特攻インタビュー(第8回)
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- 特攻インタビュー(第8回)・その11 (編集者, 2013/5/31 6:47)
- 特攻インタビュー(第8回)・その12 (編集者, 2013/6/1 6:31)
- 特攻インタビュー(第8回)・その13 (編集者, 2013/6/2 6:45)
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- 特攻インタビュー(第8回)・その15 (編集者, 2013/6/5 6:21)
- 特攻インタビュー(第8回)・その16 (編集者, 2013/6/6 8:02)
- 特攻インタビュー(第8回)・その17 (編集者, 2013/6/22 7:56)
- 特攻インタビュー(第8回)・その18 (編集者, 2013/6/23 9:17)
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◆「赤トンボ」特攻隊の編成 3
N--------赤トンボで特攻に行くことに不満はありませんでしたか? もう少し新しい機体で行きたいというお気持ちはありませんでしたか?
粕井‥うちの隊長も、もう少しいい飛行機をもらえるように技術の向上を図ろうじゃないかと言っていました。オンボロでもいいから戦闘機あたりでももらえないかと。その技量に達するよう早く技量を磨こうじゃないかと。
ところが、これは噂で聞いたのですが、台湾から出撃した中練特攻が大成功したんです。なぜ成功したかというと、敵はその飛行機を140ノット出ていると思って狙ったらしいです。ところが、実際には75ノットか70ノットしか出てないわけです。だから、弾が全部、前の方をかすめていった。それで成功がしたということを昭和20年6月か7月頃、耳にしたことがあります。
それと破風張りですから、弾がズボンズボンと抜けて大きな打撃にはならなかったということも聞きました。
--------そうすると、赤トンボでも戦果を挙げられるのでは、という考えも出たのではないですか?
粕井‥うーん。それ以前に中練では沖縄まで行けないと思っていました。航続距離がないですもん。宮崎沖の日南海岸とか土佐沖海岸へ行くというのだったら行けます。その程度でしょう。
大きな船はとても無理で、輸送船や上陸用舟艇ぐらいしかダメだったと思います。
--------国分から人吉、そして観音寺と何力所か転々としていますけど訓練の都合で移ったのですか?
粕井‥国分は昭和20年1月前後から空襲が激しくなりました。人吉でも敵襲を受けました。それで、九州ではダメだ、四国に行こうということで四国の観音寺で訓練するということになったんです。
--------基地によって何か特徴のようなものはありましたか?
粕井‥さあ、私はあまり大きな基地を知らないんです。私か行ったのはこじんまりとした所ばかりですから。そういう所の方がアットホームで気分が楽です。大きな基地は偉い人たちが……我々の先輩や兵学校出身がたくさんいますし。それから、練習機など彼らから見たら幼稚園か小学生ぐらいにしか見えないでしょう。だから、そういう所に行くとやはり遠慮がちになります。
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◆特攻出撃三十分前 1
--------観音寺基地から国分基地に移ったのは、いつ頃でしたか?
粕井‥昭和20年7月です
--------国分基地では、もう訓練は行わなかったのですか?
粕井‥もう訓練は出来ません。制空権はアメリカ側にありますから。毎日が出撃待機でした。飛行機は木の葉などで隠して、出撃する時には道路を利用して飛行場まで持って行って、そこで爆装して飛んでいくというわけです。
--------特攻命令をひたすら待つというのは、やはりつらいものでしたか?
