捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・2
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編集者
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威力ある異国の友情・2
GHQ《=連合国軍最高司令官総司令部》の法務部で私の引き渡しが終わると二人の刑事は、すまなそうな表情で「ご苦労さまです」といって再び帰っていった。一人になった私は同法務部前の廊下で待つように指示された。
廊下に出てみると、多くの日本人が列をつくって立っている。身だしなみのキチンとした人、破れかけた国民服姿の人、肩章をはずした陸軍の将校制服姿の人。その誰もが黙りこみ、うなだれ、キョロキョロとあたりを見まわしている風だった。あとから聞いて知ったが、その列の中にはB級戦犯で裁かれた陸軍中将閣下や旧陸軍省の高官も数多くいたそうだ。「これから呼び出しがあると、調べの結果、容疑者として認定されれば旧陸軍省跡の巣鴨拘置所へ送られるそうだ」 私のすぐ前に並ぶ五十歳近くの陸軍将校服を着た人が意外にも笑顔でこう話しかけてきた。
「修養を積んだ大物将校だろう。この場で笑顔になれるとは…」 私のドキドキするような不安な気持ちはこの人のことばでいっそうその度を増す心地にさせられた。
その時だった。「コバヤシさーん、ファイヤー・ボール(収容時代に捕虜がつけた私のあだな)」英語なまりの日本語で私に話しかけるアメリカ陸軍の将校。顔をあげて驚いた。本当にびっくりした。あの生野の捕虜収容所で最高責任者だったフリニオ中佐(FLANKIN・M・FLINIAU)ではないか。しかもいまは「大佐」の肩章をつけている。
「何の用でここにいる?」「いやー、戦争犯罪の容疑参考人として大阪から日本の警察官に連れてこられた」「君が戦争犯罪容疑?」「私にも理由がわからないが、総司令部の指示で出頭せよと警察官はいっていた。参考人というが、戦犯容疑と認められるとすぐ巣鴨拘置所に護送されるということだ。とにかく、何のことか、私にはサッパリわからないことばかりだ」私の声は滅入るようにか細かったと思う。
こんなヤリトリをしたが、フリニオ〝大佐″は「君がそんなことでここに来るのは当たらない。ちょっと待っておれ。ところで〝あれ〃を持っているか? 私が収容所で渡した私の手紙を」「あなたのいった通り、いつも忘れずに持っている」「出しなさい。私が出てくるまでここで待っていてくれ」私は、待ってましたとばかりに、家を出るとき懐にした彼の手紙とガルブレイス大尉(10HN・M・GALBRAI↑H)が書いてくれた〝友情の手紙″を手渡した。
フリニオ〝大佐〃はそれをひったくるように受け取って小走りに法務部のある部屋に入っていった。
三十分も待っただろうか。フリニオ〝大佐″は廊下でしょんぽりしている私のそばにやってきて「もう巣鴨へ行かなくていいよ。すぐ大阪へ帰ってもよい。君と戦争犯罪はまったく無関係だ。いや、むしろ私らの本当の友人だ」とニコニコしながらいう。そして彼の手紙だけはまた返してくれた。半信半疑の私は「本当にすぐ大阪へ帰ってよいのか?」「そうだ」「ありがとう。あなたのおかげで私のドキドキする心臓が鎮《しず》まった」
彼は具体的なことは何もいわなかったが恐らく、あの〝友情の手紙〃を証言として私の潔白を主張してくれたのだろう。〝地獄で仏″とは文字通りこのことだ。私は彼の手を握りしめ、「本当に感謝します。ありがとう」と心からお礼をいった。並んで待つ他の人びとが不思議そうに眺めていたが、何とも気の毒に思えた。
「せっかく東京へ来たんだから、列車に乗るまでいっしょに食事をしよう」 彼は私の背をたたきながら誘ってくれた。総司令部近くのアメリカ軍キャンプ内の食堂で豪華な夕食をご馳走になった。先ほどまでの不安も吹っ飛び、三時間ばかり、ゆったりしたリラックス・ムードのなかで、なつかしい話を交わした。彼は帰国前、すぐ連合軍総司令部勤務を命じられたようだ。本国への帰国を控えていたようで、軍服姿の大きな写真を贈ってくれた。
