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終戦と引き揚げ、、北朝鮮編(一)野崎 博氏の手記

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/6 1:09
団子  半人前   投稿数: 22
1996年、今から9年前、私の友人、「野崎 博氏」が自分の経験を風化させたくないと言う気持ちから、北朝鮮学校時代の同窓会(敗戦時南に移動した朝鮮の生徒も含む)の会誌に投稿し、それを手作りの小冊子にして、私たち友人、知人に送ってきたものを、彼の許しを得てここに投稿するものです。彼もメロウ伝承館に協力できる事を大変喜んでいます。

「終戦と引き揚げ」
興南
北朝鮮感鏡南道(県)東朝鮮湾が深く陸地に接した街、興南府(市)は野口 遵氏の朝鮮窒素《ちっそ》、後の日本窒素肥料KKが作った工場の町である。昭和初期、赴戦江ダムに20万kw発電所を建設、ついて長津江、虚川江、鴨緑江本流に70万kw大発電所(黒四ダム33万kw)全部で150万kwの発電所を建設した。その電力を消費するため建設された世界規模の化学コンビナートが興南工場である。終戦時、従業員4万五千、工場・社宅・厚生施設を含めて19・8平方キロ(新宿区18・5平方キロ)製造設備世界一。水電解工場、世界三位。硫安《りゅうあん》工場、日本一。硫安、油脂、火薬、カーバイト、マグネシュム。人造宝石。石炭から直接液化による人造石油、アルミニュウム、カーボン、苛性《かせい》ソーダ、石灰窒素、アセチレン、アンモニア、石鹸《せっけん》、発電所ー興南を結ぶ新興鉄道などである。興南港は一万屯《とん》級数隻が横付け出来る2千メートルをこす岸壁があった。戦争末期、これら軍需物資《ぐんじゅぶっし=軍事上必要な物資》製造工場はB29《=アメリカボーイング社製の爆撃機》に爆撃されても不思議ではないが、爆撃は一度もなかった。20年《1945》3月7日、B29が一機偵察に来た。銀翼に飛行雲をひきながら青空に映えて美しかった。無知な私たちは、白煙ひいているから、すぐ墜《お》ちると話していた。

昭和20年8月9日、ヤルタ会談《=1945年2月米、英、ソ3国がヤルタで行った会談》で満州攻撃を要請され、同意したソ連は、中立条約を破棄して北朝鮮に侵攻《しんこう=攻め込む》した。ここに日本人の悲劇が始まる。同8月22日、ソ連軍先遣隊が興南に進駐。
この日を堺に敗戦とはどういうものか、興南在住日本人24,114人は骨身に思い知らされ、地獄に投じられたのである。

「終戦」
(一)
昭和20年8月15日、私達のクラスは校内で土堀り作業をしていた。朝から暑い日だった。午後の作業にかかろうとした頃、職員室から先生が来られ「作業は中止。すぐ帰宅するように」と言われた。そうして戦争はスンダとも言われた。それだけ告げると戻っていかれた。朝鮮の先生だった。その日、すでに知っていたのか朝鮮の生徒は朝から出て来てなかった。2,3名きたものもいつの間にか消えていた。終戦を学校で迎えたのは全校中私のクラスだけだった。前日から予告があった「玉音放送《=天皇直接のラジオ放送》」は学校にラジオがないから聴いていない。

放送は重大戦局に国民は心を一つにして聖戦を完遂《かんすい=やり遂げる》せよ。そんな内容だろうと話し合っていた軍国の少国民に今更戦争が済んだと言われても、終わったのか、敗《ま》けたのか意味がのみこめない。サイパン玉砕《ぎょくさい=潔く死ぬ》、沖縄はとられ敗色濃いのは知っていても、関東軍100万健在、連合艦隊は温存してあると信じていたから、まさか負けるとは思ってもみない。皆は顔を見合すだけで悔し泣きする者も激高するものもいない。この場に強い指導者がいて、神州《=日本は神国と称していた》不滅を叫び、皇軍《こうぐん=天皇の軍隊》不滅を呼びかけたなら、同調して興奮するだろうが13歳の少年は戸惑うだけで、不安そうにそそくさと帰って行った。

学校には7月に中支より移動してきた展部隊と補給隊と通信教育隊が駐留していた。展部隊とは第34軍のことで隷下《れいか=従属するもの》に59師団(衣)127師(扶翼《ふよく》)があり各学校に分駐して陣地構築をしていた。部隊は「大正14年大阪工廠《こうしょう》」の標識をつけた野砲《=大砲》を装備しており、車輪は鉄製であった。当時化学実習室は兵器係りの部屋になっていて、朝がた係りの兵隊が真新しい銃口にグリスが詰まっている99式の小銃を木箱から出してグリスを拭《ぬぐ》い並べていた。

私は最新式だという小銃をはじめて見た。銃床が荒削りで仕上がりが悪く、遊底覆い《ゆうていおおい=銃の部品》もなく粗製品という印象でがっかりしたのを覚えている。この銃を元の木箱に納め釘付けしている。私は窓越しにどうするのかと訊《き》いた。「戦争に負けたので裏山の横穴防空壕に埋めろと命令だ」という。銃の説明をしてくれた兵隊が、投げやりに敗けたというのを訊いて敗けたとなると朝鮮におれなくなる。これは大変と事の重大さが判りかけた。俺達はこれからどうなるのだろうか、ぼんやり考えながら帰った。

