捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・7
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娘が語る恩情の父・収容所長・2
家で母と話している父のことばの中に、〝ブロードウオーター〃とか〃ガルブレイス″とかの英語がたびたび出てきたのを記憶している。「あのころの私には何のことかわかりませんでしたが、よく出てきたことばなので自然に覚えた気がします。いまから思えば、収容所でお互いによく話し合った捕虜だったので、家に帰ってその話題を話していたのかもしれません」《倉西中尉は専門が英語だっただけに、通訳抜きで直接、必要な日常会話を捕虜と交わすことができた。ブロードウオーターさんやガルブレイスさんらとは、私(小林)もとくに親密だったが、倉西中尉も〝話せる友〃として節度あるつき合いがあったようだ》終戦の二十年(一九四五)十二月初め頃だったと思う。倉西中尉はGHQ(占領軍総司令部)の呼び出しを受け、そのまま巣鴨拘置所にC級戦犯の容疑で収監された。逃亡捕虜を虐待した責任者としての疑いだった。「いま思うと、陸軍中尉、捕虜収容所長という立場にいた父だから、身に覚えはなくても、当然その責任を追及されると考えていたのか、呼び出しがあっても、あわてる気配もなく、ごく普通に巣鴨へ行ったようでした。母とも落ち着いた態度で話をしていました」こども心に見た終戦後、間もないころの父は、まだ日本軍人としての凛々《りり》しさの残った人に映っていたのは確かだ。まして私にとって、あのやさしく抱きあげ、遊んでくれたアメリカ兵に日本が負けたとは思うはずもなかった。戦犯が何かということもわからないミネ子さん。勝った連合国軍側の強制収監命令で上京する意味さえわからなかったのは当然だった。
父が普段と変わらず、落ち着いた態度だったので、余計にそう思い、何かの用事で遠いところへ行くくらいの軽い気持ちでその出発を見送ったという。
そのご父は年末はもちろん正月にも帰ってこなかった。母に聞いても「軍の用事で長びいている」というだけだった。しかし年も明けたころから母の顔も淋しさがただよい始めてきた。
このころから、父に何かあったという気がおぼろげながらしてきた。たしか年が明けた二月終わりか三月始めごろだったと思う。母といっしょに巣鴨拘置所へ父との面会に行ったことがあった。復員列車(内外地に出征していた日本軍兵士が武装解除されたあと、解散してそれぞれ帰郷するために乗った特別列車) に乗って大阪駅から東京駅まで行ったが、終戦間もないころとあって、列車の窓はこわれてなかったり、薄い板が打ちつけてあったり、おまけに復員兵で超満員、座席に座ることもできず、トンネルに入ると燃料の石炭から出る黒いススが車内にいっぱい入ってきて、手も足も顔真っ黒になった。鼻の穴はもちろん真っ黒、そんな列車に八-九時間揺られ、立ち寝をしたり、人の寝ている足や体を枕に寝込み、東京駅に着いた時にはすっかり疲れ果てていた。それでも母の声に元気づけられ、タクシーもない焼け野原の東京の町を人力車に乗って拘置所にたどり着いた時には、もうへトヘトのありさまだった。入り口で立番しているMP(アメリカ軍憲兵)が私の黒い顔を見て大笑いしながら、しかしそれが愛矯となってプラスしたのか、難なく中に入れてくれた。
拘置所内の面会所で待っていると金網の向こうにMPに連れられた男があらわれた。よく見るとそれが父だった。金網越しに私たちの方へやってきた。母は声もなく、じ一つと父を見つめ「お元気ですね」とだけいったが、私は「汽車に煙が入り真っ黒。疲れてしまい、元気あらへん」といって笑ったことを思い出す。その姿がひょうきんに見えたのか、一瞬父も笑ったようだったが、あとは母とことばを交わし、時折り私の方にも語りかけ「お母さんのいうことをよく聞いて待っていなさい」などと、例の落ち着いた口調でいったのを覚えている。十分ぐらい経っただろうか。あのMPがやってきて、父の背中をつつき、連れていった。父は「元気で…心配はいらん」といいたげな表情で母と私を見つめながら消えていった。「お父さんは何も悪いことはしていないけど、責任者だったので事情を聞かれている。がまんして待っていましょぅね」母のことばから、私はこの時、始めて〝戦犯″ということばと、その意味を知らされ、何か恐ろしいことが父の身の上に起きているということを、おぼろげながら悟ったようだった。
