捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部
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投稿日時 2008/9/8 7:53
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問一髪まぬがれた巣鴨プリズン《注1》入り
威力ある異国の友情・1
私の捕虜収容所での通訳としての業務も、二十年秋に捕虜たちが 帰国したことで一応、終わった。所属する三菱鉱業生野・明延鉱業所で収容所関連の残務整理をして同鉱業所を退職、同年十一月中旬、大阪・堺市へ帰った。帰ったといっても、とくに就職のあてがあったわけではなく、戦災の大阪で一家が暮らすことは容易でない。むしろ田舎の兵庫県・生野町の方が戦災の影響も直接なくまだ多少、生活し易かった。だから当面、堺市の家の事情や自分の働き口がハッキリするまで家族は生野に残し、唯一人、帰阪した。
大阪市内から堺にかけては、かつての空爆で、ほとんど焼け野原といってよいほどの惨状だった。焼け跡のそこかしこで廃木を積み重ねただけの粗末な小屋に仮り住まいする人びと。焼けただれた土地を耕やして畑にする人。どこからか運んできた鍋で炊とんをつくり、野天で立ち食いする一家。ヤミ市らしい場所で物売りする人、物欲し顔でうろつく人。うつろな眼で路傍《=みちばた》にたたずむ母子…三か月前まで日の丸の旗の下、聖戦という名で一億決戦を誓っていた日本の、この変わりよう。生まれ、育ったわが郷土の荒廃ぶりに、悲しみと同時に情けない気持ちが先き立った。
幸いわが家周辺は直接の空爆被害もなく残っていた。わが家は借家ですでに他人が住みついていたので、無事だった妻の実家で唯一人、寝起きすることにした。「そのうち、どこかで働けるやろ」と運を天にまかせる気持ちで日を送らざるをえなかった。こちらの事情を、残した家族に知らせようにも、電話はまだ不通、郵便もいつ着くかわからない。気ばかりあせって悶々(もんもん) のうちに明け暮れていた。
そんな十二月も終わりに近づいたある日の午後だった。玄関に古びた国民服姿と巡査の制服を着た二人の男がやってきて「小林一雄さんですね」とジロリと私をにらみつける。おっかぶせるように「警察の者ですが、あす大阪府警察部(現大阪府警本部)に出頭してください」という。私には寝耳に水。何のことかわからず「一体、何があったんでっか? 私とかかわりのある事件でも起きたんでっか?」と戸惑い気味に尋ねた。「大したことじやないんですが、あなたが捕虜収容所に勤務したことがあるので、戦争犯罪容疑の参考人として連合国占領軍総司令部(GHQ)の指示で聞きたいことがあるそうです。協力しないと大変なことになるのでぜひ出頭してください」 二人の男は語尾を強め、私のことばをさえぎるようにいって立ち去った。
「どうしてこの俺が戦争犯罪と関係があるのか?」 どうしても思い当たるフシがない。「人違いではないか?しかし捕虜収容所に勤めていた小林といっていたなあ」 あれこれ考えながら焼けた市内をうろついているうちに夜となり、帰宅して床についたものの、なかなか寝つかれなかった。
その翌朝。思い当たるフシがなくても、出頭してありのままをしやべれば参考人としての役割りも果たせると、意外にサッパリした気分になれたのは不思議だった。家を出る直前になって「そうだ〝あれ〃を忘れてはダメだ。こんな時、何かの役に立つハズだ」 私はその〝あれ″を懐にして家を出た。
大阪府警察部に出頭すると、何の調べもなく「これから東京の連合軍総司令部に行ってもらいます。私ら二人が付き添いますのでよろしく」と、すぐ私服刑事二人が私の両脇にぴったりくつついて国鉄(JR)大阪駅へ。私の心臓はドキドキ。とにかく何のことかわからないまま、戦犯容疑調べのためのタイム・スケジュールはどんどん進んでいく。私の話すスキもない。それだけに不安はつのる一方だ。手錠こそかけられていないが、生まれてはじめての経験にモノいう力も出なかった。列車の中では、二人の刑事が私の気をまぎらわせるように、雑談をしかけてきたが相手にする気も起きない。占領軍専用列車の急行便で東京に着いたのはその日夕方。市ヶ谷近くの河田町会館という戦犯証人関係者用の指定宿舎に泊った。
注1 巣鴨プリズン=巣鴨拘置所(すがもこうちしょ)かつて東京都豊島区巣鴨(現在の東池袋)に存在した拘置所。第二次大戦後にはGHQによって接収され、極東国際軍事裁判の被告人とされた戦争犯罪人が収容された
1978年4月6日 拘置所跡地にサンシャインシティ開業
威力ある異国の友情・1
私の捕虜収容所での通訳としての業務も、二十年秋に捕虜たちが 帰国したことで一応、終わった。所属する三菱鉱業生野・明延鉱業所で収容所関連の残務整理をして同鉱業所を退職、同年十一月中旬、大阪・堺市へ帰った。帰ったといっても、とくに就職のあてがあったわけではなく、戦災の大阪で一家が暮らすことは容易でない。むしろ田舎の兵庫県・生野町の方が戦災の影響も直接なくまだ多少、生活し易かった。だから当面、堺市の家の事情や自分の働き口がハッキリするまで家族は生野に残し、唯一人、帰阪した。
大阪市内から堺にかけては、かつての空爆で、ほとんど焼け野原といってよいほどの惨状だった。焼け跡のそこかしこで廃木を積み重ねただけの粗末な小屋に仮り住まいする人びと。焼けただれた土地を耕やして畑にする人。どこからか運んできた鍋で炊とんをつくり、野天で立ち食いする一家。ヤミ市らしい場所で物売りする人、物欲し顔でうろつく人。うつろな眼で路傍《=みちばた》にたたずむ母子…三か月前まで日の丸の旗の下、聖戦という名で一億決戦を誓っていた日本の、この変わりよう。生まれ、育ったわが郷土の荒廃ぶりに、悲しみと同時に情けない気持ちが先き立った。
幸いわが家周辺は直接の空爆被害もなく残っていた。わが家は借家ですでに他人が住みついていたので、無事だった妻の実家で唯一人、寝起きすることにした。「そのうち、どこかで働けるやろ」と運を天にまかせる気持ちで日を送らざるをえなかった。こちらの事情を、残した家族に知らせようにも、電話はまだ不通、郵便もいつ着くかわからない。気ばかりあせって悶々(もんもん) のうちに明け暮れていた。
そんな十二月も終わりに近づいたある日の午後だった。玄関に古びた国民服姿と巡査の制服を着た二人の男がやってきて「小林一雄さんですね」とジロリと私をにらみつける。おっかぶせるように「警察の者ですが、あす大阪府警察部(現大阪府警本部)に出頭してください」という。私には寝耳に水。何のことかわからず「一体、何があったんでっか? 私とかかわりのある事件でも起きたんでっか?」と戸惑い気味に尋ねた。「大したことじやないんですが、あなたが捕虜収容所に勤務したことがあるので、戦争犯罪容疑の参考人として連合国占領軍総司令部(GHQ)の指示で聞きたいことがあるそうです。協力しないと大変なことになるのでぜひ出頭してください」 二人の男は語尾を強め、私のことばをさえぎるようにいって立ち去った。
「どうしてこの俺が戦争犯罪と関係があるのか?」 どうしても思い当たるフシがない。「人違いではないか?しかし捕虜収容所に勤めていた小林といっていたなあ」 あれこれ考えながら焼けた市内をうろついているうちに夜となり、帰宅して床についたものの、なかなか寝つかれなかった。
その翌朝。思い当たるフシがなくても、出頭してありのままをしやべれば参考人としての役割りも果たせると、意外にサッパリした気分になれたのは不思議だった。家を出る直前になって「そうだ〝あれ〃を忘れてはダメだ。こんな時、何かの役に立つハズだ」 私はその〝あれ″を懐にして家を出た。
大阪府警察部に出頭すると、何の調べもなく「これから東京の連合軍総司令部に行ってもらいます。私ら二人が付き添いますのでよろしく」と、すぐ私服刑事二人が私の両脇にぴったりくつついて国鉄(JR)大阪駅へ。私の心臓はドキドキ。とにかく何のことかわからないまま、戦犯容疑調べのためのタイム・スケジュールはどんどん進んでいく。私の話すスキもない。それだけに不安はつのる一方だ。手錠こそかけられていないが、生まれてはじめての経験にモノいう力も出なかった。列車の中では、二人の刑事が私の気をまぎらわせるように、雑談をしかけてきたが相手にする気も起きない。占領軍専用列車の急行便で東京に着いたのはその日夕方。市ヶ谷近くの河田町会館という戦犯証人関係者用の指定宿舎に泊った。
注1 巣鴨プリズン=巣鴨拘置所(すがもこうちしょ)かつて東京都豊島区巣鴨(現在の東池袋)に存在した拘置所。第二次大戦後にはGHQによって接収され、極東国際軍事裁判の被告人とされた戦争犯罪人が収容された
1978年4月6日 拘置所跡地にサンシャインシティ開業
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威力ある異国の友情・2
GHQ《=連合国軍最高司令官総司令部》の法務部で私の引き渡しが終わると二人の刑事は、すまなそうな表情で「ご苦労さまです」といって再び帰っていった。一人になった私は同法務部前の廊下で待つように指示された。
廊下に出てみると、多くの日本人が列をつくって立っている。身だしなみのキチンとした人、破れかけた国民服姿の人、肩章をはずした陸軍の将校制服姿の人。その誰もが黙りこみ、うなだれ、キョロキョロとあたりを見まわしている風だった。あとから聞いて知ったが、その列の中にはB級戦犯で裁かれた陸軍中将閣下や旧陸軍省の高官も数多くいたそうだ。「これから呼び出しがあると、調べの結果、容疑者として認定されれば旧陸軍省跡の巣鴨拘置所へ送られるそうだ」 私のすぐ前に並ぶ五十歳近くの陸軍将校服を着た人が意外にも笑顔でこう話しかけてきた。
「修養を積んだ大物将校だろう。この場で笑顔になれるとは…」 私のドキドキするような不安な気持ちはこの人のことばでいっそうその度を増す心地にさせられた。
その時だった。「コバヤシさーん、ファイヤー・ボール(収容時代に捕虜がつけた私のあだな)」英語なまりの日本語で私に話しかけるアメリカ陸軍の将校。顔をあげて驚いた。本当にびっくりした。あの生野の捕虜収容所で最高責任者だったフリニオ中佐(FLANKIN・M・FLINIAU)ではないか。しかもいまは「大佐」の肩章をつけている。
「何の用でここにいる?」「いやー、戦争犯罪の容疑参考人として大阪から日本の警察官に連れてこられた」「君が戦争犯罪容疑?」「私にも理由がわからないが、総司令部の指示で出頭せよと警察官はいっていた。参考人というが、戦犯容疑と認められるとすぐ巣鴨拘置所に護送されるということだ。とにかく、何のことか、私にはサッパリわからないことばかりだ」私の声は滅入るようにか細かったと思う。
こんなヤリトリをしたが、フリニオ〝大佐″は「君がそんなことでここに来るのは当たらない。ちょっと待っておれ。ところで〝あれ〃を持っているか? 私が収容所で渡した私の手紙を」「あなたのいった通り、いつも忘れずに持っている」「出しなさい。私が出てくるまでここで待っていてくれ」私は、待ってましたとばかりに、家を出るとき懐にした彼の手紙とガルブレイス大尉(10HN・M・GALBRAI↑H)が書いてくれた〝友情の手紙″を手渡した。
フリニオ〝大佐〃はそれをひったくるように受け取って小走りに法務部のある部屋に入っていった。
三十分も待っただろうか。フリニオ〝大佐″は廊下でしょんぽりしている私のそばにやってきて「もう巣鴨へ行かなくていいよ。すぐ大阪へ帰ってもよい。君と戦争犯罪はまったく無関係だ。いや、むしろ私らの本当の友人だ」とニコニコしながらいう。そして彼の手紙だけはまた返してくれた。半信半疑の私は「本当にすぐ大阪へ帰ってよいのか?」「そうだ」「ありがとう。あなたのおかげで私のドキドキする心臓が鎮《しず》まった」
彼は具体的なことは何もいわなかったが恐らく、あの〝友情の手紙〃を証言として私の潔白を主張してくれたのだろう。〝地獄で仏″とは文字通りこのことだ。私は彼の手を握りしめ、「本当に感謝します。ありがとう」と心からお礼をいった。並んで待つ他の人びとが不思議そうに眺めていたが、何とも気の毒に思えた。
「せっかく東京へ来たんだから、列車に乗るまでいっしょに食事をしよう」 彼は私の背をたたきながら誘ってくれた。総司令部近くのアメリカ軍キャンプ内の食堂で豪華な夕食をご馳走になった。先ほどまでの不安も吹っ飛び、三時間ばかり、ゆったりしたリラックス・ムードのなかで、なつかしい話を交わした。彼は帰国前、すぐ連合軍総司令部勤務を命じられたようだ。本国への帰国を控えていたようで、軍服姿の大きな写真を贈ってくれた。
「大阪に帰っても仕事がないなら、在阪アメリカ占領軍でもう一度、通訳として働いた方がよい。大阪にはアメリカ第一軍団が駐留している。帰ったらすぐ私の手紙をもって同軍団司令部へ行くとよい」「そうしよう。あなたの手紙を持って、軍団とそこに働く日本人のお役に立つよう頑張ります。ありがとう」「ところで、収容所時代の君の役割は本当に重要だった。こんごそれに関連することで総司令部が参考意見を聞くことがあるかも知れないので、居所だけは常に明らかにしておいてくれ。もちろん、いかなることがあってももう君に不利になることは絶対にないのだから…」。
