成瀬孫仁日記(十)昭和十八年十月~昭和十八年十一月
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- 成瀬孫仁日記(十)昭和十八年十月~昭和十八年十一月 (あんみつ姫, 2009/3/30 13:34)
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投稿日時 2009/3/30 13:34
あんみつ姫
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 485
十月
一日(金)
今日より例年の通り学校時間が変更になる予定の所、江口教授が一人頑張って来週に延期する。このことについて先生の授業時間で学生と話し合う。先生の態度に誠意なく、しかも学生のこのことに対する反感頗る強し。
図書室より本を借りて読む。
「帝国主義と資本の蓄積」ブハーリン
「世界経済の新段階」 ミリユーチン
二日(土)
昨夜より阿城における兵団演習に、三年生、二年生が参加する。臨時徴兵検査が十月二十五日から十一月五日の間に行われ、十二月一日入営《注1》と発表さる。学生緊張す。これにつき明日四年生全員を持ち、学校を督励して簡明なる処置を要求することにする。
三日(日)
快晴、蒲団に日光浴させる。
馬家溝の池田パン店前の古本屋弘文堂に学生が押しかける。学院生の売った本が山と積まれている。オヤジさん金がなくなり、悲鳴を挙げていた。今日だけで七百円支払ったと。
五日(火)快晴
徴兵検査まで授業を行い、試験は行わないと決まる。入隊も満洲か朝鮮か不明。これならもう一度日本へ帰れる可能性はある。
六日(水)
故郷へ在留地徴兵検査の旨電報を打つ。午後、院長の話あり。内地へは特別の事情がない限り帰さないと言う。墓参りもさせず、親にも会わせず死なそうというのか。これも国のためだと喜べと言うのか。
今度の件で一年生が一人捕まり、「豚箱」に入り、院長が行って貰い下げをして来たとか。
青木(鮮系)が学校内のことをいろいろ刑事に聞かれたと。学校にまで刑事が入り込んでいると噂あり。学校へは行かない。
七日(木)
学校へは行かない。朝から、ミッチェル女史の「風と共に去りぬ」を読む。
八日(全)
大詔奉戴日。朝二十分起床を早め、馳足で哈爾浜神社参拝。皇国の武運長久を祈る。
神社建立の議興る。寄付せよと。一蹴せらる。
関釜連絡船、崑崙(コンロン)丸米潜水艦に撃沈さる。沖ノ島付近。午前二時頃。数分にして沈む。五日のことなり。乗客六百名、生存者七十名。
九日(土)
授業、朝一時間のみ出席し、街に出る。午後は教練。日曜日から授業は午前中のみ。午後はすべて教練。その中に学監の国防学四時間。
十日(日)快晴
ショッセの楡の葉が黄葉もせず枯れたようになって落ち、路上に散る。北満哈爾浜のあわただしい冬の訪れか。
補記
一日 この日、学校の図書室からブハーリンの「帝国主義と資本の蓄積」という原書を借りて読んだことが書かれているが、読むことは読めても内容が理解出来たのだろうか今考えてもゾッとする。
六日 青木は朝鮮人である。北寮の寮委員になる時、川辺(英男)に頼んで青木にも残って貰った。南寮に移ってからも特別に親しかった同級生の中の一人だった。卒業アルバムの写真もスンガリー湖畔のヨットクラブで二人で写った。彼は頭は良かったが、別に朝鮮民族の誇りとか何とかを口にするではなし、またそれのために卑屈になるようなことはなかった。彼は奉天一中の出身だと聞いていたので二十期の柴田(息蔵)さんに聞き合わせても知らないとの返事が来た。姓は「李」と行っていたが、名は日本名も朝鮮名もいくら調べても出て来ない。乙組にいたので乙組の人は知っている人があるかも知れない。知らせて欲しい。勿論二十一期生の名簿にもない。