粕井‥なんかこう、ものすごく不安定です。どうしていたのかな……。やはり、不安な気持ちで晩は一杯飲み、そしてダジャレを言い合って過ごしたんでしょう。
--------昭和20年8月10日に、いよいよ出撃命令が下されるわけですが、その日のことを教えてください。
粕井‥その日、索敵機から「敵艦艇が日向灘沖約100マイルに接近しつつあり」という連絡が入り、攻撃3時間待機という命令が出たんです。搭乗割が貼られて、一番先頭に私の名前がありました。あと、2人乗りが3機、1人乗りが8人ぐらい。偵察員を入れずに1人で飛んでいく者もいたから、全部で16~17人だったと思います。索敵機からは、その後、ぜんぜん情報が入らなかったんですが、そのうちに30分待機になって、いよいよ、「これはもうしまいやな」と思いました。
ところが、昼過ぎから天候が悪くなって雲行きもおかしい……。雲があってもどうということはないと思うかもしれませんが、山に雲がかかると、雲の上へ行っても雲が厚い場合、どこまでいっても雲です。雲の下をくぐって行くと山が高かったらぶつかります。だから、雲がある状態で飛行するというのは難しいんです。そこへ、驟雨というんですか、そういうのが、サアつと降ったりするんです。これはもう、練度の低い連中では無理だと司令部が思ったのか、出撃中止ということになりました。実際、練度も低く、観音寺から国分へ異動するときに2人死んでいます。私の2番機が豊後水道にはまって沈没しましたし。機体もエンジンも信頼できるものじゃなかったんです。結局、その日は解散、攻撃中止、待機ということになったんです。
- -------攻撃中止が決まった時は、ほっとしましたか?
粕井‥ほっとしたというより、死ぬ時がのびただけという気持ちでした。攻撃中止になった時は、「ああそうか。なんか今日はストップや」、「次いつやねん」という感じです。
--------3時間待機命令が出た後は何をしていたのですか?
粕井‥まず、爆弾の装着をします。それから燃料を積んで、いつでも出撃出来るように暖機運転をしながら待っているわけです。
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◆特攻出撃三十分前 2
--------遺書とかを書きましたか?
粕井‥いや、遺書は書いてないです。というのも、他の部隊の場合、特攻に行くというのは最初からわかっているわけです。例えば、詫間で一緒にいた連中なんか、詫間で爆弾を積んで指宿まで行っています。零式水上偵察機に積む800㎏爆弾が指宿にないんです。だから、詫間で積んで指宿まで飛んでいる。九四式水偵の場合、500㎏爆弾は指宿にあったから何も搭載しないで飛んで、指宿で500㎏爆弾を積んで出撃する。だから、詫間を出るときには、もう突っ込むということがわかっているんです。
ところが、私たちの場合、とてもじゃないが沖縄まで飛べない。しかも練度は低い。だから、いよいよ、敵が日本本土に接近してきた時に、何でも使って少しでも敵の上陸を阻止しなければいかんという切羽詰った状態で出撃するわけです。戦術的には最後の手段だったわけです。
戦後、戦友会に200人の中、50人か60人ほど来ましたが、特攻隊から外れた連中もたくさんいる。むしろ、その方が多いんです。それから特攻でも、その日のメンバーはたった12人ですから、その12人のうち、士官や下士官を除いた練習生は7、8人ですから、誰がメンバーだったかはっきりわからないし、その話になると皆、あまり話たがらない。ですから、その時の真相は未だにぼんやりしています。私の飛行機に燃料をどれだけ積むかと整備員が言った時、「半分でいい」と答えた隊員がいた。それを知ったのは戦後のことなんですけど、それを聞いていたのは、私の仲人をしてくれた男ですが、これも死んでしまいまして。なんかこう、未だに雲に包まれたような状態のままです。
--------30分前待機になった時、出撃する場所は決まっていたのですか?
粕井‥いや、敵の艦船の位置がはっきりわからないんです。だから、位置はどこそこから南南東何マイルのところ、艦船はどういう構成で、どの方向に進んでいるかという具体的なことがわからない。輸送船なのか、軍艦なのか、軍艦でもどういう種類なのかという、それも、全然わからないわけです。だから、その偵察もどの程度、本当だったか。日向灘で偵察機がよく落とされていました。九州には佐伯とか博多とか水上基地がたくさんありましたが、三座水偵の偵察機がよく落とされました。機銃が旋回銃1挺しかないですから。私の教官だった松阪中尉も哨戒で戦死しています。その前に電信を打つわけですが、それも打っている途中で撃墜されると敵機が空母からのものなのか、あるいは基地からの飛行機なのかということもはっきりわからないままで、情報も非常に不正確になるんです。
--------出撃命令が出た8月10日と言えば、すでに広島と長崎に原爆が落とされていますが、ご存知でしたか?