「たったあれだけの短い時間、父に会うために、長く辛い思いをして列車に揺られ、東京まで出てきたと思うと、久しぶりに父に会った喜びよりも先に腹が立ちました。こどものころだったのでそんな甘えがあったのでしょうね」とミネ子さんはふり返っている。「あとになって母が私にいいました。あの時はもうお父さんに会うのは最後になるのではという思いの面会だったそうです。だから〝武人″〝教師″の妻らしく決して涙を見せるべきではない。人の範になるような〝大和撫子″(やまとなでしこ。か弱いながらも、凛々しさのある日本女性の美称)としての態度で父を見送ろうと、決意の面会をしたそうです。この話を聞いた時には、母もあの時代に育ったすばらしい女性だったと、つくづく見直すほどでした。父も母も、私には本当にすばらしい、すてきな、誇ることのできる親だったと、自信をもっていえます」いまは亡き両親を思い出すミネ子さんのことばには、力がこもり、表情も明るかった。
倉西さんは、捕虜だった人々の証言や友情の嘆願書が相次いでGHQに寄せられ、起訴されることなく、捕虜虐待という無実の容疑も晴れて釈放され、拘置所生活半年で、その年の五月末に帰宅した。
私(小林)も〝倉西中尉″の無実を証明するため、収容所時代の捕虜の友などに積極的な働きかけをしたことを思い出す。その甲斐があった。本当によかった。「父はもともと罪状を課せられるようなことをしていなかったと信じていましたが、小林さんはもちろん、関係者のみなさま方の献身的な奔走《ほんそう》で起訴もされなかったことをとっても感謝していました。
母も心から喜び、ともどもお礼のいいようもないと、よくいっていました」娘としてミネ子さんの喜びもひとしおだったに違いない。
捕虜収容所時代の友だったロバート・J・ブロードウォーターさん (ROBERT・J・B
ROADWATER) が昭和二十四年 (一九四九) 七月末に突然、堺市南田出井町にあったミネ子さんの実家を訪問した記憶は鮮やかに残っている。あの時、父・泰次郎さんは旧職に復帰し、学校で教鞭をとっていたので不在だった。母、緑さんとミネ子の二人だけが会った。「ブロードウォーターさんは日本語まじりで私らにわかるように、いろいろと懐しい話をされ、後日、私ら家族ともう一度会う約束をして帰られました」 というミネ子さん。父を心から尊敬していたというブロードウオーターさんはすでにコカコーラに勤務し、将来を嘱望される若きエースとして日本とアメリカ間を往復する多忙な身だった。その合い間を縫っての訪問だった、そして約束通り、数日後に神戸オリエンタル・ホテルでミネ子さん一家と彼が会い、食事をともにしながら団らんのひとときを過ごした。彼はコカコーラの神戸営業所を視察するためにやってきたということだった。
ミネ子さんの両親への思い出は尽きないが、次のようなことばで結んでくれた。「もちろん、捕虜収容所時代にどんなことがあったのか、私にはまったくわかりませんが、あとになっていろいろな日米の関係者から聞くと、一様に〝情厚い人間″〝冷静だった人〟という父の印象がはね返ってきました。家庭にあっても外にあっても、終始変わることがなかったんだなあと、父の態度に尊敬の念さえわきました。その父を信じ、温く家庭を守った母とはとっても似合いの静かな夫婦だったと思います。ともにいまはいませんが、内からも外からも同じように見られた父と母は、本当に幸福だったと思います」いま天国で静かに眠るご夫婦のご冥福を心からお祈りする。
ミネ子さんは昭和三十七年(一九六二) に家具商を経営する夫・生夫さんと結婚、一男一女(ともに成人)をもうけ、両親の思い出を胸に、幸福に暮らしている。