夜、灯火管制《とうかかんせい=空襲の目標になるのを避けるため電灯を黒布で覆った》の黒い幕をはずした。電灯が煌煌《こうこう》と明るく華やいでみえた。程なくして「灯火管制は続けるように。停戦交渉中であり談判破裂したら戦争だ。」と通達があった。そうだろう。日本がそう簡単に敗けるはずがないそれが本当だ。妙に納得した。8月15日、私の長い一日は終わった。

余談だが(、、、すでに知っていたのか朝鮮の生徒は朝から出てこなかった。、、)と書いたが私は朝鮮の生徒は口コミで終戦を前から知っていたと思い込んでいた。30年間そう思っていた。
昭和56年ソウルで日韓合同同窓会が催された。級友の朱 鍾徳君に「あの日は何故休んだ。終戦を前から知っていたのか?」と訊いた。「何を言うか、知っている筈《はず》がない。夏休みに作業するのが嫌だからサボっただけだ」私は恥じた。勝手に思い込み書いていた。時代の証言は思い込みが一人歩きする。自戒。
、、、、、、、、、、、、、、、、つづく、、、 


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/8 17:22
団子  半人前   投稿数: 22
(二)
敗戦当初は独立万歳を叫ぶ少グループのデモは時々見かけたが、平穏だった。
戦勝国となり、自由になった英豪軍《=イギリス・オーストラリア軍》捕虜は散歩の途中、我が家に寄った。父が片言の英語で、雛《ひな》人形を土産に送ったら喜んで煙草、チョコレートをくれた。彼らはB29が飛来して落下傘で収容所に物資を投下したから、新しい服に美しい靴をはき。背筋をシャンと延ばして歩いていた。

緑ヶ岡の学校に駐屯《ちゅうとん》していた日本将校が戦時中から家に遊びに来ていた。長姉が学校の教師だったから、4人ほどが一緒によく来た。敗戦になり、鮭や牛缶を持って毎日のようにやって来て、風呂に入り酒を飲んでた。酔って、末はシベリヤ行きかとボヤいていた。

8月の終わり、ソ連軍が進駐してきた。ツバがない戦闘帽にボロ服、油でテカテカに光ったズボンにゲートル、日本兵より貧相《ひんそう=みすぼらしい》で鉄冑《てつかぶと》がない。それらが自動小銃をかかえ、だらしなく、二列に行進してきた。

平穏な街もソ連兵が来てから一変した。最初は路上で追い剥《は》ぎのように腕時計と万年筆を強奪した。腕に幾つも時計をつけて、ねじを巻くのを知らず故障だと言う、笑い話のような話が広まったのはこの頃である。ついで小人数で押し入り掠奪《りゃくだつ》暴行をした。年頃の婦女子は坊主頭に男装して逃げ廻《まわ》った。私の姉2人ははじめ床下に隠れたが危険だと判り、その都度逃げた。朝鮮人の案内でトラックを乗りつけ、根こそぎ掠奪した。朝鮮人が市場で売って分け前を貰うのだ。被害は数知れず、日本人は震《ふる》え上った。

8月が終わり、白昼ソ連兵が一人近所に押し入った。人々は避難して家も道路も無人になっていた。窓から見ていたらソ連兵は裏の家に入って出てこない。私は恐いもの見たさに忍び寄って扉の隙間《すきま》から覗《のぞ》こうとした。その時、急に扉があいて出てきたソ連兵とばったり鉢合わせ「しまった」と激しく後悔した。驚いたのはソ連兵のほうだ。かじっていた林檎《りんご》を放り投げ銃を構えた。2人の間は2mぐらいしかない。銃は細い槍のような剣が銃口に折り畳《たた》みに固定した日露戦争当時の銃だった。それを肩にあて私を狙《ねら》った。「撃たれる」走って逃げたかったが、走れば後ろから撃たれる恐怖があって全身がこわばった。じりじり後ずさりして退《しりぞ》いた。5mも離れたらソ連兵は銃を降ろした。私は背を向けて歩いた。その時になって足がガクガクした。

酔って赤い顔をしたソ連兵は奪った青い背広のズボンをはいている。自分のボロズボンと履き替えたのだ。ソ連軍では軍服と異なる縞《しま》の青いズボンをはいて兵営に戻っても何ら罪にならないのなら、全軍、とんでもない泥棒軍隊だ。日本の子供は「マダム、ダワイ」「フレーブ ダワイ」を覚えた。(女をだせ)(パンをくれ)だ。ソ連兵はマダム ダワイ、ダワイと押し入り女を犯した抵抗して殺された女性もあり、娘をかばって射殺された父親もあった。毎日被害の話ばかりが流れた。

廬峰地区に3名のソ連兵がやって来た。我慢できなくなった男たちが銃を取り上げ殴って2人を縛ってソ連憲兵《けんぺい=軍隊の警察》に渡した。1名は逃げた。
ほどなくしたら憲兵が殴られたソ連兵を連れてきた。銃の遊底《ゆうてい》が無くなったから捜《さが》せという。捜したが見つからない。そこで憲兵は捜し出せなかったら地区長を明朝銃殺すると言う。
翌朝、ソ連兵の上官らしい軍曹が来て、銃の部品を奪ったのは反ソ行為だ。探し出さないと男子全員を銃殺する。仕方なく地区の全員で捜したが、もともとでたらめだから出て来ない。更に軍曹が言うには、捕らえられた兵隊は信用のおける兵隊なので部隊の給料の一部1万円を持たせておいた。金と兵隊の腕時計が紛失した。それを5分以内にだせという。でたらめな難題と判っていてもしかたなく拠出《きょしゅつ=金品を出しう》して差し出した。今日はこれで帰る。遊低は朝までに捜せと言い残して帰った。それっきりこの事件は済んだ。