八日 神社建立の議興る。寄付せよと。一蹴せらる。と書いているが資料は探しても見つからない。この文字を見ていると頭の片隅に「哈爾浜学院神社」?の事ではないかとのかすかな記憶があるような気がする。記憶のある方は教えて欲しい。
注1:軍隊に入る
一日(金)
今日より例年の通り学校時間が変更になる予定の所、江口教授が一人頑張って来週に延期する。このことについて先生の授業時間で学生と話し合う。先生の態度に誠意なく、しかも学生のこのことに対する反感頗る強し。
図書室より本を借りて読む。
「帝国主義と資本の蓄積」ブハーリン
「世界経済の新段階」 ミリユーチン
二日(土)
昨夜より阿城における兵団演習に、三年生、二年生が参加する。臨時徴兵検査が十月二十五日から十一月五日の間に行われ、十二月一日入営《注1》と発表さる。学生緊張す。これにつき明日四年生全員を持ち、学校を督励して簡明なる処置を要求することにする。
三日(日)
快晴、蒲団に日光浴させる。
馬家溝の池田パン店前の古本屋弘文堂に学生が押しかける。学院生の売った本が山と積まれている。オヤジさん金がなくなり、悲鳴を挙げていた。今日だけで七百円支払ったと。
五日(火)快晴
徴兵検査まで授業を行い、試験は行わないと決まる。入隊も満洲か朝鮮か不明。これならもう一度日本へ帰れる可能性はある。
六日(水)
故郷へ在留地徴兵検査の旨電報を打つ。午後、院長の話あり。内地へは特別の事情がない限り帰さないと言う。墓参りもさせず、親にも会わせず死なそうというのか。これも国のためだと喜べと言うのか。
今度の件で一年生が一人捕まり、「豚箱」に入り、院長が行って貰い下げをして来たとか。
青木(鮮系)が学校内のことをいろいろ刑事に聞かれたと。学校にまで刑事が入り込んでいると噂あり。学校へは行かない。
七日(木)
学校へは行かない。朝から、ミッチェル女史の「風と共に去りぬ」を読む。
八日(全)
大詔奉戴日。朝二十分起床を早め、馳足で哈爾浜神社参拝。皇国の武運長久を祈る。
神社建立の議興る。寄付せよと。一蹴せらる。
関釜連絡船、崑崙(コンロン)丸米潜水艦に撃沈さる。沖ノ島付近。午前二時頃。数分にして沈む。五日のことなり。乗客六百名、生存者七十名。
九日(土)
授業、朝一時間のみ出席し、街に出る。午後は教練。日曜日から授業は午前中のみ。午後はすべて教練。その中に学監の国防学四時間。
十日(日)快晴
ショッセの楡の葉が黄葉もせず枯れたようになって落ち、路上に散る。北満哈爾浜のあわただしい冬の訪れか。
補記
一日 この日、学校の図書室からブハーリンの「帝国主義と資本の蓄積」という原書を借りて読んだことが書かれているが、読むことは読めても内容が理解出来たのだろうか今考えてもゾッとする。
六日 青木は朝鮮人である。北寮の寮委員になる時、川辺(英男)に頼んで青木にも残って貰った。南寮に移ってからも特別に親しかった同級生の中の一人だった。卒業アルバムの写真もスンガリー湖畔のヨットクラブで二人で写った。彼は頭は良かったが、別に朝鮮民族の誇りとか何とかを口にするではなし、またそれのために卑屈になるようなことはなかった。彼は奉天一中の出身だと聞いていたので二十期の柴田(息蔵)さんに聞き合わせても知らないとの返事が来た。姓は「李」と行っていたが、名は日本名も朝鮮名もいくら調べても出て来ない。乙組にいたので乙組の人は知っている人があるかも知れない。知らせて欲しい。勿論二十一期生の名簿にもない。