「大阪に帰っても仕事がないなら、在阪アメリカ占領軍でもう一度、通訳として働いた方がよい。大阪にはアメリカ第一軍団が駐留している。帰ったらすぐ私の手紙をもって同軍団司令部へ行くとよい」「そうしよう。あなたの手紙を持って、軍団とそこに働く日本人のお役に立つよう頑張ります。ありがとう」「ところで、収容所時代の君の役割は本当に重要だった。こんごそれに関連することで総司令部が参考意見を聞くことがあるかも知れないので、居所だけは常に明らかにしておいてくれ。もちろん、いかなることがあってももう君に不利になることは絶対にないのだから…」。
なつかしい対面と会食の時間を終わって、私は彼と再会を約しながら、夜行列車に乗り込み、大阪へ向かった。それにしても人間の一寸先はわからない。あの総司令部の廊下で彼、フリニオ〝大佐〃に出合わなかったら、心に一点のやましいところがないとはいえ、私の運命はどうなっていただろう。あの廊下に並んでいた人びと、いやすでに巣鴨に拘置され、軍事法廷の裁きを受けた人の中にも、的確な証言が得られぬまま容疑をかけられ、心にもない罪を背負って受刑者の烙印を押された人があるのではないか。この疑問が一瞬、私の脳裏をかすめたのは、戦争という特殊な条件の犯罪を裁くという、いわば「勝者」と「敗者」の論理が存在すると思ったからか。幸い私はフリニオ〝大佐〃という大きな恩人、よき友、よき証言者があの場に居合わせたおかげで即刻、何の調べもなく解放された。まさに"天国"と〝地獄″の紙一重の差を味わった。それだけに余計に戦犯問題〃を身近なこととして考えさせられるのである。
それにしても、その私とは対照的な人生の終幕を閉じた人のことが思い出される。戦後三年目風の便りに聞いたことだが、一緒に働いていた先輩通訳は、捕虜虐待の罪で処刑されたという。一年ばかり一緒に働いたが、彼が捕虜を殴るなどの暴行現場を見たことはない。私に実用英語を教えてくれたり、捕虜のために所属会社にかけ合って日用品などの獲得に奔走《ほんそう》したことを見聞したことはある。そんな彼が死刑という極刑をうけるとは。本当に理解に苦しむ。ここでも戦犯裁判の〝正当性〃に多くの不満と疑問を抱かせる。彼と私の運命の落差に本当に驚き、涙なしには思い出せない。いま心から彼のご冥福《めいふく》を祈る者である。
GHQ《=連合国軍最高司令官総司令部》の法務部で私の引き渡しが終わると二人の刑事は、すまなそうな表情で「ご苦労さまです」といって再び帰っていった。一人になった私は同法務部前の廊下で待つように指示された。
廊下に出てみると、多くの日本人が列をつくって立っている。身だしなみのキチンとした人、破れかけた国民服姿の人、肩章をはずした陸軍の将校制服姿の人。その誰もが黙りこみ、うなだれ、キョロキョロとあたりを見まわしている風だった。あとから聞いて知ったが、その列の中にはB級戦犯で裁かれた陸軍中将閣下や旧陸軍省の高官も数多くいたそうだ。「これから呼び出しがあると、調べの結果、容疑者として認定されれば旧陸軍省跡の巣鴨拘置所へ送られるそうだ」 私のすぐ前に並ぶ五十歳近くの陸軍将校服を着た人が意外にも笑顔でこう話しかけてきた。
「修養を積んだ大物将校だろう。この場で笑顔になれるとは…」 私のドキドキするような不安な気持ちはこの人のことばでいっそうその度を増す心地にさせられた。
その時だった。「コバヤシさーん、ファイヤー・ボール(収容時代に捕虜がつけた私のあだな)」英語なまりの日本語で私に話しかけるアメリカ陸軍の将校。顔をあげて驚いた。本当にびっくりした。あの生野の捕虜収容所で最高責任者だったフリニオ中佐(FLANKIN・M・FLINIAU)ではないか。しかもいまは「大佐」の肩章をつけている。
「何の用でここにいる?」「いやー、戦争犯罪の容疑参考人として大阪から日本の警察官に連れてこられた」「君が戦争犯罪容疑?」「私にも理由がわからないが、総司令部の指示で出頭せよと警察官はいっていた。参考人というが、戦犯容疑と認められるとすぐ巣鴨拘置所に護送されるということだ。とにかく、何のことか、私にはサッパリわからないことばかりだ」私の声は滅入るようにか細かったと思う。
