捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・9
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編集者
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収容所長の巣鴨メモ・2
倉西中尉の在勤中、病死捕虜について
「昭和十八年ニハ月一人位、十九年夏、秋ニハ一人モナキ月ガ数ヶ月続イタ。主ナ疾患ハ大腸炎、肺炎等ナリ」とある。「公傷死ハ一名モナシ。公傷患者ハ月ニ、三名アリ。発生毎ニ現場指導員又ハ飛島組中野部長ヲ召喚、厳重訊問調査、作業方法の改良ヲ要求、実施セシム。公傷患者ハ川崎診療所ニ依頼、手当ヲ受ケシムル。立入禁止区域ニ労役中遊ビニ行キ墜落、片足切断、又製材中、鋸ニテ指三本切断等、三名ノ重公傷者ニハ日本工場法ニ従ヒ慰労金ヲ会社側ヨリ交付セシム」
労役現場などでの事件も多く、腐心したことがうかがえる。
「荒仕事ナル故、事故多シ。第三国人(朝鮮系の人たち)トノ事故(件)、現場指導員ノ殴打事件等アル毎ニ両者ヲ呼ビ訊問、責任者ヲ厳重訓戒。捕虜ヲ殴打セル者等ニハ必要ニ応じ現場ヨリ放逐。分所長ハ毎日、現場ニ出テ直接監督指導ス。又現場監督指導者等ニハ捕虜使用方法ヲ説明、第三国人モ含メ作業員全員ヲ集メテ、私的制裁ノ厳禁ヲ申渡スコト屡々《しばしば》…」
労役捕虜への配慮にとくに留意し、あらぬ誤解を招いたようだ。
「労役分量モ現場責任者、捕虜労役責任者卜常ニ接渉、過労ナキ様監視ス。重労働ノ際ハ補食ヲ増量、時間延長労働ニハ翌日ノ稼動開始時間を遅クシ、休業サセル等ノ注意ヲ払ヒ、分所長自ラ之ヲ監視ス。之ガ為、分所長以下分所職員ハ捕虜ノ味方ナリトノ世評ヲ買ヒ、特二第三国人ヨリ敵視サレ、第三国人地域ノ通行ニハ警戒ヲ要スルニ至ル。一面、土工作業ハ捕虜ニ不適当ナルヲ以テ米捕虜ニ適セル機械作業ニ従事セシムル如ク村田本所長ニ意見具申スルコト屡々。シカシ許可サレズ」とある。
ところで、逃亡事件を起こしたタイラー捕虜に関連して倉西中尉は、当時の日本軍首脳部の捕虜に対する考え方を、自分の推察だとしながら次のようにメモに残している。
「余の推察
① 日本軍ノ勝利ヲノミ信ジアリタル軍首脳部ハ捕虜ノ生命卜戦争犯罪等ノコトハ毛頭念頭ニナカリシコト
② 軍ノ管理セル捕虜ヲ一名ニテモ逃亡サスコトハ軍ノ威信ニ係ハリ不名誉トナルコト
③ 極力、事件ノ明ルミニ出ルコトヲ避ケントセシコト。軍法会議ニカケテ正式ニ処刑スルコトハ事件を明ルミニ出スコトニナルコト
④ 日本内地ニ於テハ捕虜逃亡事件ハ前例乏シク重大卜考へ過ギ秘密裡ニ処理セント努力セシコト…」 (要約)。
しかしながら、倉西中尉が関連した逃亡捕虜の中には正式に軍法会議で裁かれた者もいた。
倉西中尉もタイラー事件以前に逃亡捕虜の軍法会議に参加した。中尉はその捕虜の弁護に当たったことを記している。
「多奈川分所ベン・マグドン (捕虜名)、昭和十九年三月二十四日逃亡、同年四月二十日、中部軍軍法会議裁判ニ於テ懲役十年、判決ヲ受ク。倉西少尉 (当時) ハ法廷ニ立チ、マグドンヲ弁護ス。マグドン余ヲ振返り見テ泣イテ感謝ス。マグドンニ尋ネラレタシ。神岡分所ノ逃亡捕虜卜共ニ九月 (恐らく終戦の年、昭和二十年だろう)出獄、帰国ス」
倉西中尉にとっては、捕虜タイラーが多奈川分所の所属する大阪捕虜収容所 (本所) の指示により、同本所の幹部の手で移送中に、予期せぬ状態で死亡したことが残念だったのだろう。せめて正規の軍法会議で裁かれるまで生きていてほしかったと願っていたのではないか。中尉のメモは、こうした思いと、戦争、タテ組織の軍隊など、さまざまな矛盾との葛藤《かっとう》を推察と実例で明示したのではなかろうか。
