捕虜と通訳 (小林 一雄)第二部・8
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編集者
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収容所長の巣鴨メモ・1
寂しさに 妻子の名をも 呼びて見つ
遠走る 汽車の車輪 響けり
大阪捕虜収容所多奈川分所長・倉西泰次郎中尉が終戦直後、C級戦犯の容疑でGHQ(連合軍総司令部)によって巣鴨拘置所に収容されたことは既述した。倉西中尉はここで、収容所の運営・管理、捕虜の暮らしぶり、労働状況、日本人職員、軍人の対応など、すべての点について、厳しい取り調べを受けたという。結局、五か月後に罪状なく、起訴されずに釈放されたが、拘置所内では連日の尋問にありのままを供述しようと、過去の行動の記憶をたどりながらメモし、拘置所内の起居動作《=日常のふるまい》を日記帳に記してきた。冒頭の歌はその一つだが、部下の行為に責任を持つ立ち場の人として、ある時は部下の行動をかばい、一貫して捕虜を気遣い、軍規の中で過ごした追憶。
一転、獄舎につながれ家族を思い、行く末を案じながらも歌を詠じ、戦犯容疑者たちと語らう日々だった。この項はその前編として巣鴨の「獄中メモ (覚書)」を抜粋した。
「昭和二十一年一月十一日 タイラー事件第一回訊問《じんもん》‥・」倉西中尉に重くのしかかった事件だっただけに、これがメモの書き出しだった。中尉は終戦の年(昭和二十年)の十二月五日に巣鴨拘置所に拘留された。掃虜収容所の多奈川分所長として在職中の全責任者だったため、GHQ戦犯追及の動きとともに拘留され、まず捕虜に関係する事件を細かく尋問された。その第一回尋問を前に、記憶を整理するためだったのか、日誌とは別の覚書用紙にメモ書きの形で在職中の主要事件、対応や行動を詳細に記述している。
「勤務中ノ事件タイラーノ件(注 タイラーは脱走した捕虜名)
昭和十八年八月二十九日(日曜)〇八・〇〇頃 峰本、市場(各軍曹)、堺ノ自宅二来リタイラー逃亡、捕縛ノ件報告(夜来、再三電話スルモ故障ノタメ不通)。《二十八日消灯(二〇・三〇)前後逃亡、東畑部落ニ至ル、二四・〇〇頃逮捕連レ帰ル》直チニ両軍曹ヲ伴ヒ本所へ報告ノタメ出発、金田副官宅ヨリ本所こ向フ。本所ニテ副官ニ報告、峰本ト二人ニテ伏見ノ本所長(大阪捕虜収容所長)宅ニ向フ。伏見観月橋駅ニテ本所長来ルニ会ヒ、駅頭ニテ概略報告、共ニ本所ニ向フ。金田大尉、市場軍曹卜共ニ既ニ多奈川ニ出発セル後ナリ。本所長ニ改メテ詳細報告。二十九日夕、峰本卜多奈川ニ帰着。金田大尉ハ既ニタイラーヲ連レ実地検証ヲナシ訊問調査ヲ終了。ソレ以後ノ事ハ凡テ金田大尉指揮命令サレタルヲ以テ余ノ記憶明瞭《めいりよう》ナラズ。(以下略)」
捕虜タイラーが逃亡した事件の事後処理について克明に記されている。このあと倉西中尉は営倉のタイラーを見て本所副官、金田郁平大尉の宿泊旅館(常遼屋)に行き同大尉と話している。
しかし「金田大尉ハ事件ニ関シテ殆ンド語ラズ。タダ
① タイラーハ本所ニ移管スルコト
② 二、三日中ニ将校ヲ派遣シタイラーヲ護送セシムルコト、ノ二項ヲ聞イタダケ」とある。
多分三十日カ三十一日ノ早朝(六時頃)野須軍医(本所勤務)、外山衛生兵、川原傭人三名ニテタイラーヲトラックニ乗セ本所ニ向フ」
これより前、本所の所長、村田宗太郎大佐から指示命令を受けた。「八・二九午後命令事項
① 金田大尉ヲ派遣事件処理ニ当タラシメル。金田大尉ノ指揮ヲ受ケヨ
② 東畑部落(注=タイラーの逃亡場所)ニ早ク行キテタイラーガ世話ニナッタ謝礼ヲセヨ」これとは別に後日、受けた指示もある。
「本所長指示
① 事実ヲ決シテ漏ラスナ
