モンテンルパの夜は更けて
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投稿日時 2009/11/29 8:16
編集者
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はじめに
スタッフより
「はんだ郷土史だより」よりの転載です。
なお、転載につきましては、同紙および、著者の小栗 照夫様の了解を得ております。
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戦犯死刑囚を救った魂の名曲
作曲は知多市出身・伊藤正康氏
モンテンルパ刑務所で当時の国民的大歌手、渡辺はま子が絶唱した。108名の死刑囚らも涙を流しながら大声で歌った。
その歌声は刑務所の高い塀を越え、フィリピンのキリノ大統領の耳に届いた。大統領の心は、この悲しい歌に動かされて、死刑囚ら108名の恩赦が決まった。音楽にはやはり国境を越える力があったのである。
歌は「モンテンルパの夜は更けて」。作曲は知多市出身の伊藤正康氏。今年6月11日他界された。この郷土の偉大なる先輩の偉大なる功績を今号は追ってみる。【西まさる】
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あゝモンテンルパの夜は更けて
作詞 代田銀太郎
作曲 伊藤 正康
歌唱 渡辺はま子
宇都美 清
(1)
モンテンルパの夜は更けて
つのる思いにやるせない
速い故郷 しのびつつ
涙に曇る 月影に
優しい母の 夢を見る
(2)
燕はまたも 来たけれど
恋しわが子は いつ帰る
母のこころは ひとすじに
南の空へ 飛んで行く
さだめは悲し 呼子鳥
(3)
モンテンルパに 朝が来りや
昇るこころの 太陽を
胸に抱いて 今日もまた
強く生きよう 倒れまい
日本の土を 踏むまでは
JASRAC(無信託)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
戦犯死刑囚を救った魂の名曲
作曲は知多市出身・伊藤正康氏
モンテンルパ刑務所で当時の国民的大歌手、渡辺はま子が絶唱した。108名の死刑囚らも涙を流しながら大声で歌った。
その歌声は刑務所の高い塀を越え、フィリピンのキリノ大統領の耳に届いた。大統領の心は、この悲しい歌に動かされて、死刑囚ら108名の恩赦が決まった。音楽にはやはり国境を越える力があったのである。
歌は「モンテンルパの夜は更けて」。作曲は知多市出身の伊藤正康氏。今年6月11日他界された。この郷土の偉大なる先輩の偉大なる功績を今号は追ってみる。【西まさる】
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モンテンルパ
戦犯刑務所
太平洋戦争終戦から6年目となる昭和26年1月、フィリピンのマニフ市郊外にあるモンテンルパ刑務所には、まだ、BC級戦犯とされた122名の元日本軍兵士が囚われていた。
そのほとんどは冤罪(えんざい)、いわば日本兵なら誰でもいいと捕らえて来た人たちといえる。
罪状の多くはフィリピン住民を殺害したというもの。戦闘中、撃って来る相手が敵兵かゲリラか一般市民かの区別などつくわけがなく、いわば「勝てば官軍、負ければ賊軍」そのものだったのだ。
もっと理不尽なのは「指一本」で囚われた人である。
「指一本」とは、日本兵に危害を加えられたと訴える住民の前に、数名の元日本兵を並べて、「誰が犯人だ」と聞く。住民が「これ」と指を指す先にいた日本人が逮捕され、悪ければ死刑となる。そんな驚くべき裁判が日常的に行われていたのだ。
この年、処刑された三木巌陸軍獣医中尉の例は極端だ。
三木氏は戦時中セブ市の獣医部に所属していたが、そこから400㌔も隔たった地点の残虐事件に関係ありとして、被害者と称する女性から「指差し」を受け逮捕された。そんな不当に輪をかけ、裁判の法廷に被害者と称して現れた女性は指を指した女性とはまるで違っていた。
また、「中村ケース」と呼ばれ、比島裁判の不当の例に挙げられる、中村秀一陸軍大尉の例も書いておく。
中村は終戦後日本へ復員、郷里の山口県宇部市で妻と二人の息子と平穏な暮らしに戻っていた。ところが昭和22年、突然、戦犯容疑で出頭命令が来た。セブ島における惨殺事件の容疑であった。中村はその場所に行ったこともなく無罪を疑わず、「すぐに帰るから心配するな」と言い残して家を出た。