家で母と話している父のことばの中に、〝ブロードウオーター〃とか〃ガルブレイス″とかの英語がたびたび出てきたのを記憶している。「あのころの私には何のことかわかりませんでしたが、よく出てきたことばなので自然に覚えた気がします。いまから思えば、収容所でお互いによく話し合った捕虜だったので、家に帰ってその話題を話していたのかもしれません」《倉西中尉は専門が英語だっただけに、通訳抜きで直接、必要な日常会話を捕虜と交わすことができた。ブロードウオーターさんやガルブレイスさんらとは、私(小林)もとくに親密だったが、倉西中尉も〝話せる友〃として節度あるつき合いがあったようだ》終戦の二十年(一九四五)十二月初め頃だったと思う。倉西中尉はGHQ(占領軍総司令部)の呼び出しを受け、そのまま巣鴨拘置所にC級戦犯の容疑で収監された。逃亡捕虜を虐待した責任者としての疑いだった。「いま思うと、陸軍中尉、捕虜収容所長という立場にいた父だから、身に覚えはなくても、当然その責任を追及されると考えていたのか、呼び出しがあっても、あわてる気配もなく、ごく普通に巣鴨へ行ったようでした。母とも落ち着いた態度で話をしていました」こども心に見た終戦後、間もないころの父は、まだ日本軍人としての凛々《りり》しさの残った人に映っていたのは確かだ。まして私にとって、あのやさしく抱きあげ、遊んでくれたアメリカ兵に日本が負けたとは思うはずもなかった。戦犯が何かということもわからないミネ子さん。勝った連合国軍側の強制収監命令で上京する意味さえわからなかったのは当然だった。
父が普段と変わらず、落ち着いた態度だったので、余計にそう思い、何かの用事で遠いところへ行くくらいの軽い気持ちでその出発を見送ったという。
そのご父は年末はもちろん正月にも帰ってこなかった。母に聞いても「軍の用事で長びいている」というだけだった。しかし年も明けたころから母の顔も淋しさがただよい始めてきた。
このころから、父に何かあったという気がおぼろげながらしてきた。たしか年が明けた二月終わりか三月始めごろだったと思う。母といっしょに巣鴨拘置所へ父との面会に行ったことがあった。復員列車(内外地に出征していた日本軍兵士が武装解除されたあと、解散してそれぞれ帰郷するために乗った特別列車) に乗って大阪駅から東京駅まで行ったが、終戦間もないころとあって、列車の窓はこわれてなかったり、薄い板が打ちつけてあったり、おまけに復員兵で超満員、座席に座ることもできず、トンネルに入ると燃料の石炭から出る黒いススが車内にいっぱい入ってきて、手も足も顔真っ黒になった。鼻の穴はもちろん真っ黒、そんな列車に八-九時間揺られ、立ち寝をしたり、人の寝ている足や体を枕に寝込み、東京駅に着いた時にはすっかり疲れ果てていた。それでも母の声に元気づけられ、タクシーもない焼け野原の東京の町を人力車に乗って拘置所にたどり着いた時には、もうへトヘトのありさまだった。入り口で立番しているMP(アメリカ軍憲兵)が私の黒い顔を見て大笑いしながら、しかしそれが愛矯となってプラスしたのか、難なく中に入れてくれた。
拘置所内の面会所で待っていると金網の向こうにMPに連れられた男があらわれた。よく見るとそれが父だった。金網越しに私たちの方へやってきた。母は声もなく、じ一つと父を見つめ「お元気ですね」とだけいったが、私は「汽車に煙が入り真っ黒。疲れてしまい、元気あらへん」といって笑ったことを思い出す。その姿がひょうきんに見えたのか、一瞬父も笑ったようだったが、あとは母とことばを交わし、時折り私の方にも語りかけ「お母さんのいうことをよく聞いて待っていなさい」などと、例の落ち着いた口調でいったのを覚えている。十分ぐらい経っただろうか。あのMPがやってきて、父の背中をつつき、連れていった。父は「元気で…心配はいらん」といいたげな表情で母と私を見つめながら消えていった。「お父さんは何も悪いことはしていないけど、責任者だったので事情を聞かれている。がまんして待っていましょぅね」母のことばから、私はこの時、始めて〝戦犯″ということばと、その意味を知らされ、何か恐ろしいことが父の身の上に起きているということを、おぼろげながら悟ったようだった。