なつかしい対面と会食の時間を終わって、私は彼と再会を約しながら、夜行列車に乗り込み、大阪へ向かった。それにしても人間の一寸先はわからない。あの総司令部の廊下で彼、フリニオ〝大佐〃に出合わなかったら、心に一点のやましいところがないとはいえ、私の運命はどうなっていただろう。あの廊下に並んでいた人びと、いやすでに巣鴨に拘置され、軍事法廷の裁きを受けた人の中にも、的確な証言が得られぬまま容疑をかけられ、心にもない罪を背負って受刑者の烙印を押された人があるのではないか。この疑問が一瞬、私の脳裏をかすめたのは、戦争という特殊な条件の犯罪を裁くという、いわば「勝者」と「敗者」の論理が存在すると思ったからか。幸い私はフリニオ〝大佐〃という大きな恩人、よき友、よき証言者があの場に居合わせたおかげで即刻、何の調べもなく解放された。まさに"天国"と〝地獄″の紙一重の差を味わった。それだけに余計に戦犯問題〃を身近なこととして考えさせられるのである。
それにしても、その私とは対照的な人生の終幕を閉じた人のことが思い出される。戦後三年目風の便りに聞いたことだが、一緒に働いていた先輩通訳は、捕虜虐待の罪で処刑されたという。一年ばかり一緒に働いたが、彼が捕虜を殴るなどの暴行現場を見たことはない。私に実用英語を教えてくれたり、捕虜のために所属会社にかけ合って日用品などの獲得に奔走《ほんそう》したことを見聞したことはある。そんな彼が死刑という極刑をうけるとは。本当に理解に苦しむ。ここでも戦犯裁判の〝正当性〃に多くの不満と疑問を抱かせる。彼と私の運命の落差に本当に驚き、涙なしには思い出せない。いま心から彼のご冥福《めいふく》を祈る者である。
GHQ《=連合国軍最高司令官総司令部》の法務部で私の引き渡しが終わると二人の刑事は、すまなそうな表情で「ご苦労さまです」といって再び帰っていった。一人になった私は同法務部前の廊下で待つように指示された。
廊下に出てみると、多くの日本人が列をつくって立っている。身だしなみのキチンとした人、破れかけた国民服姿の人、肩章をはずした陸軍の将校制服姿の人。その誰もが黙りこみ、うなだれ、キョロキョロとあたりを見まわしている風だった。あとから聞いて知ったが、その列の中にはB級戦犯で裁かれた陸軍中将閣下や旧陸軍省の高官も数多くいたそうだ。「これから呼び出しがあると、調べの結果、容疑者として認定されれば旧陸軍省跡の巣鴨拘置所へ送られるそうだ」 私のすぐ前に並ぶ五十歳近くの陸軍将校服を着た人が意外にも笑顔でこう話しかけてきた。
「修養を積んだ大物将校だろう。この場で笑顔になれるとは…」 私のドキドキするような不安な気持ちはこの人のことばでいっそうその度を増す心地にさせられた。
その時だった。「コバヤシさーん、ファイヤー・ボール(収容時代に捕虜がつけた私のあだな)」英語なまりの日本語で私に話しかけるアメリカ陸軍の将校。顔をあげて驚いた。本当にびっくりした。あの生野の捕虜収容所で最高責任者だったフリニオ中佐(FLANKIN・M・FLINIAU)ではないか。しかもいまは「大佐」の肩章をつけている。
「何の用でここにいる?」「いやー、戦争犯罪の容疑参考人として大阪から日本の警察官に連れてこられた」「君が戦争犯罪容疑?」「私にも理由がわからないが、総司令部の指示で出頭せよと警察官はいっていた。参考人というが、戦犯容疑と認められるとすぐ巣鴨拘置所に護送されるということだ。とにかく、何のことか、私にはサッパリわからないことばかりだ」私の声は滅入るようにか細かったと思う。
こんなヤリトリをしたが、フリニオ〝大佐″は「君がそんなことでここに来るのは当たらない。ちょっと待っておれ。ところで〝あれ〃を持っているか? 私が収容所で渡した私の手紙を」「あなたのいった通り、いつも忘れずに持っている」「出しなさい。私が出てくるまでここで待っていてくれ」私は、待ってましたとばかりに、家を出るとき懐にした彼の手紙とガルブレイス大尉(10HN・M・GALBRAI↑H)が書いてくれた〝友情の手紙″を手渡した。
フリニオ〝大佐〃はそれをひったくるように受け取って小走りに法務部のある部屋に入っていった。
三十分も待っただろうか。フリニオ〝大佐″は廊下でしょんぽりしている私のそばにやってきて「もう巣鴨へ行かなくていいよ。すぐ大阪へ帰ってもよい。君と戦争犯罪はまったく無関係だ。いや、むしろ私らの本当の友人だ」とニコニコしながらいう。そして彼の手紙だけはまた返してくれた。半信半疑の私は「本当にすぐ大阪へ帰ってよいのか?」「そうだ」「ありがとう。あなたのおかげで私のドキドキする心臓が鎮《しず》まった」
彼は具体的なことは何もいわなかったが恐らく、あの〝友情の手紙〃を証言として私の潔白を主張してくれたのだろう。〝地獄で仏″とは文字通りこのことだ。私は彼の手を握りしめ、「本当に感謝します。ありがとう」と心からお礼をいった。並んで待つ他の人びとが不思議そうに眺めていたが、何とも気の毒に思えた。
「せっかく東京へ来たんだから、列車に乗るまでいっしょに食事をしよう」 彼は私の背をたたきながら誘ってくれた。総司令部近くのアメリカ軍キャンプ内の食堂で豪華な夕食をご馳走になった。先ほどまでの不安も吹っ飛び、三時間ばかり、ゆったりしたリラックス・ムードのなかで、なつかしい話を交わした。彼は帰国前、すぐ連合軍総司令部勤務を命じられたようだ。本国への帰国を控えていたようで、軍服姿の大きな写真を贈ってくれた。
「大阪に帰っても仕事がないなら、在阪アメリカ占領軍でもう一度、通訳として働いた方がよい。大阪にはアメリカ第一軍団が駐留している。帰ったらすぐ私の手紙をもって同軍団司令部へ行くとよい」「そうしよう。あなたの手紙を持って、軍団とそこに働く日本人のお役に立つよう頑張ります。ありがとう」「ところで、収容所時代の君の役割は本当に重要だった。こんごそれに関連することで総司令部が参考意見を聞くことがあるかも知れないので、居所だけは常に明らかにしておいてくれ。もちろん、いかなることがあってももう君に不利になることは絶対にないのだから…」。
なつかしい対面と会食の時間を終わって、私は彼と再会を約しながら、夜行列車に乗り込み、大阪へ向かった。それにしても人間の一寸先はわからない。あの総司令部の廊下で彼、フリニオ〝大佐〃に出合わなかったら、心に一点のやましいところがないとはいえ、私の運命はどうなっていただろう。あの廊下に並んでいた人びと、いやすでに巣鴨に拘置され、軍事法廷の裁きを受けた人の中にも、的確な証言が得られぬまま容疑をかけられ、心にもない罪を背負って受刑者の烙印を押された人があるのではないか。この疑問が一瞬、私の脳裏をかすめたのは、戦争という特殊な条件の犯罪を裁くという、いわば「勝者」と「敗者」の論理が存在すると思ったからか。幸い私はフリニオ〝大佐〃という大きな恩人、よき友、よき証言者があの場に居合わせたおかげで即刻、何の調べもなく解放された。まさに"天国"と〝地獄″の紙一重の差を味わった。それだけに余計に戦犯問題〃を身近なこととして考えさせられるのである。
それにしても、その私とは対照的な人生の終幕を閉じた人のことが思い出される。戦後三年目風の便りに聞いたことだが、一緒に働いていた先輩通訳は、捕虜虐待の罪で処刑されたという。一年ばかり一緒に働いたが、彼が捕虜を殴るなどの暴行現場を見たことはない。私に実用英語を教えてくれたり、捕虜のために所属会社にかけ合って日用品などの獲得に奔走《ほんそう》したことを見聞したことはある。そんな彼が死刑という極刑をうけるとは。本当に理解に苦しむ。ここでも戦犯裁判の〝正当性〃に多くの不満と疑問を抱かせる。彼と私の運命の落差に本当に驚き、涙なしには思い出せない。いま心から彼のご冥福《めいふく》を祈る者である。
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戦犯裁判をうけた捕虜収容所の日本人たち・1
東京のGHQから帰阪した私は、フリニオ大佐との約束通り、翌日すぐ大阪エリアを占領統括するアメリカ陸軍第一軍団司令部(大阪市)を訪ねた。フリニオ大佐のしたためた〝手紙〟をみせ「通訳として就職したい」と告げると、応待に出た下級将校はけげんそうな顔つきで「待っていろ」といって奥に入っていった。しばらくして佐官級の将校が姿をみせ「わかった。就職OKだ。通訳が必要だった。お前の住所に近い堺市金岡町キャンプの情報部に勤務しろ」と、いとも簡単に手続きを終わった。その日から勤めはじめた。ここでもフリニオ〝大佐〟の〝手紙″の威力に感謝した。
ところで、通訳として、こんどは勝者のアメリカ軍キャンプに勤務することになったが、戦時中に捕虜収容所勤めを勝者の立場にあった私は、こんどはGHQからの要請で、敗者の側に立って何度も何度も〝戦犯裁判″の証人、参考人として出廷させられた。特定の戦犯容疑者に関連するものは少なく、私の勤めた捕虜収容所に関して捕虜の生活実態、日本軍側の対応、衣食住から強制労働にいたるさまざまな具体的な実情、捕虜との対話にいたるまで、記憶に残るわずかなことも微に入り、細にわたって質問をうけた。私は日本人として、戦時中の状況判断もふくめ、誠意をもって実情を正直に述べたつもりだ。
参考人、証人に対しても、こんなに突っ込んだ内容の質問が幾回となく繰り返されたのだから、容疑をかけられた人びとに対する尋問は相当、厳しかったのではないか。私の証人、参考人調査が、誰にどのように作用し、どんな判定につながったか知る由もないが、勝者の軍事法廷で行われた、敗者に対する裁判であったことは、まぎれもない事実だ。
私の身近にいた捕虜収容所時代の知人、友人ら仲間のなかにも、本人は「身に覚えがない」と断言しながら、当時の捕虜の簡単な証言一つで断罪された人がいる。
大阪捕虜収容所多奈川分所と同生野支所で管理運営担当の陸軍軍曹として勤務していた峰本善成さん(現在七十二歳)=奈良市東大路町=もその一人。終戦直後、捕虜虐待の疑いでGHQに逮捕され、C級戦犯として昭和二十六年(一九五一)一月まであの巣鴨拘置所につながれた。
峰本氏によると、多奈川分所に勤務していた十八年に一人のアメリカ兵捕虜の脱走事件が起きた。脱走しても逃げ通せない。日本人にみつかれば当時の状況からは殺されかねない。「何としても見つけ出さないと大変なことになる」 と、関係者を動員して捜索中、ある民家から 「食物をくれとアメリカ兵が立ち寄っている」 との通報を受け、やっと連れ戻した。規則に従って営倉《注》入りの処分を行った。
次の日、巡回して営倉前に行くと、日本軍の衛兵二、三人が彼を殴りつけている。峰本氏は「止めろ。そんなひどいことをしてはならない」 と制止するためその輪の中に入っていった。上官である彼の命令に他の兵士も手を引き、おさまった。ところが、戦後、他の捕虜の勘違いで峰本氏は他の兵士に指示していっしょに殴りつけたと証言。そのことば一つで捕虜虐待の罪でC級戦犯として懲役十年の刑を言い渡された。しかし途中、恩赦で二十六年一月には釈放された。
「英語が十分に理解できないし、無実を訴えてもどうしても通らなかった。こわい裁判だった。巣鴨プリズン収容されていた期間中、私の心は不安と憤りで身の細る思いだった」と述懐している。
注1 営倉=規律違反などに問われた軍人を収容する兵営内の施設
東京のGHQから帰阪した私は、フリニオ大佐との約束通り、翌日すぐ大阪エリアを占領統括するアメリカ陸軍第一軍団司令部(大阪市)を訪ねた。フリニオ大佐のしたためた〝手紙〟をみせ「通訳として就職したい」と告げると、応待に出た下級将校はけげんそうな顔つきで「待っていろ」といって奥に入っていった。しばらくして佐官級の将校が姿をみせ「わかった。就職OKだ。通訳が必要だった。お前の住所に近い堺市金岡町キャンプの情報部に勤務しろ」と、いとも簡単に手続きを終わった。その日から勤めはじめた。ここでもフリニオ〝大佐〟の〝手紙″の威力に感謝した。
ところで、通訳として、こんどは勝者のアメリカ軍キャンプに勤務することになったが、戦時中に捕虜収容所勤めを勝者の立場にあった私は、こんどはGHQからの要請で、敗者の側に立って何度も何度も〝戦犯裁判″の証人、参考人として出廷させられた。特定の戦犯容疑者に関連するものは少なく、私の勤めた捕虜収容所に関して捕虜の生活実態、日本軍側の対応、衣食住から強制労働にいたるさまざまな具体的な実情、捕虜との対話にいたるまで、記憶に残るわずかなことも微に入り、細にわたって質問をうけた。私は日本人として、戦時中の状況判断もふくめ、誠意をもって実情を正直に述べたつもりだ。
参考人、証人に対しても、こんなに突っ込んだ内容の質問が幾回となく繰り返されたのだから、容疑をかけられた人びとに対する尋問は相当、厳しかったのではないか。私の証人、参考人調査が、誰にどのように作用し、どんな判定につながったか知る由もないが、勝者の軍事法廷で行われた、敗者に対する裁判であったことは、まぎれもない事実だ。
私の身近にいた捕虜収容所時代の知人、友人ら仲間のなかにも、本人は「身に覚えがない」と断言しながら、当時の捕虜の簡単な証言一つで断罪された人がいる。