しかし、裁判では死刑を宣告され、彼はモンテンルパの絞首台の露と消えた。
戦犯には「留守宅給与」という未復員者への国家補償金も支給されない。国家は戦犯家族には全く冷たい。世間の目もしかり。遺された妻子は貧困と蔑視という悲惨な生活を余儀なくされたのである。
しかし、中村は死刑台の前で、「天皇陛下万歳」を三唱して逝ったのである。
―――こんな運命の波に、もてあそばれていたのがモンテンルパ戦犯囚122名だったのである。
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14名が絞首刑に
連合国による対日講和条約が結ばれる数日前の昭和26年1月19日夕刻、中村秀一大尉以下14名の死刑が執行された。このいきなりの執行は、日本との講和に対してフィリピンを軽くみるなという牽制だった。事実、巨額の賠償金を要求するフィリピンとそれを拒む日本とが盛んにかけ引きを続けていた頃だ。
14名は政争の犠牲でもあったのだ。
死刑執行の第一報を聞いた、教誼師の加賀尾秀忍はフィリピン政府には勿論、アメリカ、そして日本にも強い抗議を含んだ死刑中止の嘆願をした。しかし、執行は止められなかった。
加賀尾は死刑囚の精神的ケアをしたり刑の執行に立ち会ったりする教諭師の枠を超え、モンテンルパ戦犯囚の解放に尽力した人である。
当時の加賀尾は、既に日本復員局との契約も切れ、無給の状態だったが刑務所の一室を所長の好意で借り、コンクリートの床に寝泊りし、戦犯囚と共に生きていた。
14名の死刑が執行されると刑務所内の空気は一変した。この執行は3年半ぶり。つまり長く死刑は実行されていなかったのだ。だから、もう情勢も変化、我々も近く釈放… という気持を死刑囚は持ちはじめていたのだ。
そこでの死刑執行。残された108名の動揺は激しいものがあった。「明日はわが身」、誰もがそう思ったのは当然である。
刑務所内では14名が逝った後、全員が小我を捨て、仲間と助け合う関係が急激に生まれたという。神仏を崇拝する気持の高まり、経典や聖書の研究も盛んになった。
だが、人間は弱いものである。時がたつにつれ、死への不安が高まり、疑いの心、自我も大きくなり、所内の空気はとげとげしいものとなっていった。
モンテンルパの歌を
加賀尾は、この澱んだ空気を晴らしたいと代田銀太郎と伊藤正康に声をかけた。
「代田さん、こうなれば歌しかない。皆さんで歌える歌を作ってください。伊藤さん、あなたは代田さんの詩に曲をつけてください」。
代田は文学好きで折々に詩を書いているのを加賀尾は知っていた。そして、代田の詩に伊藤が即興の曲をつけ、オルガンを弾いているのも知っていたからだ。
代田は長野県飯田市出身の憲兵少尉。死刑囚である。
伊藤は愛知県知多市出身の陸軍大尉。死刑囚であった。
その日から二人は懸命に「モンテンルパの歌」に取り組んだのである。
この頃伊藤は悩んでいた。「処刑の14名の中に自分はなぜ入っていないのだ」。
14名の中には彼より階級が低いものが多い。自分が先頭に立って処刑台に向うべきだった。彼らのほとんどは冤罪。伊藤も冤罪である。ならば職業軍人たる自分が率先して行くべきだった。 ―― 自分は生き恥をさらしている、という思いがあったのだ。
残された108名の中で彼の階級は最も上の大尉。年長でもある。
「今の自分は何をすべきだろう。何ができるだろう」
彼はそう自問し、苦悩していた。
そこに作曲要請。これだ、と思いながらも、ちゃんとした作曲などしたこともない。これも辛い作業であった。
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正康、佐布里川の誓い
大正11年12月29日、伊藤正康は知多郡八幡町大字佐布里字絹屋で伊藤勝一の三男に生まれた。今の知多市にしの台1丁目である。
小学校は八幡第三小学校(現佐布里中)。成績は良かったが引っ込みがちで、弱い子に見えたという。
伊藤が小学校5年になった時、山本桂という新人教師が担任となった。山本は師範学校を卒業したばかりの熱血教師。後に片山姓となり成岩小学校長を務めた人だ。
ある日のこと、無断欠席の伊藤を心配した山本が、伊藤宅を訪問に向った。その途中、佐布星川の土手に一人で坐っている彼を見つけた。
「正康! 何をしとる」。
山本の声に驚いた伊藤だが返事もせず黙って下を向いていた。
