料廠長の城戸少尉や二、三名の将校連中が、目に一杯涙を溜めて、校舎と校舎の間に立っている桐の木を、軍刀で斬り倒している。私も仲間に加わって、この憤憑やる方ない気持ちを叩き付けた。その日と翌日は一日中泣き通し、切腹して死のうと思つたが(実際にその時切腹していれば、通常の精神状態ではないので、訳なく死ねた筈であるが…)しかし、私は中隊長の職にあったので、部下全員を無事復員させねばならない責任かあった。その責任を果たし、中隊全員の復員を見届けてからでも遅くはないと、踏みとどまったのである。その中、第二小隊長の草野傅曹長が吉田三成当番兵とともに、行方不明になってしまった。彼の行きそうな処を、八方探し廻。た結果、石川伍長と小林候補生の組が、熊本県の山奥の草野曹長の実家に、帰っていたのを見つけて連れて帰って来た。その理由は分からないが、草野曹長には重謹慎何日かを言い渡し、吉田当番兵には重営倉何日かを命じてこの件は決着した。(この逃亡事件は、私の記憶には全く無かったのだが、最近その関係者達から真相を知らされて、記憶を呼び戻したことである)

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