特攻インタビュー(第9回)
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- 特攻インタビュー(第9回)・その11 (編集者, 2013/7/4 6:19)
- 特攻インタビュー(第9回)・その12 (編集者, 2013/7/5 7:41)
- 特攻インタビュー(第9回)・その13 (編集者, 2013/7/6 6:06)
- 特攻インタビュー(第9回)・その14 (編集者, 2013/7/7 7:58)
- 特攻インタビュー(第9回)・その15 (編集者, 2013/7/8 7:42)
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◆甲種予科練と乙種予科練の騎馬
-------終戦の情報を事前に聞いていたということですが、8月15日の玉音放送は冷静に聞けたのですか?
海老澤‥ガーガー騒音だけで……ちゃんと聞かせないようにしたのかな(笑)。それで、周りの人に「何て言ったの」と聞いたら、「戦争はこれから激しくなるから、特攻隊員は頑張れということだ」と言うんです。ですから、終戦から1週間、猛訓練を続けましたよ。そのうち、厚木航空隊からビラが飛んで来たりして、あれ、変だなと……。
結局、訓練は終了するという停戦命令を受けたのは8月22日でした。
-------その時のお気持ちは。
海老澤‥ラバウルから帰ってきた時、アメリカ軍を、もう手の付けられない相手と思っていましたからね。その頃、病院に下宿していたんですけど、そこの先生が、「海老澤さん、戦争はどう?」と聞くから、首を横に振りました。「ダメ」と言葉に出したら軍法会議ものですからね。その先生は、その後、疎開しました。
-------伏龍隊の隊員は10代、20代の青年たちだったと思いますが、海老澤さんから見て、彼らはどのような青年たちでしたか?
海老澤‥20代なんていないですよ。みんな、16、17歳ですよね。私は500人の中の年長者でした。だから、みんな弟というよりも、自分の子供みたいなもんですよね。上官もみんな予備学生で20歳前後の若い人ばかりですから、私が一番の年長者。だから、その頃、私は26歳でしたけど、気持ち的には34、35歳、いや40歳くらいのつもりでいました。
-------予科練も甲種と乙種がありますが、それぞれ雰囲気は違っていましたか。
海老澤‥違いましたね。乙種は甲種よりも進級がずっと遅いんです。甲種に入った者はみんな、自分たちは海軍兵学校並みだというつもりでいて、進級も兵学校並みと教えられて来ていますから……。例えば、甲種と乙種に分けて騎馬戦をさせたんです。乙種は甲種に対して、もの凄いライバル心があるから猛烈な団結心があるわけです。甲種は優越感があるからそれほどでもない。騎馬戦をやらせると雲泥の差で乙種の方が強いんです。「甲種の奴らを生かしてなるものか」というくらい闘争心をむき出しにしてやるんですね。
甲種は幹部候補生として入ってきているつもりだから、真面目だけど乙種に比べて大人しい。乙種は手に竹刀のツバをつけて殴ったそうです。甲種はみんな鼻血を出して倒れてました。まあ、乙種の方が若干、「与太っている」人間が多かったんじゃないですか。
-------タイプの違う部下をまとめるのに苦労したのではないですか?
海老澤‥今みたいに、部下に気遣いしたり、部下が上司に自由に意見を言うような時代じゃないですからね。上から一方的に命令するだけですから。上等下士がものを言ったら、百%その通りになるんです。命令には絶対服従の時代でしたからね。部下をまとめる苦労なんて考えてもいなかったですね。
-------当時の隊員の年齢は今の高校生くらいの年齢ですが、全然違いましたか?
海老澤‥テレビとかで今の高校生の姿を見てると、今の10代の方が、考え方が大人っぽいですよ。10歳は年が違うような……大人と子供くらいに違いますね。今は、自由に発言出来るから大人っぽく感じるのかもしれません。当時は発言を全部封じられているから子供っぽい……。今、我々が若い人にどうのこうのと言えないですよね。時代が違うから、ついていけないですよね。
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◆「伏龍会」と「海軍十四徴会」
-------6年間の海軍生活のなかで、海老澤さんが特攻に関わった年月は短いものでしたが、特攻隊の1員だったということは特別な意味を持ちますか?