伊藤の隣に坐った山本は、ゆっくりと彼の悩みを聞きだした。やがて伊藤は泣きじゃくりながら心の内を話し始めたのである。
悩みはこうであった。
彼は3男で長兄二人は地元でも評判の秀才だった。長男の次郎は今の半田農高。次男の加一は陸軍士官学校。当時の最優秀な子が進む道だ。
正康はそれに気後れをしていた。また、兄たちに加えて伊藤家の甥や従兄弟たちが次々と中学へ入学していったのも彼を憂うつにしていた。
「次々と子どもらを学校へあげるのも楽じゃない」 と折々にこぼす母の言葉が正康には辛かったのだ。
伊藤家は中流農家。決して裕福な家ではない。一家から5人も6人も中学、高校へ通わせる苦労は小学生の正康にもわかっていた。
中学に行かず家の手伝いをするべき- 正康はそう考えていたのだ。
それを聞いた教師の山本は目をむいて正康を叱り、元気づけた。そして、正康の手を取り小学校に戻った。
山本はオルガンを弾き、大声で歌を歌った。
「正康、お前も歌え!」。
最初はボソボソと山本について歌っていた正康だが、徐々に声も大きくなっていった。だが音程は定まらない。
「正康、お前は声は大きいがオンチだな。でも、それでいいんだ。男は乱暴なくらいがよし! オンチでよし!」。
二人は顔を見合わせて声をあげて笑った。
伊藤正康の意識が変わったのはこの目からである。机に向った彼は、東海中学、陸軍幼年学校、陸軍士官学校と進む。陸士では同期で数人しか貰えない「恩賜の銀時計」を授与された秀才で職業軍人となる。
終戦後は陸上自衛隊に入隊、ついには陸将(かつての陸軍大将)の任についたのだから、筋金入りの軍人となったわけだ。
この出発点は佐布里川、長曾橋のほとりであった。
伊藤がモンテンルパ刑務所内から叔母に出した手紙のコピーが手許にある。獄舎からなので検閲を気にして所内の様子や自分の考えは控えめにしか書いてないが、故郷を思う個所には、長曾橋の光景を懐かしそうに、しっかりと書いてあった。
この長曾橋での新人教師、山本桂とのひと時が彼の進路を決め、そして、山本に習ったオルガンが伊藤の身につき、やがては108名の戦犯死刑囚らを救い、日本国民の心を揺さぶる名曲を作り出す礎となったのである。
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歌は出来たが-
昭和26年のモンテンルパ刑務所に戻る。
所の敷地内に絞首台がある。処刑された屍はその傍の掘られた墓穴に葬られる。その墓穴が掘られ始めたのだ。
先の14名の時は14の墓穴が掘られた。死刑囚たちの耳にはその時の穴を掘る音が耳に残っている。
一人「回は幾つ掘られるんだ。妙な緊張と押しっぶされるような空気が獄舎には立ちこめていた。墓穴は19個、掘られた。
そんな頃、歌が完成した。「伊藤さん、みんなに歌って聞かせてください」 加賀尾が言う。
うなずいて伊藤がオルガンを弾き、歌う。大声のダミ声だ。皆があつけにとられて聴いている。伊藤はオンチこそ直っていたが歌唱はうまくない。戦犯囚たちの反応もよくない。また、19の墓穴の恐怖もあり、彼らは心から歌うことなどできなかった。
これが 「モンテンルパの歌」の誕生の瞬間であった。
~これではいけない。加賀尾はこの歌を日本の有名歌手に歌わせたいと画策。当時の国民的歌手、渡辺はま子に渡りをつけた。
伊藤は便箋に五線を引き、懸命に譜面を書いた。人に見せる譜面など書いたこともないのだ。代田は歌詞の細部を何度も書き直す。後に完成の歌の詞は3番だが、この時点では5番まであった。
譜面が渡辺はま子の手許に届いたのは昭和27年4月上旬。これより3ケ月ほどトラブルはあったが、はま子の強い意志がレコード会社を動かし、ついにこの歌が日の目を見たのである。
所詮、素人の作詞作曲だと、加賀尾は添削、編集を願いたい、と申し出ていたが、「物悲しい、この雰囲気は当事者ならではのもの」と、ほとんど原曲のままレコーディングされた。ただ題名だけは「ああモンテンルパの夜は更けて」と改題。吹き込みの目には伊藤正康の留守家族、従兄の杉江小市、姪の杉江洋子が招かれ、はま子が菓子を出すなど、かいがいしく接してくれたという。
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投稿数: 4298
はま子、獄舎の舞台
渡辺はま子が偉かったのはこれからの行動である。