八日 神社建立の議興る。寄付せよと。一蹴せらる。と書いているが資料は探しても見つからない。この文字を見ていると頭の片隅に「哈爾浜学院神社」?の事ではないかとのかすかな記憶があるような気がする。記憶のある方は教えて欲しい。
注1:軍隊に入る
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あんみつ姫
あんみつ姫
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 485
十月
十二日(火)快晴
朝から道外(フーチャテン) へ福岡(人四郎)、野崎(秀雄)と連れ立って小遣稼ぎに行く。福岡が持って来た学生服を路上に並べて頭に鉢巻をし「チャガマイマイ!!」と叫んだ。野崎と私も服を地面に並べたが、彼のようにはいかない。学生服を着た闇の露天商。日本人は一人もいない。周囲には満人が同じように品物を並べているが、叫んでいるのは福岡ばかり。立止ってジロジロながめているが、なかなか買ってくれない。二十一銭の煙草「千山」を五十銭で売っていた。戦果なし。二時からの教練に登校す。
十三日(水)快晴
日下(正道)が突然日本から帰って来た。病いは良くなったか。
午後敬礼演習、執銃各個教練。
十四日(木) 曇 寒し
寒い日がしだいに訪れて来た。朝夕全く震えるような寒気が流れる。英霊見送りに駅へ行く。バス十四台、約三百の声なき勇士は故里の母のもとに帰って行く。総て病死者か。
十五日(全)晴
夜、哈爾浜書房へ翻訳を届ける。これが最後。社主、原好一氏には長い間御世話になった。原氏は「君はもう卒業だな」と前置きして次のように諭された。
一 出来るだけ求めを少なくして、出来るだけ積極的に働け。人から言われぬ先に、その先を洞察して前進せよ。
二 困難は自ら進んで突破せよ。避けても必ず次々と現われる。第二、第三の困難は必ずより大きいものとなる。最初の困難を突破しておけば、以後の困難は容易に克服出来る。これに耐えられない者は世の中から淘汰される。
三 困難に直面した時は躊躇することなく突進せよ。熟慮と躊躇とは決して同じでない。
四 今でこそあまり役に立たない者でもポストを与えられて働いているが、世の中が平常になると積極的で有能な者だけが残る。このような人にならなくてはならない。最大の条件は努力である。餞別か卒業祝金か包みの中に金二百円あり。
十九日(火) 曇後雨、寒し
朝から道外へ夏の勤労奉仕に着た服を集めて売りに行く。急に変った天候は随分と冷たく身にしみる。服は良い価がついたが、多くの満人が群り来り、喧嘩腰で奪い合うので恐ろしくなって急いで逃げ出した。矢張り道外は無気味である。
傍でじいっと見ていた支那服の男が私達が帰りかけると、近寄って来て「学院さん、ここは危いからあまり来ない方が良いよ」と。
「はい解りました」と言って早々に退散した。憲兵か、特務機関か。
補記
十二日 「盲蛇におぢず」と言う諺の通り、フーチャテンの街頭で良くこんな事をしたもんだ。無事だったのは満洲国は法治国家だったためか。
十四日 英霊見送りは毎月あった。今考えて見ると戦争もないのに良くこれだけの人間が死んで行ったものと思う。
十二日(火)快晴
朝から道外(フーチャテン) へ福岡(人四郎)、野崎(秀雄)と連れ立って小遣稼ぎに行く。福岡が持って来た学生服を路上に並べて頭に鉢巻をし「チャガマイマイ!!」と叫んだ。野崎と私も服を地面に並べたが、彼のようにはいかない。学生服を着た闇の露天商。日本人は一人もいない。周囲には満人が同じように品物を並べているが、叫んでいるのは福岡ばかり。立止ってジロジロながめているが、なかなか買ってくれない。二十一銭の煙草「千山」を五十銭で売っていた。戦果なし。二時からの教練に登校す。