大阪捕虜収容所多奈川分所と同生野支所で管理運営担当の陸軍軍曹として勤務していた峰本善成さん(現在七十二歳)=奈良市東大路町=もその一人。終戦直後、捕虜虐待の疑いでGHQに逮捕され、C級戦犯として昭和二十六年(一九五一)一月まであの巣鴨拘置所につながれた。
峰本氏によると、多奈川分所に勤務していた十八年に一人のアメリカ兵捕虜の脱走事件が起きた。脱走しても逃げ通せない。日本人にみつかれば当時の状況からは殺されかねない。「何としても見つけ出さないと大変なことになる」 と、関係者を動員して捜索中、ある民家から 「食物をくれとアメリカ兵が立ち寄っている」 との通報を受け、やっと連れ戻した。規則に従って営倉《注》入りの処分を行った。
次の日、巡回して営倉前に行くと、日本軍の衛兵二、三人が彼を殴りつけている。峰本氏は「止めろ。そんなひどいことをしてはならない」 と制止するためその輪の中に入っていった。上官である彼の命令に他の兵士も手を引き、おさまった。ところが、戦後、他の捕虜の勘違いで峰本氏は他の兵士に指示していっしょに殴りつけたと証言。そのことば一つで捕虜虐待の罪でC級戦犯として懲役十年の刑を言い渡された。しかし途中、恩赦で二十六年一月には釈放された。
「英語が十分に理解できないし、無実を訴えてもどうしても通らなかった。こわい裁判だった。巣鴨プリズン収容されていた期間中、私の心は不安と憤りで身の細る思いだった」と述懐している。
注1 営倉=規律違反などに問われた軍人を収容する兵営内の施設
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戦犯裁判をうけた捕虜収容所の日本人たち・2
そのご、昭和五十九年 (一九八四) 秋、戦時中に多奈川分所に収容されていたアメリカ陸軍のブロードウォーター中尉 (ROBERT・J・BROADWATER) =元コカコーラ本社副社長=が「峰本さんは捕虜たちに親切な人だった あの人が戦犯になることは考えられない。あの裁判は誤りだった」との手紙を、私を介して峰本さんに送ってきた。私はさっそく峰本さんに連絡、手渡した。峰本さんは「私の無実を証明してくれて嬉しい。もっと早く証明されていれば戦犯の十字架を背負わなくてもよかったのだが…それにしてもブロードウオークーさんらとは一緒に町に買いものに行き、憲兵隊に叱られたこともあった。なつかしい人に無実を証明され、心から感謝している」と感激していたことを思い出す。
私と同じように多奈川の捕虜収容所で民間通訳をしていたT・Yさん(当時三十五歳ぐらい)は終戦直後にC級戦犯として裁かれ、巣鴨拘置所につながれたあと絞首刑を宣告され、刑死した一人だった。捕虜虐待が理由だった。
彼はイギリス生活が長く、太平洋戦争の開戦直後に帰国したが、もちろん英語はペラペラ。私のように下手な英語では足もとにも及ばない先輩だった。収容所では〝古参通訳″として、下士官以下の捕虜の所外にある軍需工場での強制労働現場を所管していた。恐らく彼らと同じように流暢《りゅうちょう》な英語が話せるため、スラングを使って冗談も思いっきり、いった反面、罵詈雑言(ばりぞうごん)も思いのままに浴びせ、一部の捕虜からは敬遠されていたようだった。現場の一部の日本人監督や管理者の厳しい注文や捕虜に対する行為も、難なくそのままの口調で通訳し、捕虜にしてみれば、通訳というより直接、監督する厳しく、恐い人として映っていたのかも知れない。収容所内で彼らと雑談していて、たまに遠慮がちにこういう者もおり、なかには暴力を云々‥・と訴えた者もいたことを、いまになって思い出す。しかし、いずれも私は目撃していないので真相は不明だ。
Tさんのための法廷に私自身が証人として出廷したことはなかったが、収容所時代の仲間の幾人かは、巣鴨拘置所で彼と会っている。いずれも「かつての元気さはなく、つねに何かを念じるような、恐いような表情だった」 といっていた。ただ、私自身、他の人の参考人として巣鴨を訪れた時、偶然、廊下でTさんに会ったことがある。その時はTさんも証人として来ているのかなあ、と思った。しかし、彼はアメリカ軍のMP (憲兵) に見守られての足早のすれ違いだったので、恐らくすでに判決が下っていたのか、審理の最中だったのか、いずれにしろ容疑者として収容されていた、と判断できた。そのすれ違いざまに私が 「元気ですか? ここに来ているとは知りませんでした」というと、彼も私に会ったことに驚いた風情だったが、無表情に「元気でやれよ」と私にやさしくことばをかけて通り過ぎた。彼とはそれっきり。この世の彼との最後の別れになるとは予想もしなかった。それにしても絞首刑というのだから、容疑をかけられた内容は相当厳しいものだったと予想できるが、彼が断罪された刑を受けるようなことを、あの収容所時代にしたのだろうか。収容所の内と外で職場が違っていたのでわからないが、まだ半信半疑だというのが私の今の本心だ。もし、私とTさんの持ち場が変わって、私が現場通訳であったら…と思うと運命のいたずらにゾツとする。
このほかに収容所時代のN軍属の捕虜殴打事件が戦後、C級戦犯容疑の対象となった。その軍属の法廷に証人として引っ張り出された私だったが、まったく知らないことだったので「彼が捕虜を殴ったという事実は知りません」とキッパリ断言した。何が原因で、誰が悪いために殴打事件に発展したのかわからないが、まったく関係のない人でも証人として出廷させたあの軍事法廷のあり方には、どうしても疑問を持たざるをえない。証人に立たせる前にもっと入念な下調べが確実に行われ、証人としてどうしても必要だと判断した時点で呼び出すべきだろう。
もっとも暴行の事実を知らないと断言した私のことばが、被告にとっては有利に取りあげられたのか、どうか、彼は無罪になったことを記憶している。同じ元の職場の同僚としてご同慶のいたりだった。
こんなこともあった。戦後、占領軍キャンプに通訳として勤めて間もないころだった。ある日、突然、アメリカのジープが私の家に横づけし、GHQ大阪分室の法務局所属の将校二人が私に会いたいと玄関に入ってきた。戦犯調査の検察側の将校だったが、私を確認すると、書類を差し出し「すぐサインして下さい」という。内容も読ませず、理由もいわずにサインの〝強制〃だった。誰かがある容疑で起訴され、私がそれに関係していたのか、どうか、何かの参考人としてサインをさせられたのではなかったのか? 「内容を読ませてくれ」といってもそれには答えず、「何のためのサインか」と尋ねてもいっさいノーコメント。「サンキュー」といって風のように去っていった。いま思えば、例え占領軍とはいえ〝問答無用″の態度は解(げ)しかねる。何が何だかわからないままの私の記したあのサインが、誰だかわからない被告の座に据えられた人の罪刑に影響を与えていたとしたら、本当に恐ろしい。そうでなかったことを今も願う気持ちでいっぱいだ。罪は罪として、公正に判断される証拠を確実に整え、公平正大な審理によって、ふさわしい罪状の指摘と適正な罪刑が課せられるべきだろう。
あのころのことを思うと、本当に矛盾《むじゅん》した渦中にあったと、つくづく考えさせられる。われわれ当時、捕虜収容所に〝職員″として勤務していた者は、時に日本人からも反感を抱かれ、時に交戦国の敵軍に対して個人的な戦意をグッと胸の中に抑えながらも、捕虜たちの安全を守るために心を痛めてきた、というのが偽りのない、一般的な心情だったと信じている。それが、終戦で主客《しゅかく》が入れ変わった途端、収容所に勤務していたという事実だけで、すべての人が捕虜虐待の疑いをかけられる、裁かれるーーー何とも不合理ではないか。身に覚えのない人たちにとっては、泣くに泣けない、腹立たしさを感じるのは当然だ。
いまふり返って、私の身近に起きた終戦後の、あのC級戦犯の裁き方には何かと納得できないことが、さまざまな形で浮かびあがってくる。すべてとはいわないが、勝者の意のままに敗者を裁いた事実の多いものだったと、いわざるを得ない。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」 このことばは、洋の古今東西を問わず通じる歴史の描く事実だと、つくづく思う私の体験だった。それにしても、この体験は〝敗戦″ の切なさをしみじみと感じさせるものだった。いまとなっては、敗者は惨めだし、勝者もあと味の芳《かんば》しくないことの多い戦後処理の一面だったように思われる。
私たち人間の社会に、二度とあんな悲惨なことがあってはならない。
そのご、昭和五十九年 (一九八四) 秋、戦時中に多奈川分所に収容されていたアメリカ陸軍のブロードウォーター中尉 (ROBERT・J・BROADWATER) =元コカコーラ本社副社長=が「峰本さんは捕虜たちに親切な人だった あの人が戦犯になることは考えられない。あの裁判は誤りだった」との手紙を、私を介して峰本さんに送ってきた。私はさっそく峰本さんに連絡、手渡した。峰本さんは「私の無実を証明してくれて嬉しい。もっと早く証明されていれば戦犯の十字架を背負わなくてもよかったのだが…それにしてもブロードウオークーさんらとは一緒に町に買いものに行き、憲兵隊に叱られたこともあった。なつかしい人に無実を証明され、心から感謝している」と感激していたことを思い出す。
私と同じように多奈川の捕虜収容所で民間通訳をしていたT・Yさん(当時三十五歳ぐらい)は終戦直後にC級戦犯として裁かれ、巣鴨拘置所につながれたあと絞首刑を宣告され、刑死した一人だった。捕虜虐待が理由だった。
彼はイギリス生活が長く、太平洋戦争の開戦直後に帰国したが、もちろん英語はペラペラ。私のように下手な英語では足もとにも及ばない先輩だった。収容所では〝古参通訳″として、下士官以下の捕虜の所外にある軍需工場での強制労働現場を所管していた。恐らく彼らと同じように流暢《りゅうちょう》な英語が話せるため、スラングを使って冗談も思いっきり、いった反面、罵詈雑言(ばりぞうごん)も思いのままに浴びせ、一部の捕虜からは敬遠されていたようだった。現場の一部の日本人監督や管理者の厳しい注文や捕虜に対する行為も、難なくそのままの口調で通訳し、捕虜にしてみれば、通訳というより直接、監督する厳しく、恐い人として映っていたのかも知れない。収容所内で彼らと雑談していて、たまに遠慮がちにこういう者もおり、なかには暴力を云々‥・と訴えた者もいたことを、いまになって思い出す。しかし、いずれも私は目撃していないので真相は不明だ。
Tさんのための法廷に私自身が証人として出廷したことはなかったが、収容所時代の仲間の幾人かは、巣鴨拘置所で彼と会っている。いずれも「かつての元気さはなく、つねに何かを念じるような、恐いような表情だった」 といっていた。ただ、私自身、他の人の参考人として巣鴨を訪れた時、偶然、廊下でTさんに会ったことがある。その時はTさんも証人として来ているのかなあ、と思った。しかし、彼はアメリカ軍のMP (憲兵) に見守られての足早のすれ違いだったので、恐らくすでに判決が下っていたのか、審理の最中だったのか、いずれにしろ容疑者として収容されていた、と判断できた。そのすれ違いざまに私が 「元気ですか? ここに来ているとは知りませんでした」というと、彼も私に会ったことに驚いた風情だったが、無表情に「元気でやれよ」と私にやさしくことばをかけて通り過ぎた。彼とはそれっきり。この世の彼との最後の別れになるとは予想もしなかった。それにしても絞首刑というのだから、容疑をかけられた内容は相当厳しいものだったと予想できるが、彼が断罪された刑を受けるようなことを、あの収容所時代にしたのだろうか。収容所の内と外で職場が違っていたのでわからないが、まだ半信半疑だというのが私の今の本心だ。もし、私とTさんの持ち場が変わって、私が現場通訳であったら…と思うと運命のいたずらにゾツとする。
このほかに収容所時代のN軍属の捕虜殴打事件が戦後、C級戦犯容疑の対象となった。その軍属の法廷に証人として引っ張り出された私だったが、まったく知らないことだったので「彼が捕虜を殴ったという事実は知りません」とキッパリ断言した。何が原因で、誰が悪いために殴打事件に発展したのかわからないが、まったく関係のない人でも証人として出廷させたあの軍事法廷のあり方には、どうしても疑問を持たざるをえない。証人に立たせる前にもっと入念な下調べが確実に行われ、証人としてどうしても必要だと判断した時点で呼び出すべきだろう。
もっとも暴行の事実を知らないと断言した私のことばが、被告にとっては有利に取りあげられたのか、どうか、彼は無罪になったことを記憶している。同じ元の職場の同僚としてご同慶のいたりだった。
こんなこともあった。戦後、占領軍キャンプに通訳として勤めて間もないころだった。ある日、突然、アメリカのジープが私の家に横づけし、GHQ大阪分室の法務局所属の将校二人が私に会いたいと玄関に入ってきた。戦犯調査の検察側の将校だったが、私を確認すると、書類を差し出し「すぐサインして下さい」という。内容も読ませず、理由もいわずにサインの〝強制〃だった。誰かがある容疑で起訴され、私がそれに関係していたのか、どうか、何かの参考人としてサインをさせられたのではなかったのか? 「内容を読ませてくれ」といってもそれには答えず、「何のためのサインか」と尋ねてもいっさいノーコメント。「サンキュー」といって風のように去っていった。いま思えば、例え占領軍とはいえ〝問答無用″の態度は解(げ)しかねる。何が何だかわからないままの私の記したあのサインが、誰だかわからない被告の座に据えられた人の罪刑に影響を与えていたとしたら、本当に恐ろしい。そうでなかったことを今も願う気持ちでいっぱいだ。罪は罪として、公正に判断される証拠を確実に整え、公平正大な審理によって、ふさわしい罪状の指摘と適正な罪刑が課せられるべきだろう。