粕井‥広島ははっきり聞きました。長崎に落ちたぞということも聞きました。ピカツと光ったら物陰に隠れろというわけです。軍服も全部カーキ色に染めました。ところが、カーキ色の服は新型爆弾に弱いというわけです。白い服だったら反射して被害が少ないから白を着ろというのですが、白い服なんてありませんもの。そういうことで、情報というのは断片的に聞こえてくるわけですが、それが噂だったり、誇大だったり、あるいは過小に握りつぶされたりでした。
--------赤トンボの特攻は最後の手段というお話がありましたが、その頃は、その最後の手段を使わなければならない状況だったようですね。
粕井‥そうです。東京も大阪も焼け野原。大阪の私の家も残っているかどうかわかりません。何万人も被災して殺されている。言ったら戦地も銃後もないわけです。どっちが安全かと言っても、自宅にいても、全然、安全じゃないわけです。じゃあ、同じ死ぬなら戦果を立てて潔く死のうじゃないかと。一対一で戦っても1人殺せるかどうかだけど、飛行機に乗ってうまくぶち当たれば何百人と刺し違えることができる。わが家は兄や弟もおる。兄は長男で家を継がなきゃいかん。弟はまだ小さい。なら、次男の俺が死ぬのは当たり前じゃないかと。戦友もずいぷんと倒れていった。じゃあ、俺も、恥ずかしくないような死に方をしようということです。
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◆特攻出撃三十分前 3
--------大阪のご家族の安否を確かめることは出来なかったのですか?
粕井‥はい、確かめる術はありませんでした。終戦で帰ったら家があって、私の所のちょうど一角が焼け残っていました。
--------同期である13期飛行予備学生の戦死者は多かったのですか?
粕井‥相当、戦死しました。13期予備学生の戦死者は1616名……。航空隊のことですから、あちこちに飛んだりするでしょう。そうすると、T?あ、貴様、生きてたか」、「おう、まだ生きてるぞ」、「そういえばな、俺とこの分隊のあいつも死んだ、あいつも、あいつも死んだ」、「お前、あいつ知ってるか」、「知ってる、知ってる。あいつ、よう飲んでん」、「あいつも死んじゃった」とか。ポツリポツリと欠けていくわけです。
--------特攻で亡くなった同期生も多かったそうですね。
粕井‥相当おります。1616名の戦死者のうち特攻で戦死したのが448名で、その数は海軍士官特攻の56%に及びます。
私が一番親しかった碓本守(うすもと まもる)は、私か詫間から人吉に転勤する時、詫間に残ることになりました。彼の実家は滋賀県でしたから、「たまに帰れるかもしれんわ。ええことしたな」というようなことを言いました。彼とは、日曜日によく一緒に高松まで飲みに行きました。汽車一本遅れたら走って帰らないと間に合わない。それで、飲んでから4キロ走ったりしましたが……昭和20年4月に、九四式水偵で特攻出撃しました。また、硫黄島で死んだ早瀬豊は拓殖大学柔道部の主将で、たまたま硫黄島に飛行機で行って、帰りの便がなくなってそこで死んだそうですが、真相はいまだにわかりません。
--------「軍隊は運隊」と言いますが、今のお話しをうかがうと改めてそう思いますね。
粕井‥そうです。本当に運です。だから、戦闘機に行ったから危ないとか一概に言えません。昭和19年に飛行要務士というのができました。搭乗員として採用されても、やはり、向いていないという連中が出たんです。ですが、せっかく採った連中をこのまま辞めさせるのはもったいないということで飛行要務士ができた。