十三日(水)快晴
日下(正道)が突然日本から帰って来た。病いは良くなったか。
午後敬礼演習、執銃各個教練。
十四日(木) 曇 寒し
寒い日がしだいに訪れて来た。朝夕全く震えるような寒気が流れる。英霊見送りに駅へ行く。バス十四台、約三百の声なき勇士は故里の母のもとに帰って行く。総て病死者か。
十五日(全)晴
夜、哈爾浜書房へ翻訳を届ける。これが最後。社主、原好一氏には長い間御世話になった。原氏は「君はもう卒業だな」と前置きして次のように諭された。
一 出来るだけ求めを少なくして、出来るだけ積極的に働け。人から言われぬ先に、その先を洞察して前進せよ。
二 困難は自ら進んで突破せよ。避けても必ず次々と現われる。第二、第三の困難は必ずより大きいものとなる。最初の困難を突破しておけば、以後の困難は容易に克服出来る。これに耐えられない者は世の中から淘汰される。
三 困難に直面した時は躊躇することなく突進せよ。熟慮と躊躇とは決して同じでない。
四 今でこそあまり役に立たない者でもポストを与えられて働いているが、世の中が平常になると積極的で有能な者だけが残る。このような人にならなくてはならない。最大の条件は努力である。餞別か卒業祝金か包みの中に金二百円あり。
十九日(火) 曇後雨、寒し
朝から道外へ夏の勤労奉仕に着た服を集めて売りに行く。急に変った天候は随分と冷たく身にしみる。服は良い価がついたが、多くの満人が群り来り、喧嘩腰で奪い合うので恐ろしくなって急いで逃げ出した。矢張り道外は無気味である。
傍でじいっと見ていた支那服の男が私達が帰りかけると、近寄って来て「学院さん、ここは危いからあまり来ない方が良いよ」と。
「はい解りました」と言って早々に退散した。憲兵か、特務機関か。
補記
十二日 「盲蛇におぢず」と言う諺の通り、フーチャテンの街頭で良くこんな事をしたもんだ。無事だったのは満洲国は法治国家だったためか。
十四日 英霊見送りは毎月あった。今考えて見ると戦争もないのに良くこれだけの人間が死んで行ったものと思う。
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あんみつ姫
あんみつ姫
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 485
十月
ニ十二日(金) 晴
青木が結婚式のため奉天に帰り、卒業式まで帰って来ないという。結婚式に来ないかと誘われた。毎日一週間ほど祝宴が続くそうだ。お祝いが要るが、それは俺が作って、お前の名前を書いて準備するからとまで言われた。行って見たいという心の中とうらはらに断った。学院の学則に「結婚したる者は退学を命ず。」とある。戸籍の届出しなければ結婚にならないと彼はこともなげに言った。いずれにしろ後一ケ月もない。
別れに二人で街へ出た。最初「共栄圏」でウオッカ一本、寮に帰ると室にビールがあったのでまた飲む。点呼後、福岡(人四郎)、高取(保夫)とまた一緒に出かける。日本酒。「清茂」、「秀吉」「一助」と回る。チャンポンがたたったのか帰ると吐く。
二十三日(土) 曇後雨
学院学徒出征練成大会。小原(秀道)の送別会。日清会館、ほてい、たぬき、鈴蘭食堂と回る。
二十四日(日) 曇
昼から本を売りに行く。五円入る。夕食後日満会館。丸林(四郎)、福岡(人四郎)、野崎(秀雄)、中村(博)、喜崎(亮治)等同室八人のうち七人まで酔って帰る。
二十五日(月) 曇 甚寒
寒さ極めてきびしく冬の到来を感ず。
