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成瀬孫仁日記(八)昭和十八年一月~昭和十八年五月

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2009/3/23 13:27
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
昭和十八(康徳十年)年一月

十日(土)
 新年宴会で手塚院長
 「学院の如きボロ学校に優秀な学生は来ない。病気者の頭の悪い学生ばかり集まる。肺病になって死んでも本望だろう」
 吾々二十一期生の私費生(各府県、満鉄の派遣給費生以外)は四十三人に一人という激しい競争に打ち勝って入学して来た。ボロ学校の院長が一番ボロだ。

十六日土)
 斉藤少校から徴兵の話あり。

二十二日(金)
 「イルクーツク県のロシア人による植民」完訳。ハルビン書房へ持参。

二十四日(日)
 ハルビン書房で染谷先生に会い早々にして退散。

ニ十五日(月)
 本日より寒稽古始まる。

二十七日(水)
耐寒行軍あり、サボル。雪が降り風が激しく吹いた。

二月
一日(月)
 室長会議あり。禁煙励行。

四日(木)
 午前中寒稽古納会。

五日(金)
 満州事変の際の日本軍ハルビン入城記念日。一年生のみ市中行進に参加。

七日(日)
 晩七時、翻訳の出来たのを胡麻本先生宅へ持参。

十二日(金)
 昨日十一日紀元節《注1》を賭して禁煙断行。併し一日にして出来ないことになる。節煙断行。

十八日(木)
 胡麻本先生から工藤平助の「赤蝦夷風説考」の翻訳の清書頼まれる。

二十五日(木)
 広渡教官から徴兵検査は来年になるとの話あり。就職はどうなるのか。

三月
十二日(金)
 試験二課目休む。市立病院へ行く。左胸の下の方が悪いと。一ケ月休養を要す。

十七日(水)
 昨日、突然木蘭(ムーラン)県《注2》(浜江省)から拒(ことわ)りが来た。原因は事件発生の為と、急に楡樹(ユーシュウ)県《注3》(吉林省)に行くことになった。木蘭県が東満国境の県と思っていたのに浜江省なら楡樹県も同じだと中台先生から説明があった。今日より三月三十日迄の予定で中台先生指導のもとに農村調査。参加者四年生 成瀬孫仁、三年生 木山勇、鈴木一二、蓑田繁人、中司琴一、長戸俊郎、川口利雄、小松康二、中野茂夫の九名。小松、中野両君は剣道部だが、他は皆柔道部。

 北方亜細亜研究会のリュックサックを借り、朝棄の米内先生に挨拶をして八時半寮を出る。哈爾浜駅九時十八分発大連行急行に乗る。十二時半三岔河駅にて下車。満鉄の自動車にて二時三岔河発楡樹に向かう。

 途中は単調なる所謂満州風の景色で、汽車の窓から見るのと全く同じ。唯、街、屯をバスが過ぎると純満洲風の極めて古風な建物が幾多見られた。砂塵殊に甚だし。四時十分前、楡樹県城着。県公署に行き、直ちに宿舎たる興亜塾に入る。一切は明日中台教授が来た時のこと。

 晩、久しぶりに純綿の白米《注4》に顔を合す。七時より県公署庶務課長、実業課長、庶務係長と座談会を持つ。就寝十一時、部屋寒く一時の時計の音を聞く。

註 記
一月十日生意気盛りの学生が校長を「バカ」呼ばわりするのはよくあることだが、校長が学生全員を前にして「バカ」呼ばわりするのは聞いたことがない。良く三年もの長い間、院長として学校に居たなと感心させられる。手塚省三院長は後に福岡県の護国神社の神官になられたと聞くが、あの風貌、休躯、押し出しは誠に神官として適職ではなかったろうか。

一月二十二日ハルビン書房の原為一氏は誠に豪快、厚情の人であった。勉強になって、その上金になるのだからこんなよいことはないだろう、と事もなげに言い放ち、書庫の内から好きな本を選んで翻訳して来いと言われた。私はロシアの東漸史、植民、原住民の調査報告等ばかり選択して二年間にわたりお世話になった。半年くらい経って少しはさまになって来たが、未だ日本語を知らんと注意されただけで、翻訳そのものについては一言も言われなかった。