海老澤‥海軍に6年いて特攻隊だったのは3ヵ月です。同期にも伏龍隊にいた者がいますが、バカバカしいと言って伏龍隊のことなんか無視する者もいます。だけど、誰かが伏龍隊の面倒を見なければならない。だから私か最後まで面倒をみて……面倒をみると言ったら大げさですけど、関係している状態なんですよ。
戦後、「伏龍会」というものがなかったものですから、今から35年前ですかね、朝日新聞に当時、木曜日でしたか、戦友会のことを載せてくれるページがあったんです。それに毎週、「海軍伏龍隊の関係者の方、ご連絡ください」という記事を10年くらい出したんです。それで、一人、二人、三人と連絡が入り、それが300何名になって、「伏龍会」という戦友会を作りました。
今でも「伏龍しか知らないから入れてください」という人がいます。だから、最初は2、3人から始まった会なんです。集まれば、いろいろな話になるんですけど、予科練で三重航空隊に入隊したなんて話が中心になって、伏龍の話は二の次になっちゃうんです。伏龍隊に来た予科練生は三重空出身者が多かったですからね。だから、伏龍しか知らない者は長続きしないです。三重空の戦友会の方が中心になるんですね。
私の同期も、「長門」に乗った……「陸奥」に乗った……「赤城」に乗った……と、いろいろなフネに乗っていますが、同期が集まるのはやはり、この「海軍十四徴会」です。同期の8割が「海軍十四徴会」に集まりますね。「お前、何年兵?」、「十四徴」、「じゃあ同年兵だな。同期の桜だな」という方が話は早い。それだけで親兄弟以上になるんです。
-------「十三徴」、「十四徴」……それだけで、どういう経験をしたかが分かるんですか?
海老澤‥はい。「十四徴」だけで喜びも悲しみも分かるんです。
-------「十四徴」の方も特攻体験者は多いと思うのですが、特攻の体験談をお聞きになったことはありますか?
海老澤‥「十四徴会」には1500人くらいいるんですけど、戦後に聞いた限りでは、特攻にいた人は誰もいないですね。特攻隊でも、庶務とか直接関係のない部署にいた者はいるけど、それは特攻ではないですからね。直接、特攻隊に関係しているのは私だけみたいですね。
-------そうすると、海老澤さんや同期の方は特攻をわりと客観的に評価できると思うのですが、海老澤さんから見て特攻をどうお考えにありますか?
海老澤‥「特攻とはなんぞや」と問われたら「勇敢な人だな」と思いますね。何よりもまず、勇敢だと思います。「特攻」と言えば、「恐怖」を思いますね。「恐ろしい」、「怖い」と。だから、「恐怖」を乗り越えて特攻に出撃した方、亡くなった方は偉いなと思います。
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◆決起を誓い武器を隠す 2
海老澤‥戦争が終わって8月22日に訓練を止めた日に、伏龍の戦闘用具を全部、野比海岸に穴を掘って埋めたんです。その時、事故で岩手県の17歳の隊員が兵器と一緒に穴に落ちて、首の骨を折って亡くなったんです。同室の15人と一緒に、野比の焼き場に持って行って焼いて、ふと見たら、みんな足がカタカタ震えてるんですね。かわいそうだから、みんな返して、骨壷なんかないから、木箱に骨を入れて野比のお寺に行ったら、「伏龍隊の遺骨は浦賀に収めているから浦賀に行け」と言われてね。もう、午前2時くらいでしたが仕方なく木箱を背負って……骨壷じゃないから熱くて……木が焦げてるんですね。カチカチ山の狸みたいになりながら、一人で浦賀のお寺に行きました。
隊に戻ったのは4時くらいでしたね。その後の後始末は、海軍では主計科がやることになっているんです。私は兵科で主計科ではないですから、その後、どのように遺族に連絡したのかは分かりません。戦後、10年くらい経ってから、その遺骨を預けた寺に行ったんですよ。そしたら、「うちには戦没者の遺骨は一つもありません」と言われたので、安心して帰ってきました。亡くなった方の住所も知っていましたので、その家に手紙を出しましたが、「私は嫁ですが、お祖父さんも、お父さんも、兄弟も全部亡くなって、嫁に来た身分で、伏龍に出た息子さんの顔も知りませんからこれから一切、連絡しないで結構です」という返事が来ました。
-------私たちは戦争体験を後世に残す活動を行っているのですが、海老澤さんは長い海軍体験を通じて何か語り継ぎたいことはありませんか?