「たったあれだけの短い時間、父に会うために、長く辛い思いをして列車に揺られ、東京まで出てきたと思うと、久しぶりに父に会った喜びよりも先に腹が立ちました。こどものころだったのでそんな甘えがあったのでしょうね」とミネ子さんはふり返っている。「あとになって母が私にいいました。あの時はもうお父さんに会うのは最後になるのではという思いの面会だったそうです。だから〝武人″〝教師″の妻らしく決して涙を見せるべきではない。人の範になるような〝大和撫子″(やまとなでしこ。か弱いながらも、凛々しさのある日本女性の美称)としての態度で父を見送ろうと、決意の面会をしたそうです。この話を聞いた時には、母もあの時代に育ったすばらしい女性だったと、つくづく見直すほどでした。父も母も、私には本当にすばらしい、すてきな、誇ることのできる親だったと、自信をもっていえます」いまは亡き両親を思い出すミネ子さんのことばには、力がこもり、表情も明るかった。
倉西さんは、捕虜だった人々の証言や友情の嘆願書が相次いでGHQに寄せられ、起訴されることなく、捕虜虐待という無実の容疑も晴れて釈放され、拘置所生活半年で、その年の五月末に帰宅した。
私(小林)も〝倉西中尉″の無実を証明するため、収容所時代の捕虜の友などに積極的な働きかけをしたことを思い出す。その甲斐があった。本当によかった。「父はもともと罪状を課せられるようなことをしていなかったと信じていましたが、小林さんはもちろん、関係者のみなさま方の献身的な奔走《ほんそう》で起訴もされなかったことをとっても感謝していました。
母も心から喜び、ともどもお礼のいいようもないと、よくいっていました」娘としてミネ子さんの喜びもひとしおだったに違いない。
捕虜収容所時代の友だったロバート・J・ブロードウォーターさん (ROBERT・J・B
ROADWATER) が昭和二十四年 (一九四九) 七月末に突然、堺市南田出井町にあったミネ子さんの実家を訪問した記憶は鮮やかに残っている。あの時、父・泰次郎さんは旧職に復帰し、学校で教鞭をとっていたので不在だった。母、緑さんとミネ子の二人だけが会った。「ブロードウォーターさんは日本語まじりで私らにわかるように、いろいろと懐しい話をされ、後日、私ら家族ともう一度会う約束をして帰られました」 というミネ子さん。父を心から尊敬していたというブロードウオーターさんはすでにコカコーラに勤務し、将来を嘱望される若きエースとして日本とアメリカ間を往復する多忙な身だった。その合い間を縫っての訪問だった、そして約束通り、数日後に神戸オリエンタル・ホテルでミネ子さん一家と彼が会い、食事をともにしながら団らんのひとときを過ごした。彼はコカコーラの神戸営業所を視察するためにやってきたということだった。
ミネ子さんの両親への思い出は尽きないが、次のようなことばで結んでくれた。「もちろん、捕虜収容所時代にどんなことがあったのか、私にはまったくわかりませんが、あとになっていろいろな日米の関係者から聞くと、一様に〝情厚い人間″〝冷静だった人〟という父の印象がはね返ってきました。家庭にあっても外にあっても、終始変わることがなかったんだなあと、父の態度に尊敬の念さえわきました。その父を信じ、温く家庭を守った母とはとっても似合いの静かな夫婦だったと思います。ともにいまはいませんが、内からも外からも同じように見られた父と母は、本当に幸福だったと思います」いま天国で静かに眠るご夫婦のご冥福を心からお祈りする。
ミネ子さんは昭和三十七年(一九六二) に家具商を経営する夫・生夫さんと結婚、一男一女(ともに成人)をもうけ、両親の思い出を胸に、幸福に暮らしている。
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編集者 (代理投稿)