あのころのことを思うと、本当に矛盾《むじゅん》した渦中にあったと、つくづく考えさせられる。われわれ当時、捕虜収容所に〝職員″として勤務していた者は、時に日本人からも反感を抱かれ、時に交戦国の敵軍に対して個人的な戦意をグッと胸の中に抑えながらも、捕虜たちの安全を守るために心を痛めてきた、というのが偽りのない、一般的な心情だったと信じている。それが、終戦で主客《しゅかく》が入れ変わった途端、収容所に勤務していたという事実だけで、すべての人が捕虜虐待の疑いをかけられる、裁かれるーーー何とも不合理ではないか。身に覚えのない人たちにとっては、泣くに泣けない、腹立たしさを感じるのは当然だ。
いまふり返って、私の身近に起きた終戦後の、あのC級戦犯の裁き方には何かと納得できないことが、さまざまな形で浮かびあがってくる。すべてとはいわないが、勝者の意のままに敗者を裁いた事実の多いものだったと、いわざるを得ない。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」 このことばは、洋の古今東西を問わず通じる歴史の描く事実だと、つくづく思う私の体験だった。それにしても、この体験は〝敗戦″ の切なさをしみじみと感じさせるものだった。いまとなっては、敗者は惨めだし、勝者もあと味の芳《かんば》しくないことの多い戦後処理の一面だったように思われる。
私たち人間の社会に、二度とあんな悲惨なことがあってはならない。
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考えさせられる〝捕虜の扱い〟彼我《=あちらとこちら》の収容所を比較して
〝戦争犯罪者〃の汚名をきせられ、悶々(もんもん)の日を送ってきた峰本善成さん(前出)もいうように「戦争裁判は私の体験から勝者の論理で進められる」。同時に、戦時中の捕虜も敵という優位に立つものの管理下に置かれ、当然のようにきびしい制約が課せられるのは、彼我ともに同じだろう。
多奈川や生野の捕虜収容所で日本軍の管理の下で捕虜生活を送ったアメリカ、イギリス、オーストラリアの各将兵もきびしい日本軍の制約下にあったことは否定できない。しかし、これは日本軍の捕虜になった者ばかりではない。太平洋戦争中にアメリカ軍の捕虜になった日本軍将兵の多くも同じような体験を味わったようだ。
日系二世で、戦時中にアメリカ本土のマッコイ、ケネディ両日本兵捕虜収容所に野戦将校として勤務した平出勝利(ひらいで・しようり)氏が「聞き書日本人捕虜」(吹浦忠正著)で述ベているのをみても、そのことが想像できる。以下、同書を抜粋してそれらを眺めてみよう。
それによると、平出氏はマッコイ収容所で日本軍捕虜を担当する通訳だった当時、態度に問題のあった海軍兵曹が一人いたそうだ。おそらく平出氏を日本人だと思ってなれなれしくしたのだと前置きして「何かのときに〝そんなバカな″とその兵曹がいった。外国では〝バカ″ということばはよほどのときしか使わない。私はあとで日本で暮らすようになって知ったことだが〝バカ〃と日本では何気なく使う。だが外国で〝バカ″といったらもうけんかです」。
そして「私は怒ったね(笑)。営倉に彼を送った。三日ぐらいだったが〝バカな″といわれたことを司令官に話したら〝そいつはケシカラン″と営倉行きになった。司令官のロジャー中佐と営倉に行って〝お前は何でここに入れられたか知ってるか″ときいたら、〝バカという言葉を使ったからです〟と素直に答えた。私もいささか大人気ないことをしたと思っている」と述べている。
さらにつづけて「言葉の問題はそんなに難しいということを若い人に知ってもらいたい。しかしそれ以前にもその兵曹は態度が大きくいやな奴と思っていた。今なら笑い話みたいな部分もあるが、それ以前の態度のこともあったからね。横柄《おうへい》でなかったら〝バカな〟といわれても、恐らく私にだって本心はわかっていただろう」と当時をふり返っている。
つまり、管理監督する立場のアメリカ軍側に立つ個人の主観的な意思一つで、日本軍捕虜は態度にいささか問題があったという前提つきで「営倉」行きという処罰を受けている。捕虜と戦犯について考える時、その扱い、対応、考え方は、それぞれの国の文化、教育、おかれている環境などの違いから程度の差はあっても、所詮は勝者と敗者の主客が入れ変わっただけの同じ結果になるのではなかろうか。
同じ著書のなかで平出氏はさらにいう。ケネディの日本人捕虜収容所当時のことを回顧して「松井少佐という、当時六十一、二歳のヨボヨボの人がいた。多少、耄碌(もうろく)したような感じで…帰国の少し前に司令官のテーラー大尉が収容所の事務所に連れて行き、いろいろといじめるみたいにやったことがある。通訳していたが、なぜこの大尉がいじめるのか理解できず、とても可哀そうだった」。
また、同収容所内のできごとについて次のようにもいっている。「梶島栄雄(よしお)海軍大尉が営倉入りした。頭のいい男で戦後は機械関係会社の社長をしていたが、英語もうまかった。 だから通訳なしで営倉に入れられちゃった」。
これについて梶島氏も同書の中でいっている。「ミッドウェー海戦の時、乗艦が沈みやむなく捕らえられた。ケネディ収容所で一週間ぐらい営倉に入れられた。米軍に反抗したり、器物を破壊したりといった、米軍刑法に違反したわけじゃない。(〝それではなぜ?″の問いに長い時間をおいて)キャンプ内でディクティターシップ(専制)を発揮したという理由で入れられた。
反論はしなかったが、はなはだ不納得だった。営倉にはいろんな人が入れられた。酒巻和男(太平洋戦開戦時、真珠湾の特潜攻撃で捕虜第一号となった元海軍少尉)も豊田穣(直木賞作家で、戦時中ソロモン周辺で捕虜となった、酒巻氏と海兵同期の元海軍中尉)も経験している」。
その豊田氏の弁を、同書は「マッコイとケネディ」という豊田氏の著書を引用して「全鋼鉄製の営倉の第一夜は、自殺を防ぐためベルトをはずされ、全裸にされる。これは寒さと共に心理的にもこたえた。夜、鉄板だけのベッドに寝ていると話に聞いたサソリが活動し始めた。尻のあたりがモゾモゾしたかと思うとピシリと刺す。指でつまんで鉄板にすりつぶす。寝ていると次々に刺されるので、止むを得ず立っている。いい恰好ではない」と紹介している。
もっとも、捕虜として好過された面もあった。平出氏が同じ書の中で次のようにいっている。「広大なマッコイ(捕虜収容所)での捕虜の待遇は〝拘束された賓客″といってよく、日本食で私たち米軍人のそれより豪華。よく私たち二世は捕虜の食堂にごちそうになりに行ったものだ。ビールやタバコも支給され、他の国での捕虜の待遇にくらべ信じられないほどだった」。
同じアメリカ国内の捕虜収容所でも場所が違うと捕虜への対応も百八十度、変わったことがよくわかる。平出氏の回顧はつづく。 「ケネディ(捕虜収容所)ではガラリと変わり、米軍当局は彼らに厳しく接した。少しでも規律違反があると、容赦なく冷たい監獄に全裸で入れた」いずれも昭和六十一年九月十八日付・朝日新聞掲載「戦争」から抜粋)。
戦時中、海軍特攻機の機長として第五次ブーゲンビル《注1》沖航空戦中に被弾して着水、漂流中にアメリカ軍に捕らえられた横山一吉・飛曹長がその著「忘れ得ぬ人々」で披露している一文が、吹浦氏の書いた「聞き書 日本人捕虜」で次のように紹介されている。「(ケネディ捕虜収容所は) マッコイにくらべ食事の質も落ち、酒保《しゅほ=注2》もなく、タバコは配給制になった。点呼、服装検査も厳しく、PWマークが消えかかった服を着ていたり、ペティナイフの所持も凶器とみなされて、即座にサソリの出る独房へ入れられた。酒巻少尉、豊田中尉、はては(精神に障害を来たしている)相宗中佐まで些細《ささい》なことを理由に、一週間以上の独房生活を送った。一片のパンと水しか与えられず、蒸し風呂のような暑さに衰弱して、よろけるような足取りで出所してきた」。
横山氏の一文は「ケネディの収容所長は長身のテーラー大尉で、有色人種に強い優越感を持っていた。そのうえ、米軍捕虜を日本軍が虐待したり、処刑している等の情報が入っていたので、その仇討ちをしてやる位の気でいるようだった」ともいっている。
豊田氏も、テーラー大尉について「聞き書…」の中で「彼は、通訳の二世から聞いた話では、真珠湾攻撃のとき少佐で、守備隊の大隊長だったが、土曜の夜、市内(中略)…にいて駆けつけた時には攻撃が終っていた。彼は大尉に降格され、酒巻がケネディに着くと、その場から営倉に直行させ、三週間投獄した。その後も酒巻は度々、投獄されていた」(「マッコイとケネディ」 より) といっている。
このように、捕虜への対応は私の捕虜収容所の勤務時代の見聞もふくめて、彼我をとわず、それぞれの管理下で、ある時は収容所の建設場所により、ある場合は管理する側の個人意思により、差があったことがうかがえる。そこにはジュネーブ条約(捕虜条約)に従った措置がとられた反面、人道上、疑問をもたれるような厳しい規制があったことが、容易に推測されよう。
捕虜と、それを監視・管理する立場とでは、その時点における「敗者」「弱者」と「勝者」「強者」の論理が優先し、お互いに対決する。それは当然、勝敗を明らかにした戦争終結で行われる「戦争犯罪」という名の一斉摘発、そして断罪へとつづく。そこには敗者を無視した〝最終勝者のシナリオ〟が、正邪善悪を越えた場で終始つきまとう。あまりにも悲しく、惨めな人類社会の、この進歩なき史実は、いつになったらピリオドを打つのだろうか。
人類社会の底流に潜む戦争理論は、その昔から変わることのない「勝てば官軍」「力は正義」。戦勝国に、捕虜虐待の理由で〝戦犯処断″された捕虜収容所関係者がいるのを聞いたことがない。敗戦国・日本のこの種理由による戦犯者を例にみても勝った国の力が正義の名の下に〝正当化〃されている、と指摘されても仕方のない現実が横たわっている。歴史はこの悲劇の上に次々とつくられてきたと、つくづく痛感させられる。
注1 ブーゲンビル=パプアニューギニア独立国のソロモン諸島の北部に位置する。
注2 酒保=酒を売る人の意から~兵営内や軍艦内で、日用品・飲食物などを扱う売店
〝戦争犯罪者〃の汚名をきせられ、悶々(もんもん)の日を送ってきた峰本善成さん(前出)もいうように「戦争裁判は私の体験から勝者の論理で進められる」。同時に、戦時中の捕虜も敵という優位に立つものの管理下に置かれ、当然のようにきびしい制約が課せられるのは、彼我ともに同じだろう。
多奈川や生野の捕虜収容所で日本軍の管理の下で捕虜生活を送ったアメリカ、イギリス、オーストラリアの各将兵もきびしい日本軍の制約下にあったことは否定できない。しかし、これは日本軍の捕虜になった者ばかりではない。太平洋戦争中にアメリカ軍の捕虜になった日本軍将兵の多くも同じような体験を味わったようだ。
日系二世で、戦時中にアメリカ本土のマッコイ、ケネディ両日本兵捕虜収容所に野戦将校として勤務した平出勝利(ひらいで・しようり)氏が「聞き書日本人捕虜」(吹浦忠正著)で述ベているのをみても、そのことが想像できる。以下、同書を抜粋してそれらを眺めてみよう。
それによると、平出氏はマッコイ収容所で日本軍捕虜を担当する通訳だった当時、態度に問題のあった海軍兵曹が一人いたそうだ。おそらく平出氏を日本人だと思ってなれなれしくしたのだと前置きして「何かのときに〝そんなバカな″とその兵曹がいった。外国では〝バカ″ということばはよほどのときしか使わない。私はあとで日本で暮らすようになって知ったことだが〝バカ〃と日本では何気なく使う。だが外国で〝バカ″といったらもうけんかです」。
そして「私は怒ったね(笑)。営倉に彼を送った。三日ぐらいだったが〝バカな″といわれたことを司令官に話したら〝そいつはケシカラン″と営倉行きになった。司令官のロジャー中佐と営倉に行って〝お前は何でここに入れられたか知ってるか″ときいたら、〝バカという言葉を使ったからです〟と素直に答えた。私もいささか大人気ないことをしたと思っている」と述べている。
さらにつづけて「言葉の問題はそんなに難しいということを若い人に知ってもらいたい。しかしそれ以前にもその兵曹は態度が大きくいやな奴と思っていた。今なら笑い話みたいな部分もあるが、それ以前の態度のこともあったからね。横柄《おうへい》でなかったら〝バカな〟といわれても、恐らく私にだって本心はわかっていただろう」と当時をふり返っている。
つまり、管理監督する立場のアメリカ軍側に立つ個人の主観的な意思一つで、日本軍捕虜は態度にいささか問題があったという前提つきで「営倉」行きという処罰を受けている。捕虜と戦犯について考える時、その扱い、対応、考え方は、それぞれの国の文化、教育、おかれている環境などの違いから程度の差はあっても、所詮は勝者と敗者の主客が入れ変わっただけの同じ結果になるのではなかろうか。