②捕虜全員ヲ集メ訓示シ、タイラーハ本所へ移籍シ軍法会議ニテ裁判ニ廻ス準備中ナル旨伝達セヨ
③憲兵、警察其ノ他外部ニハ軍法会議ニテ裁判スル旨答ヘヨ」
というものだった。
タイラー事件についてはさら記述がつづく。「タイラー出発マデニ数回営倉ニテタイラーヲ見ル。朝夕必ズ営倉ヲ見廻ル。下士官以下職員衛兵ニハ特ニタイラーヲ殴打スル等暴行ヲ加ヘザル様注意ス。入倉中のタイラーハ出血ヤ傷ハ認メズ。給食ハ労役二服セザルモノトシテ五六〇瓦(?)ヲ与フ。炊事ヨリ衛兵所へ、衛兵ガ運ブ。タイラー犯行前ノ健康状態、就労状況正確ナル記憶ナシ。軽患者トシテ軽労働(製縄)-手伝ノ極軽キ労働---ニ従事セル様記憶ス…(中略)トラックニテ出発時ノタイラーヲ門デ見タガ偶々意気狙喪《そそう=気落ちする》セルノミニテ外傷等認メラレズ、モタレテ眼ヲ閉ジテ坐ッテ居タ様ニ思フ。薬ノ臭気鼻ヲ打ツ。出発後タイラーハ市岡(収容所か)へ向フ途中死亡セル旨外山衛生兵ヨリ聞ク。…(中略)スベテハ金田副官卜野須軍医ニテ処置セラレ、余ハ処置ニ関シ相談ヲ受ケタルコトナシ」(要約)。
倉西中尉はタイラーの急死に疑問を持ち、薬臭との関係に思い悩んだのではなかろうか。
寂しさに 妻子の名をも 呼びて見つ
遠走る 汽車の車輪 響けり
大阪捕虜収容所多奈川分所長・倉西泰次郎中尉が終戦直後、C級戦犯の容疑でGHQ(連合軍総司令部)によって巣鴨拘置所に収容されたことは既述した。倉西中尉はここで、収容所の運営・管理、捕虜の暮らしぶり、労働状況、日本人職員、軍人の対応など、すべての点について、厳しい取り調べを受けたという。結局、五か月後に罪状なく、起訴されずに釈放されたが、拘置所内では連日の尋問にありのままを供述しようと、過去の行動の記憶をたどりながらメモし、拘置所内の起居動作《=日常のふるまい》を日記帳に記してきた。冒頭の歌はその一つだが、部下の行為に責任を持つ立ち場の人として、ある時は部下の行動をかばい、一貫して捕虜を気遣い、軍規の中で過ごした追憶。
一転、獄舎につながれ家族を思い、行く末を案じながらも歌を詠じ、戦犯容疑者たちと語らう日々だった。この項はその前編として巣鴨の「獄中メモ (覚書)」を抜粋した。
「昭和二十一年一月十一日 タイラー事件第一回訊問《じんもん》‥・」倉西中尉に重くのしかかった事件だっただけに、これがメモの書き出しだった。中尉は終戦の年(昭和二十年)の十二月五日に巣鴨拘置所に拘留された。掃虜収容所の多奈川分所長として在職中の全責任者だったため、GHQ戦犯追及の動きとともに拘留され、まず捕虜に関係する事件を細かく尋問された。その第一回尋問を前に、記憶を整理するためだったのか、日誌とは別の覚書用紙にメモ書きの形で在職中の主要事件、対応や行動を詳細に記述している。
「勤務中ノ事件タイラーノ件(注 タイラーは脱走した捕虜名)
昭和十八年八月二十九日(日曜)〇八・〇〇頃 峰本、市場(各軍曹)、堺ノ自宅二来リタイラー逃亡、捕縛ノ件報告(夜来、再三電話スルモ故障ノタメ不通)。《二十八日消灯(二〇・三〇)前後逃亡、東畑部落ニ至ル、二四・〇〇頃逮捕連レ帰ル》直チニ両軍曹ヲ伴ヒ本所へ報告ノタメ出発、金田副官宅ヨリ本所こ向フ。本所ニテ副官ニ報告、峰本ト二人ニテ伏見ノ本所長(大阪捕虜収容所長)宅ニ向フ。伏見観月橋駅ニテ本所長来ルニ会ヒ、駅頭ニテ概略報告、共ニ本所ニ向フ。金田大尉、市場軍曹卜共ニ既ニ多奈川ニ出発セル後ナリ。本所長ニ改メテ詳細報告。二十九日夕、峰本卜多奈川ニ帰着。金田大尉ハ既ニタイラーヲ連レ実地検証ヲナシ訊問調査ヲ終了。ソレ以後ノ事ハ凡テ金田大尉指揮命令サレタルヲ以テ余ノ記憶明瞭《めいりよう》ナラズ。(以下略)」
捕虜タイラーが逃亡した事件の事後処理について克明に記されている。このあと倉西中尉は営倉のタイラーを見て本所副官