最後の家庭教師に行く。生徒の藤岡佳和君極めて優秀な生徒だったので助かった。餞別を貰う。開けてみると百円あった。
卒業します。兵隊に行きます。
二十六日(火) 晴
十一時昼食後、徴兵検査場である第七部隊(哈爾浜陸軍病院)へ行く。レントゲン、血沈、咳痰等検査、夜海軍予備学生の願書を書く。
二十七日(水)
本日本検。身長、胸囲、体重、視力、眼、鼻、関節、内臓、M検、あとで甲種合格の申渡しあり。
関東軍は海軍は駄目。陸軍特別操縦見習士官の志願書を出す。これも満洲国の学生は駄目。
小原との検査を待っている間の私語がたたり、反軍思想の持主ということで二人は検査を受ける人の中に潜り込んでいた憲兵につかまりビンタを三つ宛、そのあと腕立て伏せを約十五分やらされているのを学監が通りかかり救ってくれた。
晩ニューハルビンで宴会。酒を一人当り五合集めるのに苦労する。駅へ高取と送りに行くためニューハルビンを出る。それから 「エデン」「甲子園」等を回り帰寮一時半。
二十八日(木)晴
朝から南崗に出張。ビヤホールでコーヒーとパンを食べて帰る。昼食後にニューハルビンへ昨夜の整理のため一升瓶を取りに行き、途中、丸林が一升瓶を下げて来るのに会う。秋林から自動車を飛ばして川崎教授宅へ。先生不在。新婚の奥様一人居るのに上り込む。
先生間もなり帰られる。種々に話を伺いながら飲む。酒二本、コニャック一本、ビール二本、四人して空ける。福岡(人)先ず簡単に伸びる。点呼前十五分帰寮。
二十九日(金)
朝から甫崗のビヤホールに行き、晩の精力をつけるため砂糖の「多々的」入った紅茶を喫す。
晩に柔道の岩戸先生宅を訪問。柔道部の者四人と先生で酒三升、ウオッカ中瓶二本、その後二人で白葡萄酒一本、コニャック一瓶を空けて遂にのびる。人事不省。先生は学校の宿舎に居られた。大道館は鮮系の国民高等学校。便所に行くとニンニクの臭いがプンプン
していた。付近の公園で脚が立たず、自動車で漸く帰寮。
三十日(土)
オリエント劇場で「花子ちゃん」「我等は日本小国民」「ニュース映画」。マルスで食事をして、春日(信也)、福永(佳夫)と剛崎先生宅へ。近くだ。最初茶が出たので、これは失敗したと膝がちぢこまった。後ウオッカが出たので人事不省。福永の肩を借り帰寮。哈爾浜医大へ行って居られる息子さんと話をしたことだけは覚えている。翌朝眠が覚めると服を着たまま寝ていた。
三十一日(日)
朝から道外に「売買(マイマイ)」に行く。福岡(人)、丸林、福永と一緒。福永には昨夜の礼をしなければならない。上衣一着二十円。道外からキタイスカヤの「グロート」にマシンを乗り着ける。昼食後マシンでキタイスカヤから帰寮。寝る。今日は酒が入っていない。道外で二十円儲け、ロシヤ料理で十五円使用。
補記
二十七日 小原君と二人徴兵検査場でえらい災難にぶつかった。小原君の兄さんが海軍中尉で潜水艦に乗っていたのか南太平洋で戦死した公報が数日前に入っていた。そのためか戦争に行けば生命はないぞと言う様な事を話したと思う。之は当り前の事だ。之が憲兵には反軍思想と映ったらしい。学監により救出?された時憲兵氏日く「お前等二人は入隊先を調べて反軍思想の持ち主であることを部隊長に報告して絶対に将校にはなれない様にしてやる」と。
恐ろしく執念深い男だった。満洲国の学校の学生は日本の学生と違い「差別」された。この原因は蔑視である。海軍予備学生を志願させなかった。(之については暇ができたら一度調べて見ようと思う、法律違反の疑いがある。)特別操縦見習士官の志願を拒否した。之は入隊してから後十九年一月に志願者を集め、哈爾浜の陸軍病院(徴兵検査のあった所) で検査したが一名も採らなかった。名目的行為か?