同じ著書のなかで平出氏はさらにいう。ケネディの日本人捕虜収容所当時のことを回顧して「松井少佐という、当時六十一、二歳のヨボヨボの人がいた。多少、耄碌(もうろく)したような感じで…帰国の少し前に司令官のテーラー大尉が収容所の事務所に連れて行き、いろいろといじめるみたいにやったことがある。通訳していたが、なぜこの大尉がいじめるのか理解できず、とても可哀そうだった」。
また、同収容所内のできごとについて次のようにもいっている。「梶島栄雄(よしお)海軍大尉が営倉入りした。頭のいい男で戦後は機械関係会社の社長をしていたが、英語もうまかった。 だから通訳なしで営倉に入れられちゃった」。
これについて梶島氏も同書の中でいっている。「ミッドウェー海戦の時、乗艦が沈みやむなく捕らえられた。ケネディ収容所で一週間ぐらい営倉に入れられた。米軍に反抗したり、器物を破壊したりといった、米軍刑法に違反したわけじゃない。(〝それではなぜ?″の問いに長い時間をおいて)キャンプ内でディクティターシップ(専制)を発揮したという理由で入れられた。
反論はしなかったが、はなはだ不納得だった。営倉にはいろんな人が入れられた。酒巻和男(太平洋戦開戦時、真珠湾の特潜攻撃で捕虜第一号となった元海軍少尉)も豊田穣(直木賞作家で、戦時中ソロモン周辺で捕虜となった、酒巻氏と海兵同期の元海軍中尉)も経験している」。
その豊田氏の弁を、同書は「マッコイとケネディ」という豊田氏の著書を引用して「全鋼鉄製の営倉の第一夜は、自殺を防ぐためベルトをはずされ、全裸にされる。これは寒さと共に心理的にもこたえた。夜、鉄板だけのベッドに寝ていると話に聞いたサソリが活動し始めた。尻のあたりがモゾモゾしたかと思うとピシリと刺す。指でつまんで鉄板にすりつぶす。寝ていると次々に刺されるので、止むを得ず立っている。いい恰好ではない」と紹介している。
もっとも、捕虜として好過された面もあった。平出氏が同じ書の中で次のようにいっている。「広大なマッコイ(捕虜収容所)での捕虜の待遇は〝拘束された賓客″といってよく、日本食で私たち米軍人のそれより豪華。よく私たち二世は捕虜の食堂にごちそうになりに行ったものだ。ビールやタバコも支給され、他の国での捕虜の待遇にくらべ信じられないほどだった」。
同じアメリカ国内の捕虜収容所でも場所が違うと捕虜への対応も百八十度、変わったことがよくわかる。平出氏の回顧はつづく。 「ケネディ(捕虜収容所)ではガラリと変わり、米軍当局は彼らに厳しく接した。少しでも規律違反があると、容赦なく冷たい監獄に全裸で入れた」いずれも昭和六十一年九月十八日付・朝日新聞掲載「戦争」から抜粋)。
戦時中、海軍特攻機の機長として第五次ブーゲンビル《注1》沖航空戦中に被弾して着水、漂流中にアメリカ軍に捕らえられた横山一吉・飛曹長がその著「忘れ得ぬ人々」で披露している一文が、吹浦氏の書いた「聞き書 日本人捕虜」で次のように紹介されている。「(ケネディ捕虜収容所は) マッコイにくらべ食事の質も落ち、酒保《しゅほ=注2》もなく、タバコは配給制になった。点呼、服装検査も厳しく、PWマークが消えかかった服を着ていたり、ペティナイフの所持も凶器とみなされて、即座にサソリの出る独房へ入れられた。酒巻少尉、豊田中尉、はては(精神に障害を来たしている)相宗中佐まで些細《ささい》なことを理由に、一週間以上の独房生活を送った。一片のパンと水しか与えられず、蒸し風呂のような暑さに衰弱して、よろけるような足取りで出所してきた」。
横山氏の一文は「ケネディの収容所長は長身のテーラー大尉で、有色人種に強い優越感を持っていた。そのうえ、米軍捕虜を日本軍が虐待したり、処刑している等の情報が入っていたので、その仇討ちをしてやる位の気でいるようだった」ともいっている。
豊田氏も、テーラー大尉について「聞き書…」の中で「彼は、通訳の二世から聞いた話では、真珠湾攻撃のとき少佐で、守備隊の大隊長だったが、土曜の夜、市内(中略)…にいて駆けつけた時には攻撃が終っていた。彼は大尉に降格され、酒巻がケネディに着くと、その場から営倉に直行させ、三週間投獄した。その後も酒巻は度々、投獄されていた」(「マッコイとケネディ」 より) といっている。
このように、捕虜への対応は私の捕虜収容所の勤務時代の見聞もふくめて、彼我をとわず、それぞれの管理下で、ある時は収容所の建設場所により、ある場合は管理する側の個人意思により、差があったことがうかがえる。そこにはジュネーブ条約(捕虜条約)に従った措置がとられた反面、人道上、疑問をもたれるような厳しい規制があったことが、容易に推測されよう。
捕虜と、それを監視・管理する立場とでは、その時点における「敗者」「弱者」と「勝者」「強者」の論理が優先し、お互いに対決する。それは当然、勝敗を明らかにした戦争終結で行われる「戦争犯罪」という名の一斉摘発、そして断罪へとつづく。そこには敗者を無視した〝最終勝者のシナリオ〟が、正邪善悪を越えた場で終始つきまとう。あまりにも悲しく、惨めな人類社会の、この進歩なき史実は、いつになったらピリオドを打つのだろうか。
人類社会の底流に潜む戦争理論は、その昔から変わることのない「勝てば官軍」「力は正義」。戦勝国に、捕虜虐待の理由で〝戦犯処断″された捕虜収容所関係者がいるのを聞いたことがない。敗戦国・日本のこの種理由による戦犯者を例にみても勝った国の力が正義の名の下に〝正当化〃されている、と指摘されても仕方のない現実が横たわっている。歴史はこの悲劇の上に次々とつくられてきたと、つくづく痛感させられる。
注1 ブーゲンビル=パプアニューギニア独立国のソロモン諸島の北部に位置する。
注2 酒保=酒を売る人の意から~兵営内や軍艦内で、日用品・飲食物などを扱う売店
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娘が語る恩情の父・収容所長・1
敵方からも畏敬《いけい》の念で慕われていた倉西泰次郎・中尉。肉身にはどう映っていたのだろう。
いまは、その父も母も他界し、唯一人残された忘れ片身の一人っ娘(こ)、新井ミネ子さん(四九)=大阪市西区南堀江=の思い出す父の像は終戦の年に小学校一年だったミネ子さんは昭和十三年(一九三八)生れ。父親が捕虜収容所長だったころはやっとものごころがつき始めた時だったので、確かな記憶が少ない。それでも
戦後、二十数年間の存命中は成長した娘の眼で見つづけてきた。
「父はもともと学校の教師だったせいか、人の道を誤らないようにつねに自分自身にいい聞かせていたと思います。ひと口に言って聖職者でした」でも、それを他人に強制するというのではなく、言外に教え、自然な形で相手に正しい道を歩ませるという風に見えた。
ミネ子さんの小さいころ、戦時中、旧制堺中学(現三国丘高校) で英語の教師をしていた当時、家ではよく絵本を読んでくれた。 童謡歌も(上手だったとはいえないが) 口ずさんでくれた。いつも物静かな態度で、口うるさいことは何もいわなかった。兵隊に召集されてからもこの調子は変わらなかった。「ただ軍服姿になってからの父は、こども心にも凛々(りり)しく感じました。外出して歩く時など、寄りつけないと思ったこともありましたから…」朝、家を出る時、夕方、家に帰った時、天気のよい日に朝陽、夕陽で腰の軍刀がキラリと輝き、何ともまぶしく感じた印象は忘れることができない。
母・緑さん(故人)と〝夫婦げんか〟らしいことのあった印象も残っていない。「だが、英語以外に柔道の有段者でもあり、背も人並み以上、かっぶくがよく外見は堂々としていました。きちょう面で、外見だけではそんなに静かでやさしい人には見えませんでした」典型的に〝自分に厳しい〟教育者だったのだろう。《私(小林)自身も、〝倉西先生″〝倉西中尉″時代を通じて、大声で叱られた覚えがなく、そうかといって繊細な心づかいで、聖職者〝教師″の立場らしくそれとなく誤りを自覚し、悟れるような指導、つねに相手の立場を配慮した気くぼりの人だったと思う》
捕虜収容所長時代には、ときどきミネ子さんも父に連れられて収容所に遊びに行った。広い庭(収容所の広場か)で寝そべって読書したり、雑談などをしていた捕虜が、彼女を見つけて手招きし、肩ぐるまにしたり、抱いて遊んでくれたことを覚えている。《昼間は、一般兵士の捕虜は労働のため所外に出ていたので、所内には将校や炊事担当者の捕虜しかいなかった。恐らくミネ子さんと遊んでくれたのは将校連中だったのだろう》
「いまでもハッキリしているのは、最初に彼らに合った一時、何と大きな男だなあと感じたことです。日本人は一般に小さく、父が割りと大きい方だったとはいえ、比べものにならないくらい彼らを大きく感じました」そんな大きな彼らに抱かれたり、肩ぐるまをしてもらった彼女も、最初は多少、こども心に恐いと思ったが、慣れるにつれ、〝やさしい巨人〟だとわかり、親しみがわいてきた。あのころの彼女は和服を着ていたので、洋服とは違う異文化姿に彼らなりの興味もあったのだろうか。収容所長の娘ということで、余計に可愛がってくれたのだろうか。とにかく、彼ら捕虜に対し、悪いイメージは残っていない。
敵方からも畏敬《いけい》の念で慕われていた倉西泰次郎・中尉。肉身にはどう映っていたのだろう。
いまは、その父も母も他界し、唯一人残された忘れ片身の一人っ娘(こ)、新井ミネ子さん(四九)=大阪市西区南堀江=の思い出す父の像は終戦の年に小学校一年だったミネ子さんは昭和十三年(一九三八)生れ。父親が捕虜収容所長だったころはやっとものごころがつき始めた時だったので、確かな記憶が少ない。それでも
戦後、二十数年間の存命中は成長した娘の眼で見つづけてきた。
「父はもともと学校の教師だったせいか、人の道を誤らないようにつねに自分自身にいい聞かせていたと思います。ひと口に言って聖職者でした」でも、それを他人に強制するというのではなく、言外に教え、自然な形で相手に正しい道を歩ませるという風に見えた。
ミネ子さんの小さいころ、戦時中、旧制堺中学(現三国丘高校) で英語の教師をしていた当時、家ではよく絵本を読んでくれた。 童謡歌も(上手だったとはいえないが) 口ずさんでくれた。いつも物静かな態度で、口うるさいことは何もいわなかった。兵隊に召集されてからもこの調子は変わらなかった。「ただ軍服姿になってからの父は、こども心にも凛々(りり)しく感じました。外出して歩く時など、寄りつけないと思ったこともありましたから…」朝、家を出る時、夕方、家に帰った時、天気のよい日に朝陽、夕陽で腰の軍刀がキラリと輝き、何ともまぶしく感じた印象は忘れることができない。
母・緑さん(故人)と〝夫婦げんか〟らしいことのあった印象も残っていない。「だが、英語以外に柔道の有段者でもあり、背も人並み以上、かっぶくがよく外見は堂々としていました。きちょう面で、外見だけではそんなに静かでやさしい人には見えませんでした」典型的に〝自分に厳しい〟教育者だったのだろう。《私(小林)自身も、〝倉西先生″〝倉西中尉″時代を通じて、大声で叱られた覚えがなく、そうかといって繊細な心づかいで、聖職者〝教師″の立場らしくそれとなく誤りを自覚し、悟れるような指導、つねに相手の立場を配慮した気くぼりの人だったと思う》
捕虜収容所長時代には、ときどきミネ子さんも父に連れられて収容所に遊びに行った。広い庭(収容所の広場か)で寝そべって読書したり、雑談などをしていた捕虜が、彼女を見つけて手招きし、肩ぐるまにしたり、抱いて遊んでくれたことを覚えている。《昼間は、一般兵士の捕虜は労働のため所外に出ていたので、所内には将校や炊事担当者の捕虜しかいなかった。恐らくミネ子さんと遊んでくれたのは将校連中だったのだろう》
「いまでもハッキリしているのは、最初に彼らに合った一時、何と大きな男だなあと感じたことです。日本人は一般に小さく、父が割りと大きい方だったとはいえ、比べものにならないくらい彼らを大きく感じました」そんな大きな彼らに抱かれたり、肩ぐるまをしてもらった彼女も、最初は多少、こども心に恐いと思ったが、慣れるにつれ、〝やさしい巨人〟だとわかり、親しみがわいてきた。あのころの彼女は和服を着ていたので、洋服とは違う異文化姿に彼らなりの興味もあったのだろうか。収容所長の娘ということで、余計に可愛がってくれたのだろうか。とにかく、彼ら捕虜に対し、悪いイメージは残っていない。
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娘が語る恩情の父・収容所長・2
