捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・6
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娘が語る恩情の父・収容所長・1
敵方からも畏敬《いけい》の念で慕われていた倉西泰次郎・中尉。肉身にはどう映っていたのだろう。
いまは、その父も母も他界し、唯一人残された忘れ片身の一人っ娘(こ)、新井ミネ子さん(四九)=大阪市西区南堀江=の思い出す父の像は終戦の年に小学校一年だったミネ子さんは昭和十三年(一九三八)生れ。父親が捕虜収容所長だったころはやっとものごころがつき始めた時だったので、確かな記憶が少ない。それでも
戦後、二十数年間の存命中は成長した娘の眼で見つづけてきた。
「父はもともと学校の教師だったせいか、人の道を誤らないようにつねに自分自身にいい聞かせていたと思います。ひと口に言って聖職者でした」でも、それを他人に強制するというのではなく、言外に教え、自然な形で相手に正しい道を歩ませるという風に見えた。
ミネ子さんの小さいころ、戦時中、旧制堺中学(現三国丘高校) で英語の教師をしていた当時、家ではよく絵本を読んでくれた。 童謡歌も(上手だったとはいえないが) 口ずさんでくれた。いつも物静かな態度で、口うるさいことは何もいわなかった。兵隊に召集されてからもこの調子は変わらなかった。「ただ軍服姿になってからの父は、こども心にも凛々(りり)しく感じました。外出して歩く時など、寄りつけないと思ったこともありましたから…」朝、家を出る時、夕方、家に帰った時、天気のよい日に朝陽、夕陽で腰の軍刀がキラリと輝き、何ともまぶしく感じた印象は忘れることができない。
母・緑さん(故人)と〝夫婦げんか〟らしいことのあった印象も残っていない。「だが、英語以外に柔道の有段者でもあり、背も人並み以上、かっぶくがよく外見は堂々としていました。きちょう面で、外見だけではそんなに静かでやさしい人には見えませんでした」典型的に〝自分に厳しい〟教育者だったのだろう。《私(小林)自身も、〝倉西先生″〝倉西中尉″時代を通じて、大声で叱られた覚えがなく、そうかといって繊細な心づかいで、聖職者〝教師″の立場らしくそれとなく誤りを自覚し、悟れるような指導、つねに相手の立場を配慮した気くぼりの人だったと思う》
捕虜収容所長時代には、ときどきミネ子さんも父に連れられて収容所に遊びに行った。広い庭(収容所の広場か)で寝そべって読書したり、雑談などをしていた捕虜が、彼女を見つけて手招きし、肩ぐるまにしたり、抱いて遊んでくれたことを覚えている。《昼間は、一般兵士の捕虜は労働のため所外に出ていたので、所内には将校や炊事担当者の捕虜しかいなかった。恐らくミネ子さんと遊んでくれたのは将校連中だったのだろう》
「いまでもハッキリしているのは、最初に彼らに合った一時、何と大きな男だなあと感じたことです。日本人は一般に小さく、父が割りと大きい方だったとはいえ、比べものにならないくらい彼らを大きく感じました」そんな大きな彼らに抱かれたり、肩ぐるまをしてもらった彼女も、最初は多少、こども心に恐いと思ったが、慣れるにつれ、〝やさしい巨人〟だとわかり、親しみがわいてきた。あのころの彼女は和服を着ていたので、洋服とは違う異文化姿に彼らなりの興味もあったのだろうか。収容所長の娘ということで、余計に可愛がってくれたのだろうか。とにかく、彼ら捕虜に対し、悪いイメージは残っていない。
敵方からも畏敬《いけい》の念で慕われていた倉西泰次郎・中尉。肉身にはどう映っていたのだろう。
いまは、その父も母も他界し、唯一人残された忘れ片身の一人っ娘(こ)、新井ミネ子さん(四九)=大阪市西区南堀江=の思い出す父の像は終戦の年に小学校一年だったミネ子さんは昭和十三年(一九三八)生れ。父親が捕虜収容所長だったころはやっとものごころがつき始めた時だったので、確かな記憶が少ない。それでも
戦後、二十数年間の存命中は成長した娘の眼で見つづけてきた。
「父はもともと学校の教師だったせいか、人の道を誤らないようにつねに自分自身にいい聞かせていたと思います。ひと口に言って聖職者でした」でも、それを他人に強制するというのではなく、言外に教え、自然な形で相手に正しい道を歩ませるという風に見えた。
ミネ子さんの小さいころ、戦時中、旧制堺中学(現三国丘高校) で英語の教師をしていた当時、家ではよく絵本を読んでくれた。 童謡歌も(上手だったとはいえないが) 口ずさんでくれた。いつも物静かな態度で、口うるさいことは何もいわなかった。兵隊に召集されてからもこの調子は変わらなかった。「ただ軍服姿になってからの父は、こども心にも凛々(りり)しく感じました。外出して歩く時など、寄りつけないと思ったこともありましたから…」朝、家を出る時、夕方、家に帰った時、天気のよい日に朝陽、夕陽で腰の軍刀がキラリと輝き、何ともまぶしく感じた印象は忘れることができない。
母・緑さん(故人)と〝夫婦げんか〟らしいことのあった印象も残っていない。「だが、英語以外に柔道の有段者でもあり、背も人並み以上、かっぶくがよく外見は堂々としていました。きちょう面で、外見だけではそんなに静かでやさしい人には見えませんでした」典型的に〝自分に厳しい〟教育者だったのだろう。《私(小林)自身も、〝倉西先生″〝倉西中尉″時代を通じて、大声で叱られた覚えがなく、そうかといって繊細な心づかいで、聖職者〝教師″の立場らしくそれとなく誤りを自覚し、悟れるような指導、つねに相手の立場を配慮した気くぼりの人だったと思う》
捕虜収容所長時代には、ときどきミネ子さんも父に連れられて収容所に遊びに行った。広い庭(収容所の広場か)で寝そべって読書したり、雑談などをしていた捕虜が、彼女を見つけて手招きし、肩ぐるまにしたり、抱いて遊んでくれたことを覚えている。《昼間は、一般兵士の捕虜は労働のため所外に出ていたので、所内には将校や炊事担当者の捕虜しかいなかった。恐らくミネ子さんと遊んでくれたのは将校連中だったのだろう》
「いまでもハッキリしているのは、最初に彼らに合った一時、何と大きな男だなあと感じたことです。日本人は一般に小さく、父が割りと大きい方だったとはいえ、比べものにならないくらい彼らを大きく感じました」そんな大きな彼らに抱かれたり、肩ぐるまをしてもらった彼女も、最初は多少、こども心に恐いと思ったが、慣れるにつれ、〝やさしい巨人〟だとわかり、親しみがわいてきた。あのころの彼女は和服を着ていたので、洋服とは違う異文化姿に彼らなりの興味もあったのだろうか。収容所長の娘ということで、余計に可愛がってくれたのだろうか。とにかく、彼ら捕虜に対し、悪いイメージは残っていない。
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編集者 (代理投稿)