ニ十二日(金) 晴
青木が結婚式のため奉天に帰り、卒業式まで帰って来ないという。結婚式に来ないかと誘われた。毎日一週間ほど祝宴が続くそうだ。お祝いが要るが、それは俺が作って、お前の名前を書いて準備するからとまで言われた。行って見たいという心の中とうらはらに断った。学院の学則に「結婚したる者は退学を命ず。」とある。戸籍の届出しなければ結婚にならないと彼はこともなげに言った。いずれにしろ後一ケ月もない。
別れに二人で街へ出た。最初「共栄圏」でウオッカ一本、寮に帰ると室にビールがあったのでまた飲む。点呼後、福岡(人四郎)、高取(保夫)とまた一緒に出かける。日本酒。「清茂」、「秀吉」「一助」と回る。チャンポンがたたったのか帰ると吐く。
二十三日(土) 曇後雨
学院学徒出征練成大会。小原(秀道)の送別会。日清会館、ほてい、たぬき、鈴蘭食堂と回る。
二十四日(日) 曇
昼から本を売りに行く。五円入る。夕食後日満会館。丸林(四郎)、福岡(人四郎)、野崎(秀雄)、中村(博)、喜崎(亮治)等同室八人のうち七人まで酔って帰る。
二十五日(月) 曇 甚寒
寒さ極めてきびしく冬の到来を感ず。
最後の家庭教師に行く。生徒の藤岡佳和君極めて優秀な生徒だったので助かった。餞別を貰う。開けてみると百円あった。
卒業します。兵隊に行きます。
二十六日(火) 晴
十一時昼食後、徴兵検査場である第七部隊(哈爾浜陸軍病院)へ行く。レントゲン、血沈、咳痰等検査、夜海軍予備学生の願書を書く。
二十七日(水)
本日本検。身長、胸囲、体重、視力、眼、鼻、関節、内臓、M検、あとで甲種合格の申渡しあり。
関東軍は海軍は駄目。陸軍特別操縦見習士官の志願書を出す。これも満洲国の学生は駄目。
小原との検査を待っている間の私語がたたり、反軍思想の持主ということで二人は検査を受ける人の中に潜り込んでいた憲兵につかまりビンタを三つ宛、そのあと腕立て伏せを約十五分やらされているのを学監が通りかかり救ってくれた。
晩ニューハルビンで宴会。酒を一人当り五合集めるのに苦労する。駅へ高取と送りに行くためニューハルビンを出る。それから 「エデン」「甲子園」等を回り帰寮一時半。
二十八日(木)晴
朝から南崗に出張。ビヤホールでコーヒーとパンを食べて帰る。昼食後にニューハルビンへ昨夜の整理のため一升瓶を取りに行き、途中、丸林が一升瓶を下げて来るのに会う。秋林から自動車を飛ばして川崎教授宅へ。先生不在。新婚の奥様一人居るのに上り込む。
先生間もなり帰られる。種々に話を伺いながら飲む。酒二本、コニャック一本、ビール二本、四人して空ける。福岡(人)先ず簡単に伸びる。点呼前十五分帰寮。
二十九日(金)
朝から甫崗のビヤホールに行き、晩の精力をつけるため砂糖の「多々的」入った紅茶を喫す。
晩に柔道の岩戸先生宅を訪問。柔道部の者四人と先生で酒三升、ウオッカ中瓶二本、その後二人で白葡萄酒一本、コニャック一瓶を空けて遂にのびる。人事不省。先生は学校の宿舎に居られた。大道館は鮮系の国民高等学校。便所に行くとニンニクの臭いがプンプン
していた。付近の公園で脚が立たず、自動車で漸く帰寮。
三十日(土)
オリエント劇場で「花子ちゃん」「我等は日本小国民」「ニュース映画」。マルスで食事をして、春日(信也)、福永(佳夫)と剛崎先生宅へ。近くだ。最初茶が出たので、これは失敗したと膝がちぢこまった。後ウオッカが出たので人事不省。福永の肩を借り帰寮。哈爾浜医大へ行って居られる息子さんと話をしたことだけは覚えている。翌朝眠が覚めると服を着たまま寝ていた。
三十一日(日)