家で母と話している父のことばの中に、〝ブロードウオーター〃とか〃ガルブレイス″とかの英語がたびたび出てきたのを記憶している。「あのころの私には何のことかわかりませんでしたが、よく出てきたことばなので自然に覚えた気がします。いまから思えば、収容所でお互いによく話し合った捕虜だったので、家に帰ってその話題を話していたのかもしれません」《倉西中尉は専門が英語だっただけに、通訳抜きで直接、必要な日常会話を捕虜と交わすことができた。ブロードウオーターさんやガルブレイスさんらとは、私(小林)もとくに親密だったが、倉西中尉も〝話せる友〃として節度あるつき合いがあったようだ》終戦の二十年(一九四五)十二月初め頃だったと思う。倉西中尉はGHQ(占領軍総司令部)の呼び出しを受け、そのまま巣鴨拘置所にC級戦犯の容疑で収監された。逃亡捕虜を虐待した責任者としての疑いだった。「いま思うと、陸軍中尉、捕虜収容所長という立場にいた父だから、身に覚えはなくても、当然その責任を追及されると考えていたのか、呼び出しがあっても、あわてる気配もなく、ごく普通に巣鴨へ行ったようでした。母とも落ち着いた態度で話をしていました」こども心に見た終戦後、間もないころの父は、まだ日本軍人としての凛々《りり》しさの残った人に映っていたのは確かだ。まして私にとって、あのやさしく抱きあげ、遊んでくれたアメリカ兵に日本が負けたとは思うはずもなかった。戦犯が何かということもわからないミネ子さん。勝った連合国軍側の強制収監命令で上京する意味さえわからなかったのは当然だった。
父が普段と変わらず、落ち着いた態度だったので、余計にそう思い、何かの用事で遠いところへ行くくらいの軽い気持ちでその出発を見送ったという。
そのご父は年末はもちろん正月にも帰ってこなかった。母に聞いても「軍の用事で長びいている」というだけだった。しかし年も明けたころから母の顔も淋しさがただよい始めてきた。
このころから、父に何かあったという気がおぼろげながらしてきた。たしか年が明けた二月終わりか三月始めごろだったと思う。母といっしょに巣鴨拘置所へ父との面会に行ったことがあった。復員列車(内外地に出征していた日本軍兵士が武装解除されたあと、解散してそれぞれ帰郷するために乗った特別列車) に乗って大阪駅から東京駅まで行ったが、終戦間もないころとあって、列車の窓はこわれてなかったり、薄い板が打ちつけてあったり、おまけに復員兵で超満員、座席に座ることもできず、トンネルに入ると燃料の石炭から出る黒いススが車内にいっぱい入ってきて、手も足も顔真っ黒になった。鼻の穴はもちろん真っ黒、そんな列車に八-九時間揺られ、立ち寝をしたり、人の寝ている足や体を枕に寝込み、東京駅に着いた時にはすっかり疲れ果てていた。それでも母の声に元気づけられ、タクシーもない焼け野原の東京の町を人力車に乗って拘置所にたどり着いた時には、もうへトヘトのありさまだった。入り口で立番しているMP(アメリカ軍憲兵)が私の黒い顔を見て大笑いしながら、しかしそれが愛矯となってプラスしたのか、難なく中に入れてくれた。
拘置所内の面会所で待っていると金網の向こうにMPに連れられた男があらわれた。よく見るとそれが父だった。金網越しに私たちの方へやってきた。母は声もなく、じ一つと父を見つめ「お元気ですね」とだけいったが、私は「汽車に煙が入り真っ黒。疲れてしまい、元気あらへん」といって笑ったことを思い出す。その姿がひょうきんに見えたのか、一瞬父も笑ったようだったが、あとは母とことばを交わし、時折り私の方にも語りかけ「お母さんのいうことをよく聞いて待っていなさい」などと、例の落ち着いた口調でいったのを覚えている。十分ぐらい経っただろうか。あのMPがやってきて、父の背中をつつき、連れていった。父は「元気で…心配はいらん」といいたげな表情で母と私を見つめながら消えていった。「お父さんは何も悪いことはしていないけど、責任者だったので事情を聞かれている。がまんして待っていましょぅね」母のことばから、私はこの時、始めて〝戦犯″ということばと、その意味を知らされ、何か恐ろしいことが父の身の上に起きているということを、おぼろげながら悟ったようだった。
「たったあれだけの短い時間、父に会うために、長く辛い思いをして列車に揺られ、東京まで出てきたと思うと、久しぶりに父に会った喜びよりも先に腹が立ちました。こどものころだったのでそんな甘えがあったのでしょうね」とミネ子さんはふり返っている。「あとになって母が私にいいました。あの時はもうお父さんに会うのは最後になるのではという思いの面会だったそうです。だから〝武人″〝教師″の妻らしく決して涙を見せるべきではない。人の範になるような〝大和撫子″(やまとなでしこ。か弱いながらも、凛々しさのある日本女性の美称)としての態度で父を見送ろうと、決意の面会をしたそうです。この話を聞いた時には、母もあの時代に育ったすばらしい女性だったと、つくづく見直すほどでした。父も母も、私には本当にすばらしい、すてきな、誇ることのできる親だったと、自信をもっていえます」いまは亡き両親を思い出すミネ子さんのことばには、力がこもり、表情も明るかった。
倉西さんは、捕虜だった人々の証言や友情の嘆願書が相次いでGHQに寄せられ、起訴されることなく、捕虜虐待という無実の容疑も晴れて釈放され、拘置所生活半年で、その年の五月末に帰宅した。
私(小林)も〝倉西中尉″の無実を証明するため、収容所時代の捕虜の友などに積極的な働きかけをしたことを思い出す。その甲斐があった。本当によかった。「父はもともと罪状を課せられるようなことをしていなかったと信じていましたが、小林さんはもちろん、関係者のみなさま方の献身的な奔走《ほんそう》で起訴もされなかったことをとっても感謝していました。
母も心から喜び、ともどもお礼のいいようもないと、よくいっていました」娘としてミネ子さんの喜びもひとしおだったに違いない。
捕虜収容所時代の友だったロバート・J・ブロードウォーターさん (ROBERT・J・B
ROADWATER) が昭和二十四年 (一九四九) 七月末に突然、堺市南田出井町にあったミネ子さんの実家を訪問した記憶は鮮やかに残っている。あの時、父・泰次郎さんは旧職に復帰し、学校で教鞭をとっていたので不在だった。母、緑さんとミネ子の二人だけが会った。「ブロードウォーターさんは日本語まじりで私らにわかるように、いろいろと懐しい話をされ、後日、私ら家族ともう一度会う約束をして帰られました」 というミネ子さん。父を心から尊敬していたというブロードウオーターさんはすでにコカコーラに勤務し、将来を嘱望される若きエースとして日本とアメリカ間を往復する多忙な身だった。その合い間を縫っての訪問だった、そして約束通り、数日後に神戸オリエンタル・ホテルでミネ子さん一家と彼が会い、食事をともにしながら団らんのひとときを過ごした。彼はコカコーラの神戸営業所を視察するためにやってきたということだった。
ミネ子さんの両親への思い出は尽きないが、次のようなことばで結んでくれた。「もちろん、捕虜収容所時代にどんなことがあったのか、私にはまったくわかりませんが、あとになっていろいろな日米の関係者から聞くと、一様に〝情厚い人間″〝冷静だった人〟という父の印象がはね返ってきました。家庭にあっても外にあっても、終始変わることがなかったんだなあと、父の態度に尊敬の念さえわきました。その父を信じ、温く家庭を守った母とはとっても似合いの静かな夫婦だったと思います。ともにいまはいませんが、内からも外からも同じように見られた父と母は、本当に幸福だったと思います」いま天国で静かに眠るご夫婦のご冥福を心からお祈りする。
ミネ子さんは昭和三十七年(一九六二) に家具商を経営する夫・生夫さんと結婚、一男一女(ともに成人)をもうけ、両親の思い出を胸に、幸福に暮らしている。
家で母と話している父のことばの中に、〝ブロードウオーター〃とか〃ガルブレイス″とかの英語がたびたび出てきたのを記憶している。「あのころの私には何のことかわかりませんでしたが、よく出てきたことばなので自然に覚えた気がします。いまから思えば、収容所でお互いによく話し合った捕虜だったので、家に帰ってその話題を話していたのかもしれません」《倉西中尉は専門が英語だっただけに、通訳抜きで直接、必要な日常会話を捕虜と交わすことができた。ブロードウオーターさんやガルブレイスさんらとは、私(小林)もとくに親密だったが、倉西中尉も〝話せる友〃として節度あるつき合いがあったようだ》終戦の二十年(一九四五)十二月初め頃だったと思う。倉西中尉はGHQ(占領軍総司令部)の呼び出しを受け、そのまま巣鴨拘置所にC級戦犯の容疑で収監された。逃亡捕虜を虐待した責任者としての疑いだった。「いま思うと、陸軍中尉、捕虜収容所長という立場にいた父だから、身に覚えはなくても、当然その責任を追及されると考えていたのか、呼び出しがあっても、あわてる気配もなく、ごく普通に巣鴨へ行ったようでした。母とも落ち着いた態度で話をしていました」こども心に見た終戦後、間もないころの父は、まだ日本軍人としての凛々《りり》しさの残った人に映っていたのは確かだ。まして私にとって、あのやさしく抱きあげ、遊んでくれたアメリカ兵に日本が負けたとは思うはずもなかった。戦犯が何かということもわからないミネ子さん。勝った連合国軍側の強制収監命令で上京する意味さえわからなかったのは当然だった。
父が普段と変わらず、落ち着いた態度だったので、余計にそう思い、何かの用事で遠いところへ行くくらいの軽い気持ちでその出発を見送ったという。
そのご父は年末はもちろん正月にも帰ってこなかった。母に聞いても「軍の用事で長びいている」というだけだった。しかし年も明けたころから母の顔も淋しさがただよい始めてきた。
このころから、父に何かあったという気がおぼろげながらしてきた。たしか年が明けた二月終わりか三月始めごろだったと思う。母といっしょに巣鴨拘置所へ父との面会に行ったことがあった。復員列車(内外地に出征していた日本軍兵士が武装解除されたあと、解散してそれぞれ帰郷するために乗った特別列車) に乗って大阪駅から東京駅まで行ったが、終戦間もないころとあって、列車の窓はこわれてなかったり、薄い板が打ちつけてあったり、おまけに復員兵で超満員、座席に座ることもできず、トンネルに入ると燃料の石炭から出る黒いススが車内にいっぱい入ってきて、手も足も顔真っ黒になった。鼻の穴はもちろん真っ黒、そんな列車に八-九時間揺られ、立ち寝をしたり、人の寝ている足や体を枕に寝込み、東京駅に着いた時にはすっかり疲れ果てていた。それでも母の声に元気づけられ、タクシーもない焼け野原の東京の町を人力車に乗って拘置所にたどり着いた時には、もうへトヘトのありさまだった。入り口で立番しているMP(アメリカ軍憲兵)が私の黒い顔を見て大笑いしながら、しかしそれが愛矯となってプラスしたのか、難なく中に入れてくれた。
拘置所内の面会所で待っていると金網の向こうにMPに連れられた男があらわれた。よく見るとそれが父だった。金網越しに私たちの方へやってきた。母は声もなく、じ一つと父を見つめ「お元気ですね」とだけいったが、私は「汽車に煙が入り真っ黒。疲れてしまい、元気あらへん」といって笑ったことを思い出す。その姿がひょうきんに見えたのか、一瞬父も笑ったようだったが、あとは母とことばを交わし、時折り私の方にも語りかけ「お母さんのいうことをよく聞いて待っていなさい」などと、例の落ち着いた口調でいったのを覚えている。十分ぐらい経っただろうか。あのMPがやってきて、父の背中をつつき、連れていった。父は「元気で…心配はいらん」といいたげな表情で母と私を見つめながら消えていった。「お父さんは何も悪いことはしていないけど、責任者だったので事情を聞かれている。がまんして待っていましょぅね」母のことばから、私はこの時、始めて〝戦犯″ということばと、その意味を知らされ、何か恐ろしいことが父の身の上に起きているということを、おぼろげながら悟ったようだった。
「たったあれだけの短い時間、父に会うために、長く辛い思いをして列車に揺られ、東京まで出てきたと思うと、久しぶりに父に会った喜びよりも先に腹が立ちました。こどものころだったのでそんな甘えがあったのでしょうね」とミネ子さんはふり返っている。「あとになって母が私にいいました。あの時はもうお父さんに会うのは最後になるのではという思いの面会だったそうです。だから〝武人″〝教師″の妻らしく決して涙を見せるべきではない。人の範になるような〝大和撫子″(やまとなでしこ。か弱いながらも、凛々しさのある日本女性の美称)としての態度で父を見送ろうと、決意の面会をしたそうです。この話を聞いた時には、母もあの時代に育ったすばらしい女性だったと、つくづく見直すほどでした。父も母も、私には本当にすばらしい、すてきな、誇ることのできる親だったと、自信をもっていえます」いまは亡き両親を思い出すミネ子さんのことばには、力がこもり、表情も明るかった。
倉西さんは、捕虜だった人々の証言や友情の嘆願書が相次いでGHQに寄せられ、起訴されることなく、捕虜虐待という無実の容疑も晴れて釈放され、拘置所生活半年で、その年の五月末に帰宅した。
私(小林)も〝倉西中尉″の無実を証明するため、収容所時代の捕虜の友などに積極的な働きかけをしたことを思い出す。その甲斐があった。本当によかった。「父はもともと罪状を課せられるようなことをしていなかったと信じていましたが、小林さんはもちろん、関係者のみなさま方の献身的な奔走《ほんそう》で起訴もされなかったことをとっても感謝していました。
母も心から喜び、ともどもお礼のいいようもないと、よくいっていました」娘としてミネ子さんの喜びもひとしおだったに違いない。
捕虜収容所時代の友だったロバート・J・ブロードウォーターさん (ROBERT・J・B