ソ連兵に手を出すなと日本人世話会から通達があった。自衛の手段がなかった。何とか地区毎に見張りを立て(ソ連兵が来たぞぉー)大声を出して知らせ、逃げるしかない。地区によっては毎晩続いた。その度に近くにあった高粱《こうりゃん》畑に逃げ込む女達で畑が荒らされた。耕作者の朝鮮人から損害賠償が請求され、支払った。

ソ連兵に無意味に射殺される犠牲者が出た。同級生の父親がその一人である。ソ連当局が掠奪暴行を容認していたとしか思えない。憲兵もぐるである。世界に冠たる警察国家、スターリンの軍政機関が取り締まるなら簡単に実行できたろうに、それをしない。米国製ジープと6輪トラックに乗り、マンドリンを抱えた先遣《せんけん》部隊は囚人兵だと噂された。だがしかし囚人部隊だから何をしてもいい、大目にみる、それは無い。ソ連兵の掠奪暴行は10月が最盛期だった。

2月になると2線部隊と交代して兵隊の服装もよくなり、将校は丸い軍帽に生地のいい軍服になった。トラックは運転台から全部板張りのソ連製のボロ車になり、コルホーズに使うような馬車があった。小銃は日露戦争の旧式銃が増えた。その頃になると憲兵の取締りが強化され、略奪者の肩章《けんしょう=軍服の肩につける階級章》を引きちぎり連行したと言う噂《うわさ》が流れた。もっともその頃には、日本人は乞食《こじき》のような難民状態になって奪われるものが無くなっていた。

ロシヤマダムというソ連兵相手に個人営業する女性が現れたのはその頃だ。ソ連兵は朝鮮語を覚えトンマニイツソ(金は沢山ある)金を払う様になった。ロシヤマダムはなんとなく判り、おかみさんたちは「あの人はロシヤマダムでしょう、きっと」など噂したが、言葉には非難というよりも、うらやましいという響きが微《かす》かにあった。
      、、、、、、、、、、、、、、、、つづく、、、 

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/8 17:23
団子  半人前   投稿数: 22
(三)
8月の終わり現地召集された兵隊が召集解除になり帰ってきた。ソ連軍は日本兵の名簿数より実数が不足している、即時補充するよう要求した。やむを得ず再召集をかけた。正直に出頭した人は兵隊としてシベリヤに送られた。その為母子家庭が増え、男手の無い家庭は苦難が増えた。

警察官《=日本人の》は武装解除され逮捕、派出所に保安隊《=占領軍の》が入った。ぐでんぐでんに酔った日本のオジサンが、日本刀を持ってわめきながら派出所にはいり、保安隊に取り押さえられ殴られるのを見た。間抜けなオッサンだ。

8月28日、私のところから6Kはなれた火薬工場の方角で銃声がして、明け方まで断続的に聞こえた。朝になり、武装した日本人が火薬工場を襲撃して銃撃戦になったと噂《うわさ》が流れた。この時期、工場が少数で破壊する事は意味がない。それにしても銃声は少ない。デッチあげで日本人を弾圧するつもりだ。と言う意見が大人たちの間に流れ警戒する声が多かった。

その心配は当たった。朝鮮側の発表によると「日本人は火薬工場を爆破しょうとして侵入し、警備員を射殺交戦し、犯人は独身寮に逃げ込んだ」、保安隊、建国青年隊《=占領軍の》は盛んに発砲して独身寮の男子社員を逮捕《たいほ》しひどい拷問《ごうもん》にかけた。結果は明らかだった。朝鮮側の主張通り工場幹部の計画に従って独身社員が実行に当たる事になっていたと白状させられた。《=拷問によるでっち上げ事件》

ついで工場近くを家宅捜索した結果、拳銃《けんじゅう》が2丁出てきた。拳銃は《社員が》日本兵から貰《もら》ったものだった。工場幹部と拳銃所持の男は逮捕検挙されてソ連軍に渡された。取り調べた後、釈放された。有罪ならシべりヤ送りになる。計画も準備も無かったのである。

この事件は朝鮮側によって劇化され好評をはくした。敗戦によって工場を奪われた工場幹部が癪《しやく》にさわって工場を破壊する陰謀を企《くわだ》てた。一人の目覚めた朝鮮青年の献身的行為により未然に防がれ、犯人は保安隊に逮捕されたという筋だった。劇化されて後世の人が事実だと信じ込むのが怖い。

金 史良、昭和14年上半期芥川賞候補になった作家が、敗戦後平壌に帰国して「動員作家の手記」を書いている。人民政府の仕事で感鏡道をルポした作品である。
(略)日本人どもは、わが産業建設の心臓である興南工場を爆破しようと銃を取って押し寄せてきた。興南の労働者は血を流してこれを防いだ。(略)、、、(金史良全集)

歴史的事実として一人歩きするなら、不幸である。北朝鮮の公式記録はそうなっているのだ。
      、、、、、、、、、、、、、、、、つづく、、、 
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/8 17:24
団子  半人前   投稿数: 22
(四) 
この事件を契機《けいき=きっかけ》にして日本人の迫害は強化された。工場の幹部が相次いで検挙された。最初は工場破壊計画の有無を調べた。共産党政権は旧支配階級を破壊する。日本人の工場最高幹部は検挙され感興刑務所に入れられた。そのうち何名かはシベリヤに送られた。