注1:旧紀元節「日本書記」にある神武天皇が即位したとされる日を祝日とした
注2:中国黒龍江省ハルピン市に位置する県
注3:中国吉林省長春市に位置する
注4:民需に綿が回って来ない為 スフという人口製品が出回ったが 洗濯すると縮んだり弱かったりするので評判が悪く 「純綿」言葉が良い物の代名詞[例えば白米のご飯を「純綿のご飯」というように 使われた

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2009/3/25 21:26
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
十八日(木)
 朝八時起床。国旗掲揚。朝食。昼食後、街の様子を見に出る。支那街にしては案外小綺麗な街だ。
 午後五時頃中台先生来る。種々調査の打合せをした後就寝、十二時半。四畳半の部屋に中台先生と共に三人。

十九日(金)
 班に分つこと三。第一班 成瀬、小松、蓑田、第二班 鈴木、川口、木山、第三班 長戸、中司、中野。午前中、調査表の印刷、打合せ。昼食(スープ、饅頭)後、第一班、第二班は自動車にて目的地に出発、第三班は大車(ターチョ)《注1》にて出発、中台先生は第三班について行かれる。

 第一班出発時間、一時半。貨物自動車は楡樹県城南門を抜け砂塵をあげて南に走る。風漸く強く、寒さ酷し。秀水村(秀水旬子、楡樹南西十二里)公署着三時半。第一班下車、第二班は一途目的地に東進。吾々は村公署《注2》へ行く。此処は秀水村秀水東屯と云う。

 村公署へ行くと思わずギクッとした。吾々は学生三名である。それに、
 秀水村村長  劉乃棋
 秀水警察署長 警佐 高永純
 秀水村助役  理邊固
 視学兼秀水村中心学校校長 劉国風
 村公立秀徳国民優級学校校長 柳澤徳蔵
等々村の要人の歴々が皆集まっている。私は農民の実態調査に来た旨を述べ、これから御世話になりますと挨拶した。晩は支那料理店に行き大歓迎を受けた。散会の後柳澤氏の宅に行き、又御馳走になり、県に於ける朝鮮人の問題を種々聞いた。

 (1)楡樹県秀水村の朝鮮人は約二百人。一般に生活程度、文化程度低くして満系農民と比較にならない。水田を主とする。
 (2)内鮮一体の件
 (3)民族協和の件
 翌朝八時半出発を約して村公署寮の家屋に投宿する。警察署長も仲々人望あり愉快な人。村長又然り。民族協和は実践にあり。心と心がふれあった所に成立する。

二十日(土)
 昨夜村公署宿舎に宿る。南京虫も出ず幸なり。朝八時起床、八時半朝食終わる。朝から牌酒を添えて支那料理を頂く。九時半頃秀水村公署を出発して田家屯に向かう。途は大車(ターチョ)なり。広漠たる野に鳥一羽けたたましく飛び、砂塵漸く激しく、風身に稍寒なり。一時間半にして田家屯公署着、前の広場に沢山出迎えあり。

十時半頃より調査開始。早く終わったので昼食をと思ったが出ない。五時頃になって漸くありつく。どうやら二食らしい。晩又牌酒と支那料理。こんな片田舎へ来て毎日御馳走攻めとは思わざりき。
 通訳の梁さんには大変な御苦労を願った。彼満州建国につき一席辯ず。又此処の村長、屯長等も皆家族と離れ太々(タァタァ)とも別れ公署に一人で住み込んでいる。彼等は日本人も及ばない努力をしている、と。
 調査家族の戸主《注3》が集まってくれたので大変助かった。早く終わる。
付ききりの村長、鮮系校長も帰った。