朝から道外に「売買(マイマイ)」に行く。福岡(人)、丸林、福永と一緒。福永には昨夜の礼をしなければならない。上衣一着二十円。道外からキタイスカヤの「グロート」にマシンを乗り着ける。昼食後マシンでキタイスカヤから帰寮。寝る。今日は酒が入っていない。道外で二十円儲け、ロシヤ料理で十五円使用。
補記
二十七日 小原君と二人徴兵検査場でえらい災難にぶつかった。小原君の兄さんが海軍中尉で潜水艦に乗っていたのか南太平洋で戦死した公報が数日前に入っていた。そのためか戦争に行けば生命はないぞと言う様な事を話したと思う。之は当り前の事だ。之が憲兵には反軍思想と映ったらしい。学監により救出?された時憲兵氏日く「お前等二人は入隊先を調べて反軍思想の持ち主であることを部隊長に報告して絶対に将校にはなれない様にしてやる」と。
恐ろしく執念深い男だった。満洲国の学校の学生は日本の学生と違い「差別」された。この原因は蔑視である。海軍予備学生を志願させなかった。(之については暇ができたら一度調べて見ようと思う、法律違反の疑いがある。)特別操縦見習士官の志願を拒否した。之は入隊してから後十九年一月に志願者を集め、哈爾浜の陸軍病院(徴兵検査のあった所) で検査したが一名も採らなかった。名目的行為か?
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あんみつ姫
あんみつ姫
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 485
十一月
一日(月)
朝九時、特務機関へ出頭。
五時まで本部の三島大尉、稲毛中佐、高級参謀の蓄あり。軍に就職する者の反軍的思想に対する対策の為か。
夜小原君と街へ出る。淋しい。
二日(火)
最後の授業に出る。四年問の授業今日で終りぬ。午後の教練、どうしたことか帽子がいくら探してもないので出ない。
晩、川村先生宅。点呼に間に合わなかったので罰として明日不寝番。
三日(水)曇
明治の佳節。日本なら日本晴れ。満洲の野は曇り。
哈爾浜市の学徒出陣壮行会あり。女学生が拍手で送ってくれた。 市民も皆集まっている。「八区」の野に学徒出陣《注1》の意気高し。
晩、上原中枚宅へ。かわいい女学生の娘さんが酌をしてくれた。しかも恩賜《注2》の盃で。中枚先生日く「おい娘、来て酌をしろ。かわいい学生の出陣だ。酌をしないと嫁に貰い手がないぞ」と。
四日(木) 曇
午前中卒業式予行。午後青木と「イベリア」へ。あと「グロート」でロシヤ料理。鈴木(淳栄)がお母さんと一緒に入ってこられ、挨拶。
スンガリーを最後の見学。ヨットクラブに寄る。静かだった。青木に結婚の感想を聞く。彼こともなげに「例のあんなことをしただけだ」と。
晩、学徒出陣壮行演劇大会。盛会なり。
五日(金) 曇
朝南崗のビヤホールで紅茶と「ブーロチカ」で朝食。帰寮、下着類を新しいのと着替え登校。
卒業式十時三十分に始まる。式後旧食堂にて来賓、職員、卒業生立食会。記念撮影。青木と川村先生宅へ。
日満会館で卒業生の離散会。帰寮七時半、静かに寝る。
六日(土) 曇
午前中就職。丸林、福岡、野崎と共に江口先生宅へ。点呼もなく、門限もなし。飯は食わしてくれる。これに越したことはない。
七日(日) 雪
春日と街へ出る。ビヤホールでビール六杯、マルスでウオッカ一本、中央飯店でコニャック一本、各人宛。ベロベロになって帰る。
八日以後
朝眠が覚めると体が動かない。看護婦さんに注射をして貰って楽になった。彼女日く「急性アルコホル中毒ですよ」と。
(毎日酒ばかり飲んで寝ている記事が続く)
十一日(水)晴
日下就職のため離哈。
十四日(日)
「丸商」で美濃紙と奉書を買って帰る。夜遺書を書く。