こんなヤリトリをしたが、フリニオ〝大佐″は「君がそんなことでここに来るのは当たらない。ちょっと待っておれ。ところで〝あれ〃を持っているか? 私が収容所で渡した私の手紙を」「あなたのいった通り、いつも忘れずに持っている」「出しなさい。私が出てくるまでここで待っていてくれ」私は、待ってましたとばかりに、家を出るとき懐にした彼の手紙とガルブレイス大尉(10HN・M・GALBRAI↑H)が書いてくれた〝友情の手紙″を手渡した。
フリニオ〝大佐〃はそれをひったくるように受け取って小走りに法務部のある部屋に入っていった。
三十分も待っただろうか。フリニオ〝大佐″は廊下でしょんぽりしている私のそばにやってきて「もう巣鴨へ行かなくていいよ。すぐ大阪へ帰ってもよい。君と戦争犯罪はまったく無関係だ。いや、むしろ私らの本当の友人だ」とニコニコしながらいう。そして彼の手紙だけはまた返してくれた。半信半疑の私は「本当にすぐ大阪へ帰ってよいのか?」「そうだ」「ありがとう。あなたのおかげで私のドキドキする心臓が鎮《しず》まった」
彼は具体的なことは何もいわなかったが恐らく、あの〝友情の手紙〃を証言として私の潔白を主張してくれたのだろう。〝地獄で仏″とは文字通りこのことだ。私は彼の手を握りしめ、「本当に感謝します。ありがとう」と心からお礼をいった。並んで待つ他の人びとが不思議そうに眺めていたが、何とも気の毒に思えた。
「せっかく東京へ来たんだから、列車に乗るまでいっしょに食事をしよう」 彼は私の背をたたきながら誘ってくれた。総司令部近くのアメリカ軍キャンプ内の食堂で豪華な夕食をご馳走になった。先ほどまでの不安も吹っ飛び、三時間ばかり、ゆったりしたリラックス・ムードのなかで、なつかしい話を交わした。彼は帰国前、すぐ連合軍総司令部勤務を命じられたようだ。本国への帰国を控えていたようで、軍服姿の大きな写真を贈ってくれた。
「大阪に帰っても仕事がないなら、在阪アメリカ占領軍でもう一度、通訳として働いた方がよい。大阪にはアメリカ第一軍団が駐留している。帰ったらすぐ私の手紙をもって同軍団司令部へ行くとよい」「そうしよう。あなたの手紙を持って、軍団とそこに働く日本人のお役に立つよう頑張ります。ありがとう」「ところで、収容所時代の君の役割は本当に重要だった。こんごそれに関連することで総司令部が参考意見を聞くことがあるかも知れないので、居所だけは常に明らかにしておいてくれ。もちろん、いかなることがあってももう君に不利になることは絶対にないのだから…」。
なつかしい対面と会食の時間を終わって、私は彼と再会を約しながら、夜行列車に乗り込み、大阪へ向かった。それにしても人間の一寸先はわからない。あの総司令部の廊下で彼、フリニオ〝大佐〃に出合わなかったら、心に一点のやましいところがないとはいえ、私の運命はどうなっていただろう。あの廊下に並んでいた人びと、いやすでに巣鴨に拘置され、軍事法廷の裁きを受けた人の中にも、的確な証言が得られぬまま容疑をかけられ、心にもない罪を背負って受刑者の烙印を押された人があるのではないか。この疑問が一瞬、私の脳裏をかすめたのは、戦争という特殊な条件の犯罪を裁くという、いわば「勝者」と「敗者」の論理が存在すると思ったからか。幸い私はフリニオ〝大佐〃という大きな恩人、よき友、よき証言者があの場に居合わせたおかげで即刻、何の調べもなく解放された。まさに"天国"と〝地獄″の紙一重の差を味わった。それだけに余計に戦犯問題〃を身近なこととして考えさせられるのである。
それにしても、その私とは対照的な人生の終幕を閉じた人のことが思い出される。戦後三年目風の便りに聞いたことだが、一緒に働いていた先輩通訳は、捕虜虐待の罪で処刑されたという。一年ばかり一緒に働いたが、彼が捕虜を殴るなどの暴行現場を見たことはない。私に実用英語を教えてくれたり、捕虜のために所属会社にかけ合って日用品などの獲得に奔走《ほんそう》したことを見聞したことはある。そんな彼が死刑という極刑をうけるとは。本当に理解に苦しむ。ここでも戦犯裁判の〝正当性〃に多くの不満と疑問を抱かせる。彼と私の運命の落差に本当に驚き、涙なしには思い出せない。いま心から彼のご冥福《めいふく》を祈る者である。
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編集者 (代理投稿)