ついで迫害は一般従業員にむけられた。日本人従業員は8月26日に突然工場立ち入り禁止になった。
従って事務の引継ぎができてない。朝鮮側の管理が悪く、接収《せっしゅう=強制的に取り上げる》後の混乱もあって、朝鮮人による物品の持ち出しがあり、書類の散逸《さんいつ=散らばる》もあった。(図面が無い)(配給物資の残高が帳簿と合わない)(配給に朝鮮人を差別した)理由は幾らでもつけられた。

朝鮮人の中でも良識派があったが声が小さく、敗戦前に素行不良で叱責《しっせき》をうけたり、処分を受けた朝鮮人が声を大きく勢力を握っている。それが前の係長や係員、倉庫番を呼び出して査問《さもん=調べ正す》にかけリンチを加えた。毎日続いた。特に警備係に対するリンチは凄《すご》かった。仕事の性質上工場の物品持ち出しを取り締まり朝鮮人の調査などでは警察に協力していたから報復《ほうふく=仕返し》は残虐《ざんぎゃく=むごくしいたげる》をきわめた。これは日本人社会に深刻な衝撃を与えた。いつ、何の理由で呼び出しがあるかわからない。誰々が殺された、半死半生にあわされた、橋下から死体が出た、噂におびえた。

9月2日、武器提出命令があった。8畳間いっぱいに刀が山積みになっていた。一応所有者と銘《めい=刀剣に刻まれた作者の名》を記入したが美術品のように美しい大小《=大刀・小刀》から太刀作り、サーベル作りの軍刀、朱鞘《しゅざや=朱塗りのさや》コジリ《=刀のさや尻》に銅環《どうかん》をはめた長脇差《ながわきざし=長いめの小刀》からさまざまな刀が集められていた。武器の提出日から建国青年隊の腕章を巻き青年訓練所の拳銃で武装し日本刀を腰にした朝鮮人青年が武器の捜査を口実に、土足で侵入し、自分の欲しいものがあると押収していった。

ついでラジオの供出《きょうしゅつ=求められて物品を差し出す》が、更には自転車、写真機の提出があり、ソ連軍の命令は1部分であり、朝鮮人が自分のものにする為のものであった。「日本人の所有物は、朝鮮人より帝国主義的搾取《さくしゅ》によるものだから、我々がとる権利がある。」と言う理屈である。

朝鮮当局が米穀の配給は責任を持つと言明したが、配給は全くない。市場には今まで姿を見せなかった米や大豆が出廻《まわ》った。配給もなく仕事もない。貯金の支払いが停止され、手持ちの現金も無い日本人はこれからの生活が成り立たず、家財道具を売った。

一時市が立つ様な賑《にぎ》わいだったが朝鮮当局は売買を禁止した。見つけた場合は家財道具も代金も没収するという通達を出した。経済を撹乱《さくらん=混乱》すると言うのが理由であったが、自分たちが日本人住宅に入る時、それら所有物を無償で取り上げようという狙《ねら》いであった。それでも厳重な監視の目をくぐって売買は行われた。

保安署には没収された家財が山と積まれた。悪質な買い手は荷物を取り上げられたと売った日本人から代金を取り返した。我が家は初期の段階にカメラ、李朝の磁器類掛け軸などリヤカー1台分売ったが、買い手が保安隊に没収されたから金を返せと言ってきた。嘘《うそ》だと判っても逆らえない。しかし、これらの被害は掠奪《りゃくだつ》、逮捕、リンチに比べれば軽い。

      、、、、、、、、、、、、、、、、つづく、、、 
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団子  半人前   投稿数: 22
(五)
興南工場の日本人を一人残らず難民《なんみん=戦争や天災で生活できなくなった人の群れ》状況、いわば抑留《よくりゅう=強制的に拘束する》生活に追い込んだのは9月15日から、22日まで3回に分けて行われた社宅追放だった。

日本窒素《ちっそ》は興南の地に大化学工場を建設した。北鮮避地《へきち=都会から離れた土地》に必要な技術者、技能者を確保するため、従業員社宅を建設した。赤レンガ建て、地区ごとにボイラーがあり配管して各戸スチーム暖房があり、冬でも浴衣《ゆかた=木綿の単衣》で過ごした。水洗便所があり、台所はオール電化されていた。朝鮮人技術者は日本人と同じ社宅に入った。

一般労働者社宅は1棟8戸、四畳二間オンドルの建設で台所は練炭《れんたん=円筒型に固め縦に穴を開けた燃料》であった。長屋の両端に共同の便所があり、水道は共同栓だった。常づね朝鮮共産党は「山の上に上って見ろ。みすぼらしい建物が朝鮮人が住む所。あの赤レンガの立派な建物には日本人が住んでいる。それで君たちは満足なのか。」と煽動《せんどう=あおりたてる》していた。

第1回社宅追放は9月15日午前10時頃九竜里、雲城里地区に社宅移動の命令が突然通達された。唐突《とうとつ=出し抜け》だった。
1、本日午後3時までに社宅を明け渡す。
1、家具書籍を置いていく事。
1、当座の食料15日分と生活用品は持っても良い。
1、各人搬出は一回だけ。
1、その他
突然だった。何を置いて、何を持って出るか選別も判らない。移動先は水西里、竜岩里、雲中里の朝鮮人社宅や独身寮だ。一番遠い西本宮までは6Kはある。一回で持ち出せる量は僅《わず》かである。牛車、リヤカーは使ってはならないという。狂気のような混乱になった。自衛隊は家具の持ち出しを監視して歩き廻った。後刻入居する朝鮮人が家具をなるべく多く置いていかせようと見張っている。泣く泣く外へ出る。すかさず自衛隊が釘付けにし、あるいは朝鮮人が間をおかず入居した。