ROADWATER) が昭和二十四年 (一九四九) 七月末に突然、堺市南田出井町にあったミネ子さんの実家を訪問した記憶は鮮やかに残っている。あの時、父・泰次郎さんは旧職に復帰し、学校で教鞭をとっていたので不在だった。母、緑さんとミネ子の二人だけが会った。「ブロードウォーターさんは日本語まじりで私らにわかるように、いろいろと懐しい話をされ、後日、私ら家族ともう一度会う約束をして帰られました」 というミネ子さん。父を心から尊敬していたというブロードウオーターさんはすでにコカコーラに勤務し、将来を嘱望される若きエースとして日本とアメリカ間を往復する多忙な身だった。その合い間を縫っての訪問だった、そして約束通り、数日後に神戸オリエンタル・ホテルでミネ子さん一家と彼が会い、食事をともにしながら団らんのひとときを過ごした。彼はコカコーラの神戸営業所を視察するためにやってきたということだった。
ミネ子さんの両親への思い出は尽きないが、次のようなことばで結んでくれた。「もちろん、捕虜収容所時代にどんなことがあったのか、私にはまったくわかりませんが、あとになっていろいろな日米の関係者から聞くと、一様に〝情厚い人間″〝冷静だった人〟という父の印象がはね返ってきました。家庭にあっても外にあっても、終始変わることがなかったんだなあと、父の態度に尊敬の念さえわきました。その父を信じ、温く家庭を守った母とはとっても似合いの静かな夫婦だったと思います。ともにいまはいませんが、内からも外からも同じように見られた父と母は、本当に幸福だったと思います」いま天国で静かに眠るご夫婦のご冥福を心からお祈りする。
ミネ子さんは昭和三十七年(一九六二) に家具商を経営する夫・生夫さんと結婚、一男一女(ともに成人)をもうけ、両親の思い出を胸に、幸福に暮らしている。
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収容所長の巣鴨メモ・1
寂しさに 妻子の名をも 呼びて見つ
遠走る 汽車の車輪 響けり
大阪捕虜収容所多奈川分所長・倉西泰次郎中尉が終戦直後、C級戦犯の容疑でGHQ(連合軍総司令部)によって巣鴨拘置所に収容されたことは既述した。倉西中尉はここで、収容所の運営・管理、捕虜の暮らしぶり、労働状況、日本人職員、軍人の対応など、すべての点について、厳しい取り調べを受けたという。結局、五か月後に罪状なく、起訴されずに釈放されたが、拘置所内では連日の尋問にありのままを供述しようと、過去の行動の記憶をたどりながらメモし、拘置所内の起居動作《=日常のふるまい》を日記帳に記してきた。冒頭の歌はその一つだが、部下の行為に責任を持つ立ち場の人として、ある時は部下の行動をかばい、一貫して捕虜を気遣い、軍規の中で過ごした追憶。
一転、獄舎につながれ家族を思い、行く末を案じながらも歌を詠じ、戦犯容疑者たちと語らう日々だった。この項はその前編として巣鴨の「獄中メモ (覚書)」を抜粋した。
「昭和二十一年一月十一日 タイラー事件第一回訊問《じんもん》‥・」倉西中尉に重くのしかかった事件だっただけに、これがメモの書き出しだった。中尉は終戦の年(昭和二十年)の十二月五日に巣鴨拘置所に拘留された。掃虜収容所の多奈川分所長として在職中の全責任者だったため、GHQ戦犯追及の動きとともに拘留され、まず捕虜に関係する事件を細かく尋問された。その第一回尋問を前に、記憶を整理するためだったのか、日誌とは別の覚書用紙にメモ書きの形で在職中の主要事件、対応や行動を詳細に記述している。
「勤務中ノ事件タイラーノ件(注 タイラーは脱走した捕虜名)
昭和十八年八月二十九日(日曜)〇八・〇〇頃 峰本、市場(各軍曹)、堺ノ自宅二来リタイラー逃亡、捕縛ノ件報告(夜来、再三電話スルモ故障ノタメ不通)。《二十八日消灯(二〇・三〇)前後逃亡、東畑部落ニ至ル、二四・〇〇頃逮捕連レ帰ル》直チニ両軍曹ヲ伴ヒ本所へ報告ノタメ出発、金田副官宅ヨリ本所こ向フ。本所ニテ副官ニ報告、峰本ト二人ニテ伏見ノ本所長(大阪捕虜収容所長)宅ニ向フ。伏見観月橋駅ニテ本所長来ルニ会ヒ、駅頭ニテ概略報告、共ニ本所ニ向フ。金田大尉、市場軍曹卜共ニ既ニ多奈川ニ出発セル後ナリ。本所長ニ改メテ詳細報告。二十九日夕、峰本卜多奈川ニ帰着。金田大尉ハ既ニタイラーヲ連レ実地検証ヲナシ訊問調査ヲ終了。ソレ以後ノ事ハ凡テ金田大尉指揮命令サレタルヲ以テ余ノ記憶明瞭《めいりよう》ナラズ。(以下略)」
捕虜タイラーが逃亡した事件の事後処理について克明に記されている。このあと倉西中尉は営倉のタイラーを見て本所副官、金田郁平大尉の宿泊旅館(常遼屋)に行き同大尉と話している。
しかし「金田大尉ハ事件ニ関シテ殆ンド語ラズ。タダ
① タイラーハ本所ニ移管スルコト
② 二、三日中ニ将校ヲ派遣シタイラーヲ護送セシムルコト、ノ二項ヲ聞イタダケ」とある。
多分三十日カ三十一日ノ早朝(六時頃)野須軍医(本所勤務)、外山衛生兵、川原傭人三名ニテタイラーヲトラックニ乗セ本所ニ向フ」
これより前、本所の所長、村田宗太郎大佐から指示命令を受けた。「八・二九午後命令事項
① 金田大尉ヲ派遣事件処理ニ当タラシメル。金田大尉ノ指揮ヲ受ケヨ
② 東畑部落(注=タイラーの逃亡場所)ニ早ク行キテタイラーガ世話ニナッタ謝礼ヲセヨ」これとは別に後日、受けた指示もある。
「本所長指示
① 事実ヲ決シテ漏ラスナ
②捕虜全員ヲ集メ訓示シ、タイラーハ本所へ移籍シ軍法会議ニテ裁判ニ廻ス準備中ナル旨伝達セヨ
③憲兵、警察其ノ他外部ニハ軍法会議ニテ裁判スル旨答ヘヨ」
というものだった。
タイラー事件についてはさら記述がつづく。「タイラー出発マデニ数回営倉ニテタイラーヲ見ル。朝夕必ズ営倉ヲ見廻ル。下士官以下職員衛兵ニハ特ニタイラーヲ殴打スル等暴行ヲ加ヘザル様注意ス。入倉中のタイラーハ出血ヤ傷ハ認メズ。給食ハ労役二服セザルモノトシテ五六〇瓦(?)ヲ与フ。炊事ヨリ衛兵所へ、衛兵ガ運ブ。タイラー犯行前ノ健康状態、就労状況正確ナル記憶ナシ。軽患者トシテ軽労働(製縄)-手伝ノ極軽キ労働---ニ従事セル様記憶ス…(中略)トラックニテ出発時ノタイラーヲ門デ見タガ偶々意気狙喪《そそう=気落ちする》セルノミニテ外傷等認メラレズ、モタレテ眼ヲ閉ジテ坐ッテ居タ様ニ思フ。薬ノ臭気鼻ヲ打ツ。出発後タイラーハ市岡(収容所か)へ向フ途中死亡セル旨外山衛生兵ヨリ聞ク。…(中略)スベテハ金田副官卜野須軍医ニテ処置セラレ、余ハ処置ニ関シ相談ヲ受ケタルコトナシ」(要約)。
倉西中尉はタイラーの急死に疑問を持ち、薬臭との関係に思い悩んだのではなかろうか。
寂しさに 妻子の名をも 呼びて見つ
遠走る 汽車の車輪 響けり
大阪捕虜収容所多奈川分所長・倉西泰次郎中尉が終戦直後、C級戦犯の容疑でGHQ(連合軍総司令部)によって巣鴨拘置所に収容されたことは既述した。倉西中尉はここで、収容所の運営・管理、捕虜の暮らしぶり、労働状況、日本人職員、軍人の対応など、すべての点について、厳しい取り調べを受けたという。結局、五か月後に罪状なく、起訴されずに釈放されたが、拘置所内では連日の尋問にありのままを供述しようと、過去の行動の記憶をたどりながらメモし、拘置所内の起居動作《=日常のふるまい》を日記帳に記してきた。冒頭の歌はその一つだが、部下の行為に責任を持つ立ち場の人として、ある時は部下の行動をかばい、一貫して捕虜を気遣い、軍規の中で過ごした追憶。
一転、獄舎につながれ家族を思い、行く末を案じながらも歌を詠じ、戦犯容疑者たちと語らう日々だった。この項はその前編として巣鴨の「獄中メモ (覚書)」を抜粋した。
「昭和二十一年一月十一日 タイラー事件第一回訊問《じんもん》‥・」倉西中尉に重くのしかかった事件だっただけに、これがメモの書き出しだった。中尉は終戦の年(昭和二十年)の十二月五日に巣鴨拘置所に拘留された。掃虜収容所の多奈川分所長として在職中の全責任者だったため、GHQ戦犯追及の動きとともに拘留され、まず捕虜に関係する事件を細かく尋問された。その第一回尋問を前に、記憶を整理するためだったのか、日誌とは別の覚書用紙にメモ書きの形で在職中の主要事件、対応や行動を詳細に記述している。
「勤務中ノ事件タイラーノ件(注 タイラーは脱走した捕虜名)
昭和十八年八月二十九日(日曜)〇八・〇〇頃 峰本、市場(各軍曹)、堺ノ自宅二来リタイラー逃亡、捕縛ノ件報告(夜来、再三電話スルモ故障ノタメ不通)。《二十八日消灯(二〇・三〇)前後逃亡、東畑部落ニ至ル、二四・〇〇頃逮捕連レ帰ル》直チニ両軍曹ヲ伴ヒ本所へ報告ノタメ出発、金田副官宅ヨリ本所こ向フ。本所ニテ副官ニ報告、峰本ト二人ニテ伏見ノ本所長(大阪捕虜収容所長)宅ニ向フ。伏見観月橋駅ニテ本所長来ルニ会ヒ、駅頭ニテ概略報告、共ニ本所ニ向フ。金田大尉、市場軍曹卜共ニ既ニ多奈川ニ出発セル後ナリ。本所長ニ改メテ詳細報告。二十九日夕、峰本卜多奈川ニ帰着。金田大尉ハ既ニタイラーヲ連レ実地検証ヲナシ訊問調査ヲ終了。ソレ以後ノ事ハ凡テ金田大尉指揮命令サレタルヲ以テ余ノ記憶明瞭《めいりよう》ナラズ。(以下略)」
捕虜タイラーが逃亡した事件の事後処理について克明に記されている。このあと倉西中尉は営倉のタイラーを見て本所副官、金田郁平大尉の宿泊旅館(常遼屋)に行き同大尉と話している。
しかし「金田大尉ハ事件ニ関シテ殆ンド語ラズ。タダ
① タイラーハ本所ニ移管スルコト
② 二、三日中ニ将校ヲ派遣シタイラーヲ護送セシムルコト、ノ二項ヲ聞イタダケ」とある。
多分三十日カ三十一日ノ早朝(六時頃)野須軍医(本所勤務)、外山衛生兵、川原傭人三名ニテタイラーヲトラックニ乗セ本所ニ向フ」
これより前、本所の所長、村田宗太郎大佐から指示命令を受けた。「八・二九午後命令事項
① 金田大尉ヲ派遣事件処理ニ当タラシメル。金田大尉ノ指揮ヲ受ケヨ
② 東畑部落(注=タイラーの逃亡場所)ニ早ク行キテタイラーガ世話ニナッタ謝礼ヲセヨ」これとは別に後日、受けた指示もある。
「本所長指示
① 事実ヲ決シテ漏ラスナ
②捕虜全員ヲ集メ訓示シ、タイラーハ本所へ移籍シ軍法会議ニテ裁判ニ廻ス準備中ナル旨伝達セヨ
③憲兵、警察其ノ他外部ニハ軍法会議ニテ裁判スル旨答ヘヨ」
というものだった。
タイラー事件についてはさら記述がつづく。「タイラー出発マデニ数回営倉ニテタイラーヲ見ル。朝夕必ズ営倉ヲ見廻ル。下士官以下職員衛兵ニハ特ニタイラーヲ殴打スル等暴行ヲ加ヘザル様注意ス。入倉中のタイラーハ出血ヤ傷ハ認メズ。給食ハ労役二服セザルモノトシテ五六〇瓦(?)ヲ与フ。炊事ヨリ衛兵所へ、衛兵ガ運ブ。タイラー犯行前ノ健康状態、就労状況正確ナル記憶ナシ。軽患者トシテ軽労働(製縄)-手伝ノ極軽キ労働---ニ従事セル様記憶ス…(中略)トラックニテ出発時ノタイラーヲ門デ見タガ偶々意気狙喪《そそう=気落ちする》セルノミニテ外傷等認メラレズ、モタレテ眼ヲ閉ジテ坐ッテ居タ様ニ思フ。薬ノ臭気鼻ヲ打ツ。出発後タイラーハ市岡(収容所か)へ向フ途中死亡セル旨外山衛生兵ヨリ聞ク。…(中略)スベテハ金田副官卜野須軍医ニテ処置セラレ、余ハ処置ニ関シ相談ヲ受ケタルコトナシ」(要約)。
倉西中尉はタイラーの急死に疑問を持ち、薬臭との関係に思い悩んだのではなかろうか。
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収容所長の巣鴨メモ・2
倉西中尉の在勤中、病死捕虜について
「昭和十八年ニハ月一人位、十九年夏、秋ニハ一人モナキ月ガ数ヶ月続イタ。主ナ疾患ハ大腸炎、肺炎等ナリ」とある。「公傷死ハ一名モナシ。公傷患者ハ月ニ、三名アリ。発生毎ニ現場指導員又ハ飛島組中野部長ヲ召喚、厳重訊問調査、作業方法の改良ヲ要求、実施セシム。公傷患者ハ川崎診療所ニ依頼、手当ヲ受ケシムル。立入禁止区域ニ労役中遊ビニ行キ墜落、片足切断、又製材中、鋸ニテ指三本切断等、三名ノ重公傷者ニハ日本工場法ニ従ヒ慰労金ヲ会社側ヨリ交付セシム」
労役現場などでの事件も多く、腐心したことがうかがえる。
「荒仕事ナル故、事故多シ。第三国人(朝鮮系の人たち)トノ事故(件)、現場指導員ノ殴打事件等アル毎ニ両者ヲ呼ビ訊問、責任者ヲ厳重訓戒。捕虜ヲ殴打セル者等ニハ必要ニ応じ現場ヨリ放逐。分所長ハ毎日、現場ニ出テ直接監督指導ス。又現場監督指導者等ニハ捕虜使用方法ヲ説明、第三国人モ含メ作業員全員ヲ集メテ、私的制裁ノ厳禁ヲ申渡スコト屡々《しばしば》…」
労役捕虜への配慮にとくに留意し、あらぬ誤解を招いたようだ。
「労役分量モ現場責任者、捕虜労役責任者卜常ニ接渉、過労ナキ様監視ス。重労働ノ際ハ補食ヲ増量、時間延長労働ニハ翌日ノ稼動開始時間を遅クシ、休業サセル等ノ注意ヲ払ヒ、分所長自ラ之ヲ監視ス。之ガ為、分所長以下分所職員ハ捕虜ノ味方ナリトノ世評ヲ買ヒ、特二第三国人ヨリ敵視サレ、第三国人地域ノ通行ニハ警戒ヲ要スルニ至ル。一面、土工作業ハ捕虜ニ不適当ナルヲ以テ米捕虜ニ適セル機械作業ニ従事セシムル如ク村田本所長ニ意見具申スルコト屡々。シカシ許可サレズ」とある。
ところで、逃亡事件を起こしたタイラー捕虜に関連して倉西中尉は、当時の日本軍首脳部の捕虜に対する考え方を、自分の推察だとしながら次のようにメモに残している。
「余の推察
① 日本軍ノ勝利ヲノミ信ジアリタル軍首脳部ハ捕虜ノ生命卜戦争犯罪等ノコトハ毛頭念頭ニナカリシコト
② 軍ノ管理セル捕虜ヲ一名ニテモ逃亡サスコトハ軍ノ威信ニ係ハリ不名誉トナルコト