二十一日(日)
 朝から六軒ばかり調査して十二時頃終わる。朝食は支那料理、又牌酒。朝から晩まで酒びたりで暮らす気持も又悪くない。
 屯長《注4》に金一封宿泊料を包んで、秀水村公署に向かう。本日は風無く、天気晴朗にして又暖かなり。天地正大の気 正に満洲の平原に満つ。十二時四十分頃村公署着。村公署宿舎に旅装を解き、直ちに酒房を見学す。酒房は郵便局其の他種々の事業を兼ねて行っている。

外観はどっしりして壮大なのにくらべ内容は至って貧弱なり。酒の香気と言いたいが臭気紛々たり。一日中酒づめで嗅ぐのも又いとわし。宿舎に帰り少時昼寝する。

 三時頃、国民優級学校の宴に招待せらる。村長、警察署長、学校長、及びその他代表集まり、学校建築のことで会議ありたる由。十万円支出の件満場一致で可決せしと。その協力は民族協和の理想的境地であり、満洲建国精神の実現なりと思う。

 夜、八時半頃まで警察署長宅を訪問。署長は大同学院の卒業生らしく、奥さんも良い人であった。田舎に入って女らしい女を見なかった眼には俄然美人に見えた。写真ではすばらしい美人だが実物はそうでもなかった。署長氏日く「大東亜戦争下重要なことは物資の増産と国民の増産だ。併るに子供ができない。(結婚して七年になるらしい)だからその方法を研究して改善せねばならない」と。

 小松君、牌酒飲みすぎて気持が悪いらしい。早く良くなるよう念ず。朝から飲みすぎたのがいけなかった。

 明日の予定。午前中、秀水村内の鮮系農家(七十七戸有り)三軒調査。午後直ちに大干屯に発つ。大干屯に於ける準備は一切村長に通告して頂く。うまく調査もはかどり、予定よりも二日位早く帰れそうである。

二十二日(月)
 朝食後、秀水村鮮系部落に向かう。戸数七十七戸、人約召七十人、村公署より約七町ばかりの所に在り。昨夜の雨は雪に変り、満天雪々たり。大車(ターチョ)に揺られて雪にまみれつつ鮮系部落に行く。鮮系部落を三戸調査終り、昼食後帰る。途中寒し。護衛の警察官も震えている。晩、鮮系国民優級学校長柳澤氏宅訪問。久し振りに日本的な料理にありつく。彼の日本語の上手なのは大阪生まれで天王寺中学の中退生と。十一時頃まで内鮮問題につき論ず。はしたなくも此の片田舎に来て、かくまで深く日鮮融合を考えている人があるとは知らなかった。

彼の理想は日鮮一体と云うことを歴史の彼方に追いやることで、新しい皇国日本人として朝鮮人が生きることである。その具体的な方策としては日鮮人の結婚である。血は水より濃いと言った先人の言葉は朝鮮人を日本人として生き返らせるであろうと。
 併し現実に自分自身の身の上のこととなると幾多支障あるを免がれず、又遲疑逡巡せざるを得ざるに至らざるや。

注1:村役場
注2:大きな車輪が二つ(一輪)だけの荷馬車
注3:旧戸籍法で一家には必ず戸主がおり 祖先の祭祀や家の財産を継承し 家族の婚姻等に対する同意権 居所指定権を持っていた
注4:村の中に幾つかの集まり(屯)があり その集団の代表者をいう



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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2009/3/25 21:36
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
二十三日(火)
 朝七時起床。朝食も採らずに直ちに大干屯に向かう。昨夜から凍っていた天地は寒気凛烈たり。大車(ターチョ)の上でも寒さに震う。脚の方から次第に昇って来る寒さに克てず、遂に車を降りて走る。約二十分走りて又暖まるを待って車上の人となる。一時間半ほどを要して大干屯に着く。屯長等出迎えあり。朝食後、屯公署に於て調査開始。一日で全部終わる。夕食後読書す。哈爾浜と故郷が恋しく想い出される。