混乱はますばかり、日本人世話会が、朝鮮当局と交渉した結果、明朝出発してよい事になり、移動は16日に延期された。しかしこの通達を知らずに出て行ってしまった人は戻っても家に入れず、二度荷物を運び出すことは出来なかった。16日も悲惨さは同じだった。家の外には朝鮮人が群がっており、少しでも荷物を多く持ち出そうと道路に一時置いてあった荷物は盗まれる、と言う被害が続出した。知り合いの朝鮮人がこっそり提供してくれた牛車で荷物を運んだが、途中で共産党の宣伝班につかまり朝鮮人の御者《ぎょしゃ=牛を操る人》は殴られ荷物は降ろされた。

日本人に味方をしたのは英豪《英=イギリス。豪=オーストラリア》兵捕虜だった。彼らは巡回して朝鮮人の暴状を牽制《けんせい=自由に行動させない》してくれた。知り合いになった日本人の荷物を運んだりしてくれた。応召《おうしょう=軍隊への召しに応じる》者の家庭は男手がなく更に悲惨だった。幼児をかかえ何が持ち出せる。

新興鉄道にそって、九竜里から西本宮に通ずる道は荷物をかつぎ、行李《こうり=竹や柳で編んだ荷物入れ》を引っ張っていく者、私有財産を奪われた日本人の列が蜿々《えんえん》と続いた。行き先は朝鮮人社宅だ。四畳二間に二世帯が押し込まれて、横になるのがやっとという状態だった。

9月20日、第二回湖南里、柳亭里の場合は事情がやや好転した。前回の移動の情報が伝わり、予測がついた。移転命令も前日に通達された。今度は家具は置いていく。衣類は全部搬出してよい。牛車の使用は認める。翌日の12時までに移転完了のこと。たいそうな緩和である。

衣類持ち出しは今後の越冬に大変な助けになった。売り食いで命をつなぐ時、売るものがある、ないは、生き延びるか、死ぬかの差があった。荷物を預かると申し出て、後日、返してくれた親切な朝鮮人もいた。

第3回、9月21日私の地区本宮地区移転は一段と緩和された。充分に準備する時間があり、2日にわたって荷物を運ぶことが許された。工場の朝鮮人側が好意ある態度を示した。竜興工場勤労課を中心に、朝鮮人従業員への施策が進歩的で内《=日本人》《=朝鮮人》の区別をつけなかっため、朝鮮人の一般的空気がよかった事にもよるという。

我が家は家具は置いてきたが、牛車2台に夜具、衣類、生活具一切、落し紙《=トイレットペーパー》にする古雑誌まで運ぶ事が出来た。衣類が持ち出せなかったら18歳を頭に家族9人は、飢え死にしないまでも、1人、2人は欠けたであろう。幸運としか言い様がない。

移転先は指示が無かった。不安だったがとりあえず西本宮に移った。翌日、竜興の友人から状態のいい家があるからと知らせがあり、竜興に移動した。父は2度の移動に呆然となり判断動作が鈍った。牛車の手配から積み降ろし、家の選定からテキパキ段取りしたのは次姉(公州師範在学)だった。彼女は黒い小倉《=小倉織、学生服に使用した》の学生服を着て生き生きと動き、動乱《世の中が乱れること》の女だった。

この時期、郵便局長とか官庁で長のつく中年男は権威と組織にのった生き方しか知らず時代の急変についていけなくなり、腑抜け《ふぬけ=意気地の無い有様》になった。そのくせ、女房だけに威張り、高粱《こうりゃん》飯を「こんなもの食えるか」と言って女房を困らせた。自分は食料の調達一つするでなし、虚《うつ》ろな目をして動かない。

箸より重たい物を持った事がない奥様はやむを得ず物を売り、食料を求めて歩き廻った。動乱は女性の隠れた才能を見つけ出した。
      、、、、、、、、、、、、、、、、つづく、、、
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団子  半人前   投稿数: 22
(六)
10月の農村は収穫の季節である。この時期まだ体力が残っていた。ある部落にジャガイモ堀に行った。朝鮮の農業は規模が大きく、薯《いも》の収穫にスキでおこし薯を拾い集める。大まかだから取り残しがある。収穫を終えた畑を鍬《くわ》で1日掘るとリユックいっぱいの薯がとれた。この量は家族が数日食える。農家は大様《おおよう=おおまか》で無断で畑に入ってもとがめだてはしなかった。伝え聞いて掘る人が多くなり3日でおわった。

大根引きに雇われた。昼食と高粱《こうりゃん》2合(300g)が手間賃だった。朝鮮の大根はずんぐりして皮が厚い。青首が美味そうだった。沢山あるから1本ぐらいは食ってもと甘えた。皮をむいて食べた。甘い汁気が口中に広がった。その時、農家の主人が駆け寄って怒声を発し大根を取り上げられた。
「これは売り物だ。日本人が食うものではない。食いたければこれを食え」白菜の根を鎌で落として「食べろ」恥ずかしかった。同じ年頃の伜《せがれ》が気の毒そうに見ていた。みじめだった。
後日、白菜の根を食べた。飢えた時でも不味《まず》かった。

ある日、部落で誘われ、キムチのカメを埋める穴をほらないかと言う。背丈ぐらいのある大カメだった。賃金は飯とキムチ。半日の仕事だった。サバル(真鍮《しんちゅう》の食器)に大盛りした白米の飯にキムチが美味しく、満足だった。