飛行要務士というのは、どういう仕事かというと、搭乗員というのは出撃したらすぐ死んでしまうから、継続した記録を残したり、準備や後始末ができないわけです。例えば、人事一つでも、その搭乗員が部下の人事を担当していても、そいつが飛んで行って亡くなってしまったら、彼のやった仕事が全然わからなくなってしまう。そういうわけで、戦闘記録や人事記録などといった仕事をするのが飛行要務士です。今のクラブ活動でいうマネージャーみたいなものです。一見すると飛行機に乗らないから、生命は助かるだろうと思っていたら、案外これが航空母艦に乗ったりして死んでしまっているんです。
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◆特攻隊の解散
--------8月10日の出撃中止命令から終戦までのことをお聞かせ下さい。
粕井‥終戦の日は何か発表があるということで、士官は士官官舎で分散してラジオを聞いていました。聞きにくかったですが、どうやら負けたらしいというわけ……。何か、うつろになりましたね。張り切ってというか、死を覚悟して毎日待機していたのに、目標というか、生きがいというか、そういうのがパッとなくなったような……。
それから、いろいろな噂が出てくる。朝鮮半島の元山航空隊では、「搭乗員全部集まれ」というので集まったら、飛行場へ整列させて機銃で全員撃たれてしまったとか。あるいは、ソ連が皆を拉致したとか……。それから厚木航空隊ではビラを刷って、「われわれは絶対徹底抗戦する」というようなことをやったとか。それから、どこかの司令長官は沖縄へ彗星艦爆で突っ込んだとか。いろんな情報が入ってくるわけですが、どれを信用していいのやら。それからアメリカがやってきて特攻狩りをやるとかやらんとか……。
そのうちに、確か昭和20年8月18日だったと思います。「乾龍」特攻隊は解散になって、「各自命あるまで自宅待機せよ」ということになりました。とにかく、搭乗員は先に帰れというので、私は特攻機となっていた九三中練機で大分基地まで飛ぶことにしました。後席に出撃時のペアだった野地二飛曹を乗せ、他に2機も同行して3機編隊で司令部があった大分まで飛んだんです。そこで燃料補給と一晩泊まるぐらいしてくれると思っていたら、大分の方が先に解散していて誰もいないんです。大分では小学校に分散して宿舎にしていたから、そこへ行ったら、「兵隊さんが残してくれた米が少しあります。おむすびでもっくりましょう」と言ってくれて、一緒に来た連中に持って帰りました。翌日、同行した2機と別れて、私は岩国に飛んで陸軍航空隊に燃料補給を頼んで、その後、広島の方に行こうと思ったんです。ところが、広島はひどいことになっているらしいし、飛行機の整備も頼りないから、呉市の南を通って大阪へ帰ることにしました。
ところが、呉あたりまで飛んだら、エンジンがプスプスいって回転が落ちてきました。野地二飛曹に「手動ポンプを押せ」と言いましたが駄目で、ちょうど、空き地が見えましたので、その空き地に「不時着するぞ」と言って、着陸しました。そこは、陸軍か海軍の飛行場だったようで、ドライバーが見つかりましたのでエンジンカバーをこじ開けたんです。そしたら、燃料濾器(ねんりょうこしき)がペシヤンコに歪んでエンジンに燃料が注入しないわけです。
それで、「もう、濾器なんか放っておけ」と、そのまま離陸して、西明石あたりの飛行場らしい空地に着陸しました。そこで飛行機を捨てて、落下傘など身回品りを大八車に積んで駅まで行って、上りの列車に乗って大阪駅に帰りました。野地二飛曹とは大阪駅で別れて、私は梅田から市電に乗って実家のある上本町まで来たら、周りは焼け野原なのに上本町だけ残ってますやん!それで、「ああ」と思って家の方に歩いたら、家のある一角が焼け残っておりました。もう夕暮れ近くになっていました。家に着いたら祖母が出て……私、改名する前の名前は「完(たもつ)」と言うんです。今は戸籍名も貫次に変えていますけど……「おう、たもつか、たもつか」と。
--------飛行機で実家の近くまで帰ってきたというのは珍しいのではないですか?