十五日(月)
春日、明日離哈、皇新へ帰る予定。二人で哈爾浜の夜景を見る。
南崗マルス、地段街マルス、名古屋グリル、キタイスカヤマルス、最後支那料理。
月日不明
書くに耐えなくなった日記は恐ろしい。酒、酒、酒、あまりの無軌道な生活をそのまま書くのが怖くなった。体重は十数キロ減って四十五キロになっていた。入隊まであと約十日。
補記
十一月八日「急性アルコホル中毒」入隊前の生活を象徴しているような良い言葉だ。
(おわり)
注1:第二次大戦末期1943年兵力不足を補う為 高等教育機関に在学中の20歳以上の文科系学生を在学途中で徴兵し出征させた
注2:天皇から下賜された
一日(月)
朝九時、特務機関へ出頭。
五時まで本部の三島大尉、稲毛中佐、高級参謀の蓄あり。軍に就職する者の反軍的思想に対する対策の為か。
夜小原君と街へ出る。淋しい。
二日(火)
最後の授業に出る。四年問の授業今日で終りぬ。午後の教練、どうしたことか帽子がいくら探してもないので出ない。
晩、川村先生宅。点呼に間に合わなかったので罰として明日不寝番。
三日(水)曇
明治の佳節。日本なら日本晴れ。満洲の野は曇り。
哈爾浜市の学徒出陣壮行会あり。女学生が拍手で送ってくれた。 市民も皆集まっている。「八区」の野に学徒出陣《注1》の意気高し。
晩、上原中枚宅へ。かわいい女学生の娘さんが酌をしてくれた。しかも恩賜《注2》の盃で。中枚先生日く「おい娘、来て酌をしろ。かわいい学生の出陣だ。酌をしないと嫁に貰い手がないぞ」と。
四日(木) 曇
午前中卒業式予行。午後青木と「イベリア」へ。あと「グロート」でロシヤ料理。鈴木(淳栄)がお母さんと一緒に入ってこられ、挨拶。
スンガリーを最後の見学。ヨットクラブに寄る。静かだった。青木に結婚の感想を聞く。彼こともなげに「例のあんなことをしただけだ」と。
晩、学徒出陣壮行演劇大会。盛会なり。
五日(金) 曇
朝南崗のビヤホールで紅茶と「ブーロチカ」で朝食。帰寮、下着類を新しいのと着替え登校。
卒業式十時三十分に始まる。式後旧食堂にて来賓、職員、卒業生立食会。記念撮影。青木と川村先生宅へ。
日満会館で卒業生の離散会。帰寮七時半、静かに寝る。
六日(土) 曇
午前中就職。丸林、福岡、野崎と共に江口先生宅へ。点呼もなく、門限もなし。飯は食わしてくれる。これに越したことはない。
七日(日) 雪
春日と街へ出る。ビヤホールでビール六杯、マルスでウオッカ一本、中央飯店でコニャック一本、各人宛。ベロベロになって帰る。
八日以後
朝眠が覚めると体が動かない。看護婦さんに注射をして貰って楽になった。彼女日く「急性アルコホル中毒ですよ」と。
(毎日酒ばかり飲んで寝ている記事が続く)
十一日(水)晴
日下就職のため離哈。
十四日(日)
「丸商」で美濃紙と奉書を買って帰る。夜遺書を書く。
十五日(月)
春日、明日離哈、皇新へ帰る予定。二人で哈爾浜の夜景を見る。
南崗マルス、地段街マルス、名古屋グリル、キタイスカヤマルス、最後支那料理。
月日不明
書くに耐えなくなった日記は恐ろしい。酒、酒、酒、あまりの無軌道な生活をそのまま書くのが怖くなった。体重は十数キロ減って四十五キロになっていた。入隊まであと約十日。
補記
十一月八日「急性アルコホル中毒」入隊前の生活を象徴しているような良い言葉だ。
(おわり)
注1:第二次大戦末期1943年兵力不足を補う為 高等教育機関に在学中の20歳以上の文科系学生を在学途中で徴兵し出征させた
注2:天皇から下賜された
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あんみつ姫