稲刈りに4日雇われた。賃金は米5合(750g)昼食は持参せよ。その分米の割り増しを付けると言う約束だった。しかし難民には、飯がないのは嬉しくない。疲れだけが残った

わずかあった農業の仕事がなくなると寒さが押し寄せた。寒気は暖房の燃料の確保を迫るが、燃料が充分になければ絶望が広がる。寒さは飢えとともに徐々《じょじょ》に深刻になった。希望のないまま人々はひたすら引き上げを待った。飢えと迫害のなかにあって引き上げの希望がなければ生きていけない。母は帯の芯地から家族全員のリュックを作った。荷物を整理して引き上げを待った。

人々は内地の美しい山河を語り、幼き頃の食べ物の話に故郷を想《おも》った。朝鮮生まれで内地を知らない私は内地に帰ったってどうなるのか見当がつかない。父は第一次世界大戦《=1914-1918》後のドイツを例にひき、賠償《ばいしょう》金で20年は起き上がれないと言う。それでも内地に帰りたい。それが飢えと屈辱にまみれた境遇から抜け出す唯一《ゆいいつ=ただ一つ》の手段であったから。強い願望から妄想《もうそう=正しくないおもい》が広がり、引き上げのデマが流れては消えた。何日説、何月説、興南の築港に引き揚げ船が二隻入港して、三千人づつ乗船する。輸送船は全滅したから駆逐艦《くちくかん=戦闘用の小型艦》2隻だ。リアルなデマがながれた。その都度人々は明るくなり引き揚げ話にのめりこみ、気の早い人は残り少ない荷物を売って大飯を食い、魚や卵を贅沢《ぜいたく》して、つまりは売るものがなくなり困窮《こんきゅう=困り苦しむ》した。

昭和21年の元旦は餅がない、希望がない正月だった。高粱粥をすすっている我々に、正式引き上げがないなら、必死に食い延ばしをしなければならない。体がへだるく、顔を洗う気が起こらない。ごろごろ寝転んで古雑誌を読んで暮らした。元旦朝白米を炊《た》いた。盛りきり1杯の飯だが贅沢した。家族にちょっぴり明るい風が流れた。突然母がはしゃいだ声を出した。
「駅へ平吹のおばぁちゃんが餅を持って今着いたと電話がありましたよ。誰か迎えに行って頂戴《ちょうだい》」平吹のおばぁちやんとは実家の母である。気が触《ふ》れた。一瞬そう思った。あわてて母を寝かしつけた。母には餅がつけない事は不幸の最たる恥ずべき状態という思いがある。現在96歳の母は、今でも少しボケると平吹に帰る、おばぁちゃんが待っていると言う。

      、、、、、、、、、、、、、、、、つづく、、、 
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/8 17:31
団子  半人前   投稿数: 22
長い長い投稿文で、お読み頂く皆様も大変と存じます。私は9年前に「野崎 博氏」から受け取り、久しぶりに読み返しながらの投稿ですが、著者自身も大変な経験で同情しますが。書いておりますうちに、無惨《むざん》に亡くなられた方々の無念を思うと、その人たちの為にも頑張って投稿を完了しなければ、、と思うようになりました。

皆様もどうぞ頑張って読んでくださいませ。、、、、

(七)
12月までに死んだのは、感鏡北道(県)から避難してきた人たちである。地元では避難民と言った。
8月9日ソ連軍の理不尽《りふじん=道理に合わない》な攻撃に夏服のまま脱出したソ連国境の人々は、興南まで辿《たど》りついたがマイナス10数度の冬が越せず12月までに多くが死んだ。富坪の元海軍演習場兵舎に収容された3千3百人の難民は半数の千五百人が死亡。凍った死体は廊下《ろうか》の隅に積み上げて、春を待って埋葬したと言う。1月になると難民の中でも死ぬべき人は死んだからなのか、死亡率が減り、在住者の死亡率が増えた。四月には難民の死亡率に追いついた。老人、幼児が多かった。

死因は発疹《はっしん》チブス《=法定伝染病の一つ》と栄養失調《えいようしっちょう=食物の不足による体の異常》、全身衰弱、飢《うえ》である。ついで再帰熱《さいきねつ=ダニが媒介する病気》、肺病、肺炎。発疹チブスは虱《しらみ》が媒介する伝染病である。1~2週間で発熱し、2~3日で39度40度の高熱となり強い頭痛がする。発熱4日後全身に2ミリくらいの赤い発疹が現れる。経過がよければ12~3日頃から熱が下がる。重傷者は脳症を起こし高熱に耐えられず多くは死亡する。

予防は入浴、虱がつかないように清潔にして衣類を加熱する。興南には地区ごとに共同浴場があった。日本人は締め出され入浴は禁じられた。入浴は禁じる理由はない。単なる嫌がらせだけだった。私は日本に帰るまで8ヶ月、風呂に入っていない。

ただ1度だけ2月に発疹チブスの予防のためソ連軍の命令で入浴した。風呂に入っている間、加熱器に衣服を入れて虱を殺すのだ。共同浴場は久しぶりの風呂に少々はしゃいでいた。