海老澤‥国を思う余り....明治時代の人は国を大きくしたいばっかりに、日清戦争とか日露戦争をやって……戦争をやって勝てば領土が増え、大きくなるわけですよね。戦争をやらなければ国は大きくならないんです。その反面、戦争は絶対嫌だという考えもあるし……。だから、領土問題を考えても戦争はいけない、だけど、戦争をしなければ国は大きくならない、という考えが頭の中に渦巻くんですよね。難しいんですよ。
でも、戦争って、今の人にとってはゲーム感覚なんじゃないですか。家庭を持っていない、親はいない、兄弟もそんなにいない、そういう人は「戦争ゴッコ」をしたくなるんじゃないですかね。日本全国で集めれば、そういう人が何千、何万といるような気がします。もし、徴兵制が復活したら、行かせて下さいという人が結構いるんじやないですか? 生活が行き詰まれば、徴兵制を望む雰囲気が出てくるんじゃないですかね……。当時、海軍に入る人は岩手県と宮崎県出身者が多かったんです。「困ったら海軍に行け。学費がタダだし、小遣いももらえる、着る物ももらえる」って。貧しいから、食べるにも困ったからですよね。海軍兵学校を落ちたら、「じゃあ、下士官でいいから海軍に行け」と言われたといいますよ。
まあ、戦争中は、我々は死ぬというのが当たり前だと思っていましたから。特攻隊で結婚して、妻も子供もいて、自分が死んだ後、どうするんだろうという考えもありませんでしたね。
死んだら死んだで、軍人恩給で、米や味噌くらい買えるだろうくらいの考えしかなかったですから……。
-------戦後70年近くまで過ぎて、今、あの時代は何だったんだろうと思うことはありますか?
海老澤‥よく生き延びて、ここまで来たなあと思いますよね。士官でもない、分隊長でもない、特攻隊司令でもない……単なる上等下士に過ぎない私が、天皇を守るため、特攻隊の集まる場所まで指定したんですからね。武器や用具まで準備した。天皇を守る一心に……。まあ、実際に特攻に出すこともなく、ここまで来て良かったと思いますけどね。
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◆決起を誓い武器を隠す 2
-------終戦で停戦命令が出て、その後、隊員や武器はどうしたんですか?
海老澤‥他の特攻隊はいろいろやっているのに、うちは特攻らしいことを何もしていませんでしたからね。万が一のことがあった場合、特攻隊の連中が集まって天皇陛下を守ろうと、そんな話をしていました。それで、こんな決起書のようなものを作りました。
「兵に告ぐ。
我々伏龍特攻隊は、本日を以て解散する。隊員諸君、戦闘訓練を本日修了する。我々は戦闘意欲は十分ある。天城の山で決戦する覚悟でいる。陛下に万が一の場合は皆に集合をかける。諸君の住所、落ち着き先を班ごとに集めて至急、先任下士官まで提出せよ。
八月二十二日
伏龍隊先任下士官 海老澤善佐雄」
-------この決意書は海老澤さんが発意したのですか?
海老澤‥そうです。伏龍隊の分隊長は予備学生ですからね。私よりも3歳くらい若い人ですよ。学歴で上官になりましたけど、戦争のことも軍隊のことも何も知りませんからね。兵曹長も何人かいましたけど、みんな兵科じゃなく、潜水を知っている人が指導に来ているわけですから、私みたいにテッポウを撃って戦争をするような人間じゃなかったから、眼中になかったですね。
オレが上だみたいに思っていましたから。
で、米と武器を予備学生の隊長の家に集めることになったんです。手榴弾500発と米20俵を半日かかりで隊長と2人で運びました。それで、隊長の家というのがよく覚えていなんですが、横須賀の先の山の上あたりだったような気がします。戦後、私は一度もそこを訪れていないし、米をねだったこともないから、その後、米と武器がどうなったかは知らないんです。米はともかく手榴弾はどうしたんだろう……。
海が近くにあったから、海岸辺りに捨てたと思いますよ。伏龍で使った爆雷も、野比にいた上の連中が海岸近くの防空壕に埋めたらしいです。
それで、今から10年くらい前ですか、伏龍の破棄爆薬が原因で、野比の民同工場で爆発事故がありました。でも、伏龍の関係者は誰一人名乗り出ませんでした。よっぽど私か名乗り出て、自分の部隊の責任ですと言おうかと思いましたが、新聞沙汰になって槍玉に上がっても困るから黙っていましたけど。本当は軍需部に納めなきゃいけないものなんです。終戦のドタバタであんなことになったんですね。
-------今日は貴重なお話をありがとうございました。
(……了……)
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海老澤 善佐雄氏(伏龍特別攻撃隊第七十―突撃隊)軍歴
1918年(大正7年) 東京都世田谷区に生まれる。
1939年(昭和14年)1月 横須賀海兵団に現役入団。
1939年(昭和14年)5月 駆逐艦「春雨」乗艦。
1941年(昭和16年)4月 海軍省勤務。連合艦隊第一通信司令部庶務部助手
1941年(昭和16年)9月 海軍機雷学校普通科練習生。
1942年(昭和17年)2月 水上機母艦「秋津洲」乗艦。
1943年(昭和18年)5月 横須賀防備隊勤務。
1945年(昭和20年)6月 海軍対潜学校久里浜第一警備隊 伏龍隊教員を命じられる。
1945年(昭和20年)7月 第七十一突撃隊付を命じられる。先任教員、先任下士官、先任伍長勤務。
1945年(昭和20年)8月22日 第七十一突撃隊解散。