③ 極力、事件ノ明ルミニ出ルコトヲ避ケントセシコト。軍法会議ニカケテ正式ニ処刑スルコトハ事件を明ルミニ出スコトニナルコト
④ 日本内地ニ於テハ捕虜逃亡事件ハ前例乏シク重大卜考へ過ギ秘密裡ニ処理セント努力セシコト…」 (要約)。
しかしながら、倉西中尉が関連した逃亡捕虜の中には正式に軍法会議で裁かれた者もいた。
倉西中尉もタイラー事件以前に逃亡捕虜の軍法会議に参加した。中尉はその捕虜の弁護に当たったことを記している。
「多奈川分所ベン・マグドン (捕虜名)、昭和十九年三月二十四日逃亡、同年四月二十日、中部軍軍法会議裁判ニ於テ懲役十年、判決ヲ受ク。倉西少尉 (当時) ハ法廷ニ立チ、マグドンヲ弁護ス。マグドン余ヲ振返り見テ泣イテ感謝ス。マグドンニ尋ネラレタシ。神岡分所ノ逃亡捕虜卜共ニ九月 (恐らく終戦の年、昭和二十年だろう)出獄、帰国ス」
倉西中尉にとっては、捕虜タイラーが多奈川分所の所属する大阪捕虜収容所 (本所) の指示により、同本所の幹部の手で移送中に、予期せぬ状態で死亡したことが残念だったのだろう。せめて正規の軍法会議で裁かれるまで生きていてほしかったと願っていたのではないか。中尉のメモは、こうした思いと、戦争、タテ組織の軍隊など、さまざまな矛盾との葛藤《かっとう》を推察と実例で明示したのではなかろうか。
倉西中尉の在勤中、病死捕虜について
「昭和十八年ニハ月一人位、十九年夏、秋ニハ一人モナキ月ガ数ヶ月続イタ。主ナ疾患ハ大腸炎、肺炎等ナリ」とある。「公傷死ハ一名モナシ。公傷患者ハ月ニ、三名アリ。発生毎ニ現場指導員又ハ飛島組中野部長ヲ召喚、厳重訊問調査、作業方法の改良ヲ要求、実施セシム。公傷患者ハ川崎診療所ニ依頼、手当ヲ受ケシムル。立入禁止区域ニ労役中遊ビニ行キ墜落、片足切断、又製材中、鋸ニテ指三本切断等、三名ノ重公傷者ニハ日本工場法ニ従ヒ慰労金ヲ会社側ヨリ交付セシム」
労役現場などでの事件も多く、腐心したことがうかがえる。
「荒仕事ナル故、事故多シ。第三国人(朝鮮系の人たち)トノ事故(件)、現場指導員ノ殴打事件等アル毎ニ両者ヲ呼ビ訊問、責任者ヲ厳重訓戒。捕虜ヲ殴打セル者等ニハ必要ニ応じ現場ヨリ放逐。分所長ハ毎日、現場ニ出テ直接監督指導ス。又現場監督指導者等ニハ捕虜使用方法ヲ説明、第三国人モ含メ作業員全員ヲ集メテ、私的制裁ノ厳禁ヲ申渡スコト屡々《しばしば》…」
労役捕虜への配慮にとくに留意し、あらぬ誤解を招いたようだ。
「労役分量モ現場責任者、捕虜労役責任者卜常ニ接渉、過労ナキ様監視ス。重労働ノ際ハ補食ヲ増量、時間延長労働ニハ翌日ノ稼動開始時間を遅クシ、休業サセル等ノ注意ヲ払ヒ、分所長自ラ之ヲ監視ス。之ガ為、分所長以下分所職員ハ捕虜ノ味方ナリトノ世評ヲ買ヒ、特二第三国人ヨリ敵視サレ、第三国人地域ノ通行ニハ警戒ヲ要スルニ至ル。一面、土工作業ハ捕虜ニ不適当ナルヲ以テ米捕虜ニ適セル機械作業ニ従事セシムル如ク村田本所長ニ意見具申スルコト屡々。シカシ許可サレズ」とある。
ところで、逃亡事件を起こしたタイラー捕虜に関連して倉西中尉は、当時の日本軍首脳部の捕虜に対する考え方を、自分の推察だとしながら次のようにメモに残している。
「余の推察
① 日本軍ノ勝利ヲノミ信ジアリタル軍首脳部ハ捕虜ノ生命卜戦争犯罪等ノコトハ毛頭念頭ニナカリシコト
② 軍ノ管理セル捕虜ヲ一名ニテモ逃亡サスコトハ軍ノ威信ニ係ハリ不名誉トナルコト
③ 極力、事件ノ明ルミニ出ルコトヲ避ケントセシコト。軍法会議ニカケテ正式ニ処刑スルコトハ事件を明ルミニ出スコトニナルコト
④ 日本内地ニ於テハ捕虜逃亡事件ハ前例乏シク重大卜考へ過ギ秘密裡ニ処理セント努力セシコト…」 (要約)。
しかしながら、倉西中尉が関連した逃亡捕虜の中には正式に軍法会議で裁かれた者もいた。
倉西中尉もタイラー事件以前に逃亡捕虜の軍法会議に参加した。中尉はその捕虜の弁護に当たったことを記している。
「多奈川分所ベン・マグドン (捕虜名)、昭和十九年三月二十四日逃亡、同年四月二十日、中部軍軍法会議裁判ニ於テ懲役十年、判決ヲ受ク。倉西少尉 (当時) ハ法廷ニ立チ、マグドンヲ弁護ス。マグドン余ヲ振返り見テ泣イテ感謝ス。マグドンニ尋ネラレタシ。神岡分所ノ逃亡捕虜卜共ニ九月 (恐らく終戦の年、昭和二十年だろう)出獄、帰国ス」
倉西中尉にとっては、捕虜タイラーが多奈川分所の所属する大阪捕虜収容所 (本所) の指示により、同本所の幹部の手で移送中に、予期せぬ状態で死亡したことが残念だったのだろう。せめて正規の軍法会議で裁かれるまで生きていてほしかったと願っていたのではないか。中尉のメモは、こうした思いと、戦争、タテ組織の軍隊など、さまざまな矛盾との葛藤《かっとう》を推察と実例で明示したのではなかろうか。
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投稿数: 4298
収容所長の巣鴨メモ・3
倉西中尉のメモはつづく。
「食糧其他ノ給与ニ就テ
主食ノ軍給与ハ円滑ニ行ハレ一度モ不足ノ生ジタルコトナシ。副食ハ大阪中央市場へ買出ニ行クヲ以テ冬期ハ順調。夏期腐敗シ易キ時期ハ貯蔵困難故、地元ニテ購入。町農会、地元農民等ヨリ直接交渉ノ上購入。所員ノ中一、二名ハ買出係トシテ付近農村、和歌山県方面ニモ赴キ魚菜類ヲ購入ス。昭和十九年ニ於テハ特ニ玉葱一貫メ近ク(三七、五〇〇瓩購入。玉葱ハ捕虜ノ最モ好ムトコロ、大イニ健康状態回復、患者減少ヲ見ルニ至レリ。又和歌山県ノ産地ヨリ多量ノ蜜柑《みかん》ヲ購入シ与へ「ペラグラ」大部分、治癒《ちゆ》スルニ至レリ。之ガ購入費ハ会社側ノ寄贈卜捕虜ノ給料、労役賃金ヨリノ醵金を以テセリ。捕虜将校大イニ購入希望シ協力セリ。蛋白質、脂肪食料不足セルヲ以テ百方手ヲ盡シテ購入セリ」
さらに「労役ハ最重労働ナル故、会社側こ補食ヲ寄贈セシム。
(イ)現場ノ補食、米一合、野菜、魚等ノ雑炊ニシテ五〇〇乃至一〇〇〇カロリーニ達ス。昭和十九年末頃ヨリノ食糧難時代ニ於テハ会社側ニ再三再四、談判、補食ヲ減ゼザル様要求ス。
(ロ)右ノ外、牛骨、魚粉、魚菜類ヲ会社側ヨリ寄贈セシム。捕虜ノ健康保持ハ食物ニアルコトヲ痛感、分所長以下全職員挙ゲテ努力。ソノ結果、昭和十九年以降ハ健康全般的ニ向上セリ。然シ捕虜ハ他ノ分所ノ実情(多奈川分所は大阪捕虜収容所管下約二十分所中、上位二、三位の健康度、栄養度を保持していたという)ヲ知悉《ちしつ=細かい点まで知りつくす》セズ、多奈川分所ヲ悪キ様ニ言フモ、食糧ノ給与、休日ノ多キコト、休息時間ノ多キコト等、決シテ過労、栄養不足ニ非ズ。一時ハパンヲ給セルコトアリ」と詳述している。
このほか、被服や衛生など捕虜の日常生活全般に気くぼりの措置を講じたことなどが詳しく述べられている。
「衛生ニ就テ 病室ノ改善、医療器具、医薬品ハ軍給与ニテハ不足故、会社ニ寄贈セシム。
和歌山市、大阪市等ニ買出ニ出ル。捕虜軍医二名。日本衛生兵二名。十一月-四月特別ニ大キナ暖炉ヲ許可。入浴週一-二回、燃料不足、石炭、薪ヲ会社ヨリ寄贈。のみ、しらみノ駆除…(以下略。)」
「暖炉 会社工場デ捕虜ノ好ム如ク作製セシム。収容所内バラック、現場休憩所ニモ彼等ノ好ム如ク設備、燃料豊富(製材屑、鋸屑、多量購入)十二月-三月許可」
「休労 定休日曜日ノ外雨天ハ休労、一ケ月ノ労役ハ二十三、四日。休労日入浴、洗濯卜休養」
「祈祷《きとう》 申出ニ依り許可ス。殆ンド自由、旧教ノ牧師ヲ招ジ、ミサヲ行フ」
「将校 特別室設置。寝台等モ好ムママニ作製セシメ、生活モ自由。非労役者故、食糧少キ筈ナルモ事実ハ彼等自身ニ任セタルヲ以テ労役者ト同等或イハソレ以上摂取。分所長ノ理解アル取扱ヲ徳トシ居レリ。暖炉モ火鉢、木炭ヲ許可」
「被服 日本軍、戦利品両方ヲ併用セシム外、会社側カラミシン、靴修理具等ヲ寄贈セシメ縫工、靴工ヲ増員修理ニ努力セル為、相当良キ被服着用、現場従業員ノ羨望《せんぼう》ノ的トナル。毛布六枚、寝具ハ板敷ノ上ニ藁敷、畳表ヲ敷ク。外套、手袋等モ戸外作業ニハ規定以上長期着用ヲ許可。藁ハ年二回入換」
一方、中尉は定期的に捕虜から感想文を提出させ、改善要求や希望を聞いて実現の努力をした。「楽器の購入モ行フ。感想文ノ要求、希望等カラ食物へノ留意、患者ヲ度々見舞ヒシコト、死者ニ対スル礼儀等、常ニ分所長ノ理解卜好意ニ感謝シ居リシコトヲ感ズ。中ニ〝日本ニ於テ捕虜生活ヲ送ル限り倉西分所長ノ指揮下ニアリテ平和克復ヲ迎へ度シ″ト言ヘルモノ、分所長ノ捕虜取扱振リヲ米本国ノ家族二報知シ安心ヲ求メタルモノアリ。捕虜家族中此ノ手紙ヲ受領セル家族確カニアル筈」と、率直に述べている。
救恤品《きゅうじつひん=めぐむ品》の分配についても
「捕虜将校監督ノ下ニ捕虜自身ヲシテ着駅ヨリ運搬、受領、品数調査記入セシム。憲兵立合ノ上ニテ品数内容検査。糧秣倉庫ニ隣接シテ保管倉庫ヲ設ケ施錠ガルブレイス大尉(監督将校)ニ鍵ヲ所持セシメ、出納簿こ記録セシメテ所持サセル。員数記入紙片ヲ各箱二貼付、絶対ニ間違ヒナキ様管理ス。捕虜、分所長以下ノ配慮ニ感謝ノ為小箱一個宛贈与ヲ申出ズ」
とあり、捕虜本位の厳しい管理体制と捕虜の感謝の意が明らかに述べられている。
倉西中尉のメモはつづく。
「食糧其他ノ給与ニ就テ
主食ノ軍給与ハ円滑ニ行ハレ一度モ不足ノ生ジタルコトナシ。副食ハ大阪中央市場へ買出ニ行クヲ以テ冬期ハ順調。夏期腐敗シ易キ時期ハ貯蔵困難故、地元ニテ購入。町農会、地元農民等ヨリ直接交渉ノ上購入。所員ノ中一、二名ハ買出係トシテ付近農村、和歌山県方面ニモ赴キ魚菜類ヲ購入ス。昭和十九年ニ於テハ特ニ玉葱一貫メ近ク(三七、五〇〇瓩購入。玉葱ハ捕虜ノ最モ好ムトコロ、大イニ健康状態回復、患者減少ヲ見ルニ至レリ。又和歌山県ノ産地ヨリ多量ノ蜜柑《みかん》ヲ購入シ与へ「ペラグラ」大部分、治癒《ちゆ》スルニ至レリ。之ガ購入費ハ会社側ノ寄贈卜捕虜ノ給料、労役賃金ヨリノ醵金を以テセリ。捕虜将校大イニ購入希望シ協力セリ。蛋白質、脂肪食料不足セルヲ以テ百方手ヲ盡シテ購入セリ」
さらに「労役ハ最重労働ナル故、会社側こ補食ヲ寄贈セシム。
(イ)現場ノ補食、米一合、野菜、魚等ノ雑炊ニシテ五〇〇乃至一〇〇〇カロリーニ達ス。昭和十九年末頃ヨリノ食糧難時代ニ於テハ会社側ニ再三再四、談判、補食ヲ減ゼザル様要求ス。
(ロ)右ノ外、牛骨、魚粉、魚菜類ヲ会社側ヨリ寄贈セシム。捕虜ノ健康保持ハ食物ニアルコトヲ痛感、分所長以下全職員挙ゲテ努力。ソノ結果、昭和十九年以降ハ健康全般的ニ向上セリ。然シ捕虜ハ他ノ分所ノ実情(多奈川分所は大阪捕虜収容所管下約二十分所中、上位二、三位の健康度、栄養度を保持していたという)ヲ知悉《ちしつ=細かい点まで知りつくす》セズ、多奈川分所ヲ悪キ様ニ言フモ、食糧ノ給与、休日ノ多キコト、休息時間ノ多キコト等、決シテ過労、栄養不足ニ非ズ。一時ハパンヲ給セルコトアリ」と詳述している。
このほか、被服や衛生など捕虜の日常生活全般に気くぼりの措置を講じたことなどが詳しく述べられている。
「衛生ニ就テ 病室ノ改善、医療器具、医薬品ハ軍給与ニテハ不足故、会社ニ寄贈セシム。
和歌山市、大阪市等ニ買出ニ出ル。捕虜軍医二名。日本衛生兵二名。十一月-四月特別ニ大キナ暖炉ヲ許可。入浴週一-二回、燃料不足、石炭、薪ヲ会社ヨリ寄贈。のみ、しらみノ駆除…(以下略。)」
「暖炉 会社工場デ捕虜ノ好ム如ク作製セシム。収容所内バラック、現場休憩所ニモ彼等ノ好ム如ク設備、燃料豊富(製材屑、鋸屑、多量購入)十二月-三月許可」
「休労 定休日曜日ノ外雨天ハ休労、一ケ月ノ労役ハ二十三、四日。休労日入浴、洗濯卜休養」
「祈祷《きとう》 申出ニ依り許可ス。殆ンド自由、旧教ノ牧師ヲ招ジ、ミサヲ行フ」
「将校 特別室設置。寝台等モ好ムママニ作製セシメ、生活モ自由。非労役者故、食糧少キ筈ナルモ事実ハ彼等自身ニ任セタルヲ以テ労役者ト同等或イハソレ以上摂取。分所長ノ理解アル取扱ヲ徳トシ居レリ。暖炉モ火鉢、木炭ヲ許可」
「被服 日本軍、戦利品両方ヲ併用セシム外、会社側カラミシン、靴修理具等ヲ寄贈セシメ縫工、靴工ヲ増員修理ニ努力セル為、相当良キ被服着用、現場従業員ノ羨望《せんぼう》ノ的トナル。毛布六枚、寝具ハ板敷ノ上ニ藁敷、畳表ヲ敷ク。外套、手袋等モ戸外作業ニハ規定以上長期着用ヲ許可。藁ハ年二回入換」
一方、中尉は定期的に捕虜から感想文を提出させ、改善要求や希望を聞いて実現の努力をした。「楽器の購入モ行フ。感想文ノ要求、希望等カラ食物へノ留意、患者ヲ度々見舞ヒシコト、死者ニ対スル礼儀等、常ニ分所長ノ理解卜好意ニ感謝シ居リシコトヲ感ズ。中ニ〝日本ニ於テ捕虜生活ヲ送ル限り倉西分所長ノ指揮下ニアリテ平和克復ヲ迎へ度シ″ト言ヘルモノ、分所長ノ捕虜取扱振リヲ米本国ノ家族二報知シ安心ヲ求メタルモノアリ。捕虜家族中此ノ手紙ヲ受領セル家族確カニアル筈」と、率直に述べている。
救恤品《きゅうじつひん=めぐむ品》の分配についても
「捕虜将校監督ノ下ニ捕虜自身ヲシテ着駅ヨリ運搬、受領、品数調査記入セシム。憲兵立合ノ上ニテ品数内容検査。糧秣倉庫ニ隣接シテ保管倉庫ヲ設ケ施錠ガルブレイス大尉(監督将校)ニ鍵ヲ所持セシメ、出納簿こ記録セシメテ所持サセル。員数記入紙片ヲ各箱二貼付、絶対ニ間違ヒナキ様管理ス。捕虜、分所長以下ノ配慮ニ感謝ノ為小箱一個宛贈与ヲ申出ズ」
とあり、捕虜本位の厳しい管理体制と捕虜の感謝の意が明らかに述べられている。
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