この歌を全国に流すとともに当時は国交のないフィリピン訪問を願い出て「モンテンルパ刑務所を訪ね、戦犯囚を慰労したい」と言い出したのだ。会社も国も驚いた。普通の人ならいざ知らず今を時めく大スターである。万一があってはと、周囲は懸命に止めたが、はま子は強引にそれを実行したのである。
昭和27年12月23日、渡辺はま子はモンテンルパ刑務所の廊下で戦犯囚を前に歌い始めた。コンクリートと鉄だけの暗い廊下である。伴奏はアコーディオン一つだけ。
楽屋は毛布で仕切っただけ。大スターはま子の経験した最も粗末な舞台だったろう。
しかし彼女は全く手抜きをしない。3度も衣裳を変え、「荒城の月」など日本の唱歌。「オー・ソレ・ミオ」など洋楽。「支那の夜」「蘇州夜曲」など、はま子のヒット曲。それらを汗びっしょりになって歌った。「モンテンルパの夜は更けて」は2回歌った。2回目は最後に歌った。
108名の戦犯囚も歌った。大声で歌う者、泣きながら歌う者、目を閉じて、つぶやくように歌う者。やがて鳴咽のようなメロディーがモンテンルパに湧き上がった。
この時の模様は、囚人の声を入れないという条件で録音が許可されていた。そのテープは日本に持ち込まれ各所で大きな話題を呼んだ。伊藤正康の留守宅にもこのテープは届けられている。
奇跡が起こったのはそれから半年後であった。
モンテンルパの大合唱の噂を耳にしたキリノ大統領がその曲を取り寄せて聴いた。むろん日本語の歌である。
大統領は日本兵に妻と二人の子も殺されていて許しがたい怨念を持っていた。しかし、歌の力は国境を越え、言語を超え、怨念をも超えた。
大統領は108名の恩赦を宣言したのである。
写真
上段は「伊藤の結婚式に出席、祝辞を述べる渡辺はま子」
下段は「モンテンルパの舞台を録音したテープを聴く伊藤家の人々」
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
正康氏の思い出
平成21年6月11日、伊藤正康は心不全のため逝去。86歳であった。
筆者は正康氏の甥にあたる文人画家の加藤不譲氏を訪ねた。不譲氏を紹介してくれたのは書家の岡田巌氏。
不譲氏は私の顔を見るなり「うちの庭に芙蓉がある。正康が植えたものだ。今年は咲かないなと思っていたら6月11日朝、真っ白で大きな花を咲かせた。すると正康の死の知らせが来た」。
不譲氏に連れ立って、正康氏の甥の伊藤芳彦宅へ。芳彦氏は元教師で知多市教委などに勤務された方だ。
「片山桂先生のことはよく話していた。名実ともに恩師だ」。
「正康とはよく酒を飲んだが、いくら酔ってもモンテンルパの話はしなかった。辛い思い出だったのだろう。私も訊きはしなかった」。
「モンテンルパから来る正康の手紙はちり紙だよ。トイレットペーパーに書いて来るろん日本語の歌である。
大統領は日本兵に妻と二人の子も殺されていて許しがたい怨念を持っていた。しかし、歌の力は国境を越え、言語を超え、怨念をも超えた。
○
伊藤正康氏の思いを意外なところで発見した。
楽曲には総て著作権があり、日本の音楽著作権は日本音楽著作権協会(1ASRAC)が統括管理している。ここを通じて著作権使用料を徴収し、著作権者すなわち作曲家や歌手に支払われる。
歌詞を掲載する本紙も例外ではなく支払い手続き一。ところがこの曲は1ASRACへ無信託。すなわち印税を放棄している。誰でもご自由にということだ。
作詞の代田、作曲の伊藤、そしてプロである渡辺はま子も印税を放棄した。3人のこの歌に対する思いが強く伝わる行為である。
冤罪で逝った戦友への鎮魂。戦争の遺した不条理。
「ああモンテンルパの夜は更けて」にはそんな思いが込められているのであった。
・参考文献
○『モンテンルパに祈る』加賀尾秀忍著(国書刊行会)
○『モンテンルパの夜はふけて』中田整一著 (NHK出版)
・資料提供(掲載の写真もすべて)
○伊藤芳彦氏
○加藤不譲氏
-完-
えー
居住地: 岐阜
投稿数: 5
最後に書いてある
>筆者は正康氏の甥にあたる文人画家の加藤不譲氏を訪ねた。
この加藤不譲先生は友人なんです。
不思議なめぐりあわせですね。
10年前に名古屋ドームで100メートルの文人画を描いて
いただいたのがきっかけです。
>筆者は正康氏の甥にあたる文人画家の加藤不譲氏を訪ねた。
この加藤不譲先生は友人なんです。
不思議なめぐりあわせですね。
10年前に名古屋ドームで100メートルの文人画を描いて
いただいたのがきっかけです。
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えー