粕井‥いや、いろいろいます。例えば和歌山の連中なんか、紀ノ川の川原に不時着して、そこから家帰ったとか。大分では司令部が解散していましたけれど、南九州などの各基地から降りてくる飛行機が後を絶ちませんでした。そして、「あんた、どこまで帰んのん」、「ここから家帰る」、「飛行機いりませんな」、「いらない」、「じゃ、私にください」と言って操縦したこともない飛行機を、「これ離陸何ノットですか」、「着陸何ノットですか」、「巡航は何ノットですか」、「ガソリンはどれぐらいありますか」と聞いて飛んで帰った者もいました。当時、国鉄も復員と言ったら、もうノーパスで乗せてくれたり、あるいは、イモ判を押して、「帰郷につき、便宜よろしく頼む」と書いたガリ版刷りの証明書みたいなものを持って行ったら、全国どこでも通用したというような時代です。日本国中、混乱していましたから。
--------ある予科練出身の方のお話では、終戦で生きて帰ってきたことが恥ずかしく、親戚の家にいて、実家や知人の目をしばらく避けていたということですが。
粕井‥そういう人はいたでしょう。予科練生は若いだけに非常にまじめでしたから……。中には、昔の中学校や母校へ復帰した予科練生かいばって、「気合入れたる」と言って下級生をぶん殴ったりしたような者もいましたから、人それぞれでしょうが。
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◆ベストを尽くした海軍時代 1
--------その後、戦後の人生で、海軍軍人だったことや、特攻隊員として経験が役に立つたという経験はあります?
粕井‥あの時、体験した「死」というか、「どん底」というか……どんな目にあっても、その頃のことを思えば怖いことは何もないということです。それと、短期間でしたけれども、全身全霊、自分の力を出し切った、という自信です。やればできるという……。
--------戦争を知らない我々が、特攻や戦争のことをどう受け止め、そして、体験者のお気持ちを、どう後世に語り継ぐべきか、粕井さんのお考えを知りたいのですが。
粕井‥聞く人の先入観というか、土台というか……。戦後、非常に曲げられた歴史観、日本の過去に自虐的な史観を持つことは、私は残念だと思います。自虐史観の人に、いくら話してもその土台が違うわけです。だから歴史というのは、それを書いた人の立場、時代によって、どうにでも曲げられて伝えられる場合があります。それを正しい意味における客観的な事実として捉えてもらうという必要があるような気がします。
例えば、東京裁判が正しいかというと……東京裁判というのは事後法です。裁判のために法律が作られて罪が生まれたのだから後からでっち上げたものでしょう。それに基づいて今、国旗も揚げない。近所では私の家だけ国旗を揚げています。ですが、憲法記念日には揚げない。アメリカが占領の最中に押し付けて、押し付けられた憲法をいまだに変更、改正しようともしないような日に、なんで日の丸を揚げる必要があるのか。だけど、祝日は日本国民として誇りを持って、自信を持って、日本の国を立派にしていかなければならないと思って国旗を揚げています。もっと素直にというか、自信を持ってというか、民族の誇りというものを持つために、特攻というものは、こういうものだった……皆の純粋な気持ちの表れであったということを私は伝えたいと思います。
--------我々は先入観を持たずに、実際に体験された方の気持ちを知りたいと思うのですが、粕井さんは特攻をどのようにお考えでしょうか?
粕井‥今の時代は個が大切、何でも己が大切。家・社会・国家というものはウェイトがものすごく低いです。ですが、私たちの育ってきた時代というのは国家、地域、家……特に家というのは非常に大切でした。そういうものを土台に、純粋な気持ちで特攻というものが行われた。だから、その純粋な行動に対しては敬虔な気持ちで、その犠牲に対して我々は敬わなければならないし、そういう方々に対する敬虔な気持ちを忘れてはいけないと思います。
しかし、戦争はどうかというと、戦争は絶対に悲劇です。これはやるべきでない。だけど、戦争にならないために、どういうふうにしたらいいかということでしょう。戦争は非常に悲惨である、だけど、今の民主主義はなんか知らん、人気投票みたいなことになって、国とか、民族とか、社会がよりよくなるためにはどうしたらいいかという自覚もなしに、自分のことしか考えない、自分の議席を守ることが第一だというような人をたくさん選んで、国が右左揺れ動いているということは残念な世の中だと思います。
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◆ベストを尽くした海軍時代 2
--------粕井さんの最終階級は海軍中尉ですが、士官として、特攻隊員として、あの特攻作戦について何かご意見はありませんか?