二十四日(水)
 昨夜は疲労のためか熟睡す。報告書の一部の下書をする。朝食後、小松君が税金の事を調べていたが、それも終り大車(ターチョ)で出発す。鉄砲を持った騎乗の護衛警官が二人付く。その中の一人の馬を借り、もう一人の警官と二人で先に行く。北満の沃野を馬上から見下して馬を馳る。右手遥か南の方に松花江が凍結のまま銀蛇の如く横たわり、陽光燦々として大地に注いでいる。約二時間の後、閔家村に着く。極めて快適な馬上の旅であったが、鉄砲を持った護衛兵と二人きりで人家のない平原の一本路を進む時、若し彼が一発ポンとこちらに向けてやれば可惜、二十の春を大地を血に染めて散らすのだと思うと聊か気味悪くもあった。大車(ターチョ)は四時間余りも要して後から着いた。

 村公署の待遇すこぶる悪し。到着しても出迎えもなし。村長は病気にて五裸樹に帰って居り不在の由。五人のみ調査、残りは明日にする。夕食の後直ちに宿舎に入る。百貨店(雑貨屋)らしい所が臨時宿舎だ。汚いこと今迄の宿舎の比に非ず。八時就寝。臭いにおいに耐え、寝衣に着替え、無理に油と汗に煮染められたような布団にもぐり込む。顎のあたりに毛布を当てて寝る。三十分もすると虱と南京虫が活躍し始めた。たまらないので起き上がり、服を着、靴下をはき、ゲートルを巻いて、外套をかむって布団の上に寝た。少し寒かったが、虱と南京虫の襲撃と布団の臭いから逃れられた。夜中、十二時頃と三時頃二回眠が覚めた。変な支那人が一晩中じっと監視していた気味悪い一夜だった。ここの主人は回教で回教徒以外の者は使わないそうだ。宗教の人間社会に及ぼす影響の大なるに一驚した。

 最初に比べて待遇が段々落ち、遂に待望(?)かつ恐れていた虱と南京虫様にお目にかかり面目をほどこし、参った。併しこれで一般農民の生活の実状を経験し得たのかも知れないので感謝することにしようと語り合った。早く哈爾浜に帰りたい。

二十五日(木)
 朝食を料理店で採り、五軒調査を済ますともう誰も来なくなったので閔家村で調査したのは十軒のみであった。
 協和会の人達とフットボールをして遊び後国民学校をも見学した。

 午後三時頃、楡樹へ出発す。途中、二時間余を要し、楡樹県城を南門より入り県公署に達す。早速、庶務課長に帰還の挨拶をし、寮に帰る。夜楡樹会館に行き獨身寮の人達と交歓す。
 鮮系学校長柳澤氏の話をすると「彼の毒気に当てられましたね」と皆大笑いだった。秀水村は単なる農村調査を特別の何か意図があってしていると勘違いして良い報告をして貰いたさに歓待したんではないかなとも話していた。また大都会の官庁に居る人よりこの田舎で働いている人達こそ本当の日本人だとも考えた。
 遅く土橋子班(第二班の木山君、鈴木君、川口君)帰る。


三月
二十六日(金)
 床を蹴って起きてみると八時半。朝食をすまし、県公署に行き副県長に挨拶。
 昼は楡樹会館で副県長と会食。会食後街へ生菓子を買いに行き後、種馬場に行って馬に乗らんとせしも果さず。
 長戸君等第三班も帰る。中台先生も御一緒。全員そろって嬉しい。夜独身寮で種々話を聞く。

二十七日(土)
 起床、八時半。朝礼にも出ず朝食不充分。
 県公署へ行き提出する調査表を作成する。土曜日にて午前中のみで皆退庁。午後寒さに震えながら大部分片付ける。

 夜、副県長宅を訪問。種々御話を伺う。
 働かざる者は食うべからず。戦わざる者は生きるべからず。大東亜戦争完遂に協力する事が正義であり、之を妨害する者は悪である。と極めて明快なる論理で意気軒昂たるものがある。また俺は四十万石の領主だと。蓋し、楡樹県穀物生産高が四十万石と言う意味か。