倉西中尉の在勤中、病死捕虜について
「昭和十八年ニハ月一人位、十九年夏、秋ニハ一人モナキ月ガ数ヶ月続イタ。主ナ疾患ハ大腸炎、肺炎等ナリ」とある。「公傷死ハ一名モナシ。公傷患者ハ月ニ、三名アリ。発生毎ニ現場指導員又ハ飛島組中野部長ヲ召喚、厳重訊問調査、作業方法の改良ヲ要求、実施セシム。公傷患者ハ川崎診療所ニ依頼、手当ヲ受ケシムル。立入禁止区域ニ労役中遊ビニ行キ墜落、片足切断、又製材中、鋸ニテ指三本切断等、三名ノ重公傷者ニハ日本工場法ニ従ヒ慰労金ヲ会社側ヨリ交付セシム」
労役現場などでの事件も多く、腐心したことがうかがえる。
「荒仕事ナル故、事故多シ。第三国人(朝鮮系の人たち)トノ事故(件)、現場指導員ノ殴打事件等アル毎ニ両者ヲ呼ビ訊問、責任者ヲ厳重訓戒。捕虜ヲ殴打セル者等ニハ必要ニ応じ現場ヨリ放逐。分所長ハ毎日、現場ニ出テ直接監督指導ス。又現場監督指導者等ニハ捕虜使用方法ヲ説明、第三国人モ含メ作業員全員ヲ集メテ、私的制裁ノ厳禁ヲ申渡スコト屡々《しばしば》…」
労役捕虜への配慮にとくに留意し、あらぬ誤解を招いたようだ。
「労役分量モ現場責任者、捕虜労役責任者卜常ニ接渉、過労ナキ様監視ス。重労働ノ際ハ補食ヲ増量、時間延長労働ニハ翌日ノ稼動開始時間を遅クシ、休業サセル等ノ注意ヲ払ヒ、分所長自ラ之ヲ監視ス。之ガ為、分所長以下分所職員ハ捕虜ノ味方ナリトノ世評ヲ買ヒ、特二第三国人ヨリ敵視サレ、第三国人地域ノ通行ニハ警戒ヲ要スルニ至ル。一面、土工作業ハ捕虜ニ不適当ナルヲ以テ米捕虜ニ適セル機械作業ニ従事セシムル如ク村田本所長ニ意見具申スルコト屡々。シカシ許可サレズ」とある。
ところで、逃亡事件を起こしたタイラー捕虜に関連して倉西中尉は、当時の日本軍首脳部の捕虜に対する考え方を、自分の推察だとしながら次のようにメモに残している。
「余の推察
① 日本軍ノ勝利ヲノミ信ジアリタル軍首脳部ハ捕虜ノ生命卜戦争犯罪等ノコトハ毛頭念頭ニナカリシコト
② 軍ノ管理セル捕虜ヲ一名ニテモ逃亡サスコトハ軍ノ威信ニ係ハリ不名誉トナルコト
③ 極力、事件ノ明ルミニ出ルコトヲ避ケントセシコト。軍法会議ニカケテ正式ニ処刑スルコトハ事件を明ルミニ出スコトニナルコト
④ 日本内地ニ於テハ捕虜逃亡事件ハ前例乏シク重大卜考へ過ギ秘密裡ニ処理セント努力セシコト…」 (要約)。
しかしながら、倉西中尉が関連した逃亡捕虜の中には正式に軍法会議で裁かれた者もいた。
倉西中尉もタイラー事件以前に逃亡捕虜の軍法会議に参加した。中尉はその捕虜の弁護に当たったことを記している。
「多奈川分所ベン・マグドン (捕虜名)、昭和十九年三月二十四日逃亡、同年四月二十日、中部軍軍法会議裁判ニ於テ懲役十年、判決ヲ受ク。倉西少尉 (当時) ハ法廷ニ立チ、マグドンヲ弁護ス。マグドン余ヲ振返り見テ泣イテ感謝ス。マグドンニ尋ネラレタシ。神岡分所ノ逃亡捕虜卜共ニ九月 (恐らく終戦の年、昭和二十年だろう)出獄、帰国ス」
倉西中尉にとっては、捕虜タイラーが多奈川分所の所属する大阪捕虜収容所 (本所) の指示により、同本所の幹部の手で移送中に、予期せぬ状態で死亡したことが残念だったのだろう。せめて正規の軍法会議で裁かれるまで生きていてほしかったと願っていたのではないか。中尉のメモは、こうした思いと、戦争、タテ組織の軍隊など、さまざまな矛盾との葛藤《かっとう》を推察と実例で明示したのではなかろうか。
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編集者 (代理投稿)