湯船には30人ほどがつかり、芋の子を洗う《=混雑するようす》、それ以上だ。友人を見つけ、やぁと声をかけ、下湯をかけて入った。五ヶ月ぶりの湯が全身にしみた。その時後ろから怒声がきた。振り返る私を風呂番は睨《にら》み「下湯をかけずに入った。規則違反だ。やりなおせ。」大声で怒鳴った。裸の群れに一人、ズボンの裾をまくり、腕まくりした大男が仁王立ち《におうだち=いかめしく突っ立つ事》になって怒っている。げすな《=いやしい》初老の男だった。「下湯はかけた」小声の私に「バカ!俺《おれ》は見ていた」廻りの日本人はシーンとなって目をそらし知らぬ顔だ。彼は看守か、古年兵のように小さな権力に酔うている。日本人が羊のように従っている。彼の生涯にただ一度味わう優越だろう。私はやり直した。陰毛がはえかけた年だ。全身が白くなるような屈辱だった。

10月になると困窮《こんきゅう》者が少しでも働く場所を得るように、日本人世話会では工場に入り働く事を交渉した。8月26日、朝鮮人だけで操業すると日本人を締め出した工場側は、朝鮮人の南朝脱出《=北朝鮮(ソ連統括)から南朝鮮(連合軍統括)へ》帰郷により人手不足になった。それを補うため10月14日工場内労働を許可するようになった。賃金は4円、増配米2合7勺(400g)2月には8円になった。

最初は人夫と言う単純労働だったが、元電工、溶接工、大工などおり、重宝《ちょうほう=便利》がられ日本人の採用が多くなりやがて三千名近くになった。一般に米の配給は殆ど《ほとんど》ないに等しいから、2合7勺では家族は食えない。お粥の弁当を持って働いた。

そのうち、技術者、技能者が指名就労者と言う朝鮮人と同じ労働条件で働くようになった。朝鮮人だけでは運転出来ないことが判ってきたのである。化学工場では技術者が必要である。政治だけでは工場経営はできない。この時期、工場は労働組合の管理方式で経営されており、刑務所帰りの党員や急進的な組合員が指導的地位にあったが、これらの人は大工場経営に無力であった。工場は荒廃に向かっていた。

北朝当局から新しく派遣された支配人は工場の組織を改め、労働組合の急進派を追放して荒廃に向かう工場を再建する気運が出てきた。

「工場再建について日本人技術者の援助をお願いしたい。朝鮮人が工場を動かすと言う建前を崩《くず》したくないので、日本人技術者は指導系統にはいらず、顧問《こもん=相談を受け意見を述べる役》の立場で実際の動きをバックアップしてもらいたい」という申し入れがあった。指名労働者は2500人に達した。

私は硫安《りゅうあん=肥料》の貨車積みをしたが、労働がきつく、使いものにならず1日で首になり、少年ばかりのグループに入り、倉庫の整理片付けなど軽作業に廻《まわ》された。

ある日昼休み、朝鮮人の監督が“日帝36年は”と言い出し、天皇制が悪い。廃止すべきだと長々と話した。言われっぱなしも癪《しゃく》だから「天皇制も一長一短ある。要は国民の選択の問題だ」と言う。彼も工場の学修会で仕入れた付け焼刃だったのか天皇制は終わり、例の36年を長々とまくしたてた。
      、、、、、、、、、、、、、、、、つづく、、、 
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/8 17:32
団子  半人前   投稿数: 22
(八)
終戦直後の段階で死体は火葬にしたが、2千円かかり、そんな金額は出せぬ。やがて死者が増え処理に困った。本宮社宅から5kに鷹峰山がある。250mの通称三角山である。その南に100mの山があった。その山が日本人共同墓地に指定された。墓地を三角山とよんだ。棺桶《かんおけ》を買える人は特別裕福《ゆうふく=暮らしが豊か》である。母親が死んだ愛児を背負い、父親がスコップを担《かつ》いで三角山にいく。大人の死体はムシロに巻き、縄《なわ》でしばって棒に吊《つ》り下げ、二人で担いでいく。

ある朝、私の前を五つの死体が通り過ぎた。1枚で巻いただけでは、頭、足が見える。朝運んで1日がかりで埋葬する。この頃になると死体を見ても何の感慨もわかない。ぼんやり眺めるだけだった。12月になると大地が凍り、墓穴を掘るのが困難になる。1月はさらに深く凍ってツルハシがかからない。今のうちに掘っておこうと深さ2m長さ千mの壕《ごう》を掘る事になった。千mとしたのはそれだけ死人が出ると予想したのである。北朝鮮当局が予測したのなら対策をたてぬ責任があり、時間をかけた虐殺だ。日本人世話会が自主的決定したなら、千mに決めた根拠は何なのか、、、。今となっては決定の特定は不可能だが、咸興では約1割の死亡を仮想している。偶然にも興南の死亡率は1割である。

死体は日に30、40も運ばれた。1月に墓はいっぱいになった。以後焚《た》き火をして氷を融《と》かし穴を掘った。そのうちに死体に土をかけるだけになり、山や麓に捨てられる死体もあった。

2月、緑ヶ丘国民学校に開設された病院は発疹チブスの患者を収容した。患者が来ると風呂に入れ体毛を残らず剃《そ》《=しらみ駆除のため》。高熱にガタガタ震《ふる》えている患者も風呂に入れる。ソ連式である。病院と言っても処置はそれだけだった。後は栄養をつけるだけ、飯に食料油を混ぜて食べさせる。衰弱している患者は、はじめ下痢をするがめきめき元気になった。

患者が死亡すると看護婦と助手が裸にして担架《たんか》で死体置き場に運ぶ。裏手にある農具室が置き場になっていた。死体は骨と皮だけになり、目を大きく開いていた。最初は怖くて入口にポンと担架をひっくり返してきたが慣《な》れると積み上げた。(女学校2年談)死体が山積になっている。30もたまると三角山に運んだ。やがて三角山がいっぱいになると裏山に大きな穴を掘って埋めた。