粕井‥特攻作戦はやはり邪道でしょう。あの大西瀧治郎中将がおっしゃったように、のっぴきならない最後の手段を取ったと言いながら、必ず死ぬというような戦法は、私は、やはり大西瀧治郎さんがおっしゃったように邪道だと思います。
-----特攻作戦について疑問をお持ちになったことはありますか?
粕井‥ありません。私は粕井家の次男として当然の責任を果たすべきだと……もうこれ以外に日本国民として道はないという気持ち。恥ずかしくないような最期を遂げたいと、そういう思いだけでした。
--------特攻で戦死された同期の方たちのことを思うと、どのようなお気持ちになりますか?
粕井‥「貴様とおれとは同期の桜」……特攻の慰霊祭に後、皆で肩を組んで歌う。その時に皆、いまだに涙がこぼれます。一頃、それが流行歌のように何か宴会の余興の1つで、何も知らない連中がやると、我々の同期はそこへ行って、「やめろ」と言って、「こんな酒席で歌うような歌とちがうんだ」、「今すぐやめい」と怒鳴り込んでいきました。靖國神社へ参拝しても、どういうんですか、ものすごく悲痛な気持ちになります。「なんで、あいつと俺とこない違うんや」と……。本当に何も知らんで……。世の中の楽しいこと、お酒飲むことすら知らん、それで死んでいるでしょう。当時の平均年齢は男性で40歳代です。ところが、私はその倍、生かさせてもらっているんです。だから、本当に申し訳ないという気持ちと、ありがたいという気持ちが交錯します。
‐--------今の若者たち、そして、子孫にこれだけは語り継ぎたい、これだけはわかってほしいというものがあれば、教えていただきたいのですが。
粕井‥どの時代でも、これが正しかったとか、こうしなければならなかったというのがあると思います。明治維新前後では勤皇か佐幕か、あるいは攘夷か開国かという時に犠牲になった方々もいますね。だけど、その立場、立場において、やはりその人は、この生き方がベストやと思って戦い、あるいは、それゆえに暗殺され、暗殺した人もいるが、皆、それは尊い命であり、その時代、時代にベストを尽くそうと思った人たちがほとんどだったと思います。そういう人たちの考え方、人生のあり方というものを尊重して、自分がせっかく与えられた生命、一生というものを大切にし、その方が、この世の中に生まれたことで世間にプラスになるような生き方というか、そういう自覚を持ってほしいと思います。
--------我々は特攻隊戦没者慰霊顕彰会の1人として慰霊行事などの活動をしていますが、我々に対する要望は何かありませんか?
粕井‥いや、ご立派と思います。そういった方々がいなかったら、亡くなった戦友が死んだ意義が少しでも高められることは有難いことです。だから、そういうお考えをずっと続けられるようにしていただきたいと思います。
--------今日は貴重なお話をありがとうございました。(……了……)
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粕井 貫次(神風特別攻撃隊乾龍隊)軍歴
1923年(大正12年)12月 大阪府大阪市に生まれる。
1943年(昭和18年)9月 第13期海軍飛行専修予備学生として三重海軍航空隊に入隊。
1944年(昭和19年)1月 水上機操縦訓練のため博多航空隊に転属。
1944年(昭和19年)4月 詫間航空隊に転属。
1944年(昭和19年)5月 海軍少尉に任官。
1944年(昭和19年)7月 分隊士兼教官として出水航空隊・国分分遣隊に赴任。
1945年(昭和20年)1月 神風特別攻撃隊・乾龍隊編成。人吉航空隊へ移動。
1945年(昭和20年)4月 観音寺航空隊に移動。
1945年(昭和20年)6月 海軍中尉に任官。
1945年(昭和20年)7月 国分航空隊(第1国分基地)に移動。特攻待機となる。
1945年(昭和20年)8月10日 乾龍隊に特攻出撃命令が下る。出撃三十分前を体験。
1945年(昭和20年)8月18日 乾龍隊解散。大分基地まで飛行。
1945年(昭和20年)8月19日 岩国、呉、西明石付近まで飛行の後、列車で大阪の実家に帰宅