三十日(火)
 昨夜、独身寮の人達が別れの茶話会を開いてくれ、つい夜ふかしをする。さすが大陸に来た人達だけあって〝夢物語″みたいな話が咲いた。彼等は社会人として先輩、謹んで聞く側に廻った。
 朝早く暗いうちに起き、県公暑が出してくれたトラックにて三盆河に向う。さらば橡樹よ。お世話になりました。

 朝五時二十三分三岔河発牡丹江行列車に切符も買わずに飛び乗る。列車内で哈爾浜までの切符を官見う。八時頃、哈爾浜着。街も人も懐かしい。

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/3/25 21:45
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
四月
二十日(火) 晴
 校庭の草が僅かに芽をふく。
 夜街へ出て帰りに、赤味がかった月がくろぐろとした街を照らしていて、ソフィスキー寺院の黒が影と照り映えて凄いくらい美しかった。蒙古風が吹き始めると黄砂は月を血のように赤く染める。

二十二日(木)
 最近たびたび北寮の自給農場の農作業が日課に入るようになる。

二十四日(土)
 今宵はパスハ。《注1》十二時過ぎると各教会、寺院で一斉に鐘が鳴り出し「キリストは蘇り給えり」と唱えながら二時頃キッスして終わる。明日の晩までパスハは続く

二十九日(木)
 午前九時、天長節拝賀式。
 手塚前院長の四十分余りも長々と続く話に比べて、渋谷新院長の五分ほどで終わる話が簡潔で清々しい。

五月
二日(月)
 訪日宣詔記念日。経偉国民学校にて武道大会あり。同期の蒙古(蒙古ブリヤート族)学生の退学事件には、米内(徳太郎)先生は蒙古人をあまやかし過ぎたと反省しておられた。

三日(月)雨
 大雨沛然《はいぜん=注2》として至る。蒙古風はこれで抑えられるだろう。泥柳が一斉に芽をふく。切り倒された枝まで何を間違えたのか芽を出している。間もなく葉も出ないのに茎だけ二十センチも伸びて、黄色い花を咲かせるタンポポが見られるだろう。

五日(水)
 楡はもう新緑、泥柳はすっかり緑が濃くなった。今年は蒙古風の黄塵少ない。

十六日(日)
 第一回哈爾浜大学武道大会あり。柔道、剣道は厚生会館、銃剣術は工業大学で行う。柔道完勝、剣道、柔剣術惨敗。

二十四日(月)
 哈爾浜神社宵祭。チフスの予防注射あり。

二十五日(火)
 斉藤医院にて血沈をはかる。江上艦隊《注3》の軍医だったとか、変な所が面白い人。

二十六日(水)
 露細亜経済史(ボクダーノフ教授)を二時間さぼり、五十銭借りて散髪に行く。

二十七日(木)
 海軍記念日《注4》。過日山本五十六大将戦死のニュースあり。青木と卒業記念アルバムをとりにスンガリーに出る。ヨットクラブで写す。

二十八日(金)
 哈爾浜海軍武官府の前田大佐の記念講演あること昨年の如し。今年の勤労奉仕に私は行かないことになる。行かないといっても北寮で農事作業。

三十一日(月)
 週番なるが故に北寮に農場の勤労奉仕に行く。四年甲組点呼を取って見ると居た者僅か三名。驚く。

 甲組の田北三市君が哈爾浜市民病院で亡くなった。大分県竹田の産。瀧廉太郎は竹田城を心に「荒城の月」を作曲したと誇らしげに話していた姿が眼に浮かぶ。せめての慰めは郷里から父上、母上が来られて最後を看守られたことである。入学当時二号室にいた十二名のうち川瀬勝美(満鉄派遣生)橋本照天(青森県)目である。特に田北が窓際、次が私、その隣が橋本、で生活を共にした学友を二人とも亡くした。

 アツツ島の日本軍二十九日玉砕す。
     
             (成瀬孫仁日記(九)につづく)

注1:ロシア正教の復活祭
注2:雨が盛んに降るさま
注3:揚子江や長江で作戦する艦隊
注4:1905年日本海で ロシアバルチック艦隊を全滅した記念日

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あんみつ姫

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