春になり凍土が融《と》けると三角山は死臭ぷんぷんとなり、雨に土が流され手や足があらわれ、野犬に食い荒らされ散乱したものや、なぜか首だけが転がっていたと言う。保安隊から衛生上悪い、埋めなおせと厳命がきた。世話会は人を集めて埋め直した。遺体は女、子供、老人が多かった。母親が赤ん坊を背負い、胸に幼児を抱き紐で結ばれた死体があったと言う。
昭和20年9月 在在日本人 31,914人
昭和21年8月 日本人死者  3,042人

朝鮮人に「恨《こん》」という文化がある。自分の内部に積もる情のかたまりである。決してウラミではない。「怨《おん》」は他人に対して、又は自分の外部の何かについての感情である。昭和20年8月15日から北朝鮮の日本人が遭遇した苦難は何だったんだろうか。

「36年の日本帝国主義の過酷な圧迫と搾取《さくしゅ》にあった我々の苦しみが判るか、、」「日本人は処女のような朝鮮を侵略して36年間国を奪った。お前のものを奪って何が悪い。」「関東大震災の時は同胞を殺した。お前は殺されても文句はいえまい。」

処女かどうかは疑問が判れるところだが36年に及ぶ植民地支配は意図《いと=おもわく》はどうであれ、被支配、被差別は朝鮮人の誇りを奪い、文字を言葉を奪った《=日本語の使用を強制した》。それ故の報復は判らぬでもない。他の殖民地は小さな感情的報復はあったが旧満州、北朝鮮における民族的迫害の悲惨はない。

中華民国の蒋介石《しょうかいせき=中国の政治家、中華民国総統》は「報怨以徳」《徳をもって怨みに報いる》を説いた。36年の怨みと憎しみを、日本民族を代表して、まともに受け被《こうむ》ったソ軍政下北朝鮮咸鏡南道人民委員会統治下の日本人は、まことに不幸であり、悲しくも惨酷《ざんこく》であった。
      、、、、、、、、、、、、、、、、つづく、、、 



前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/8/8 17:33
団子  半人前   投稿数: 22
(九)
3月の終わり三寒四温の暖かい日は陽光うららかであった。市場近くを歩いていると呼び止められた。土塀にもたれた少年が手招きしている。近所にあった農家の息子で私の一級下の同窓生だった。終戦後、スケート、製図器具など譲り友好であったが、嫌な予感があった。

私はつとめて明るく「やぁ~」と言った。「君は何処《どこ》に住んでいるのか」とりとめのない質問をしていたが、徐々に言葉が乱暴になり「お前は、、」と言った。続いて「うちの豚を何故《なぜ》切った」そらきた、覚悟した。

戦争中庭に野菜を作った。畑を豚が再三荒らしに来た。追うつもりで丁度素振りしていた刀で軽く切りつけた。豚は敏捷《びんしょう》に逃げたが尻に3センチ程、パカッと口をあけた傷をつけてしまった。血は出ない。彼は座り私は立って査問《さもん》会のようだった。「そうか君の豚か」「そうだ豚は野菜を食べない。それを切ったのは侵略者の思いあがりだ」

彼の手下か小学校四年頃の子供が三人挑戦するような声をあげる。私は逃げたかったが少年の客気《かっき=はやる気持ち》が許さなかった。今更謝ってもしょうがない。彼の非難は続き説教を受けているようになった。

馬鹿らしくなり、殴るなら殴れ、ゆっくりその場を離れた。彼等は奇声をあげて追ってきた。近道になる高粱畑を突き切った。追ってくるがどうした訳か、襲《おそ》ってこない。手下が私の廻《まわ》りを猟犬のようにまわりながら時々背中を殴った。子供の力は弱い。ぶん殴るのは簡単だが敗戦国民はなされるままだ。

《うね》や切りかぶに足をとられぬように踏みしめて歩いた。つまづき倒れたら、はずみがついて一気に襲われるような気がした。私を中心にした猟犬等は、ぐるぐる廻りながら100mも歩いた。私の町が近づいた。彼等は諦めたのか、去っていった。

4月、春だった。ある午後咸興中学の前を歩いた。朝鮮の学生が二人こちらに歩いてくる。広い車道だから鉢合わせの心配がないが、私は緊張した。戦時中、一本道で日、朝の学生がすれ違う一瞬、張り詰めた空気が流れ、時には眼をつけ火花が散った。なかには挑発して喧嘩になる。

、、しかし今、体を硬《かた》くしてすれ違った。何の変化もない。彼等は私をチラッっとも見ない。完全に無視と言うより路傍《ろぼう=道端》の石より関心がないのだ。黒い学生服に慶応予科のようなアンパン帽をかぶり、ブックバンドの本をちょいと肩にかけて、血色がいい。さっそうとしていた。彼等には、独立した現在が最良の幸せだったのだろう。彼等にとって平和な時期であった。

風呂に入らず、顔も洗わぬ、手製の下駄履き《げたばき》、国防色のボロ服を着て、背を丸めて歩いている浮浪児《ふろうじ=住居も職も無い子供》のような敗戦国の少年など一べつの値《あた》いもしないのだ。いたずらに緊張した私が情けなく、打ちのめされた。陽光のうららかな日だった。それから10日後、私はこの街をさった。

、、、、、、、、、、、「引き揚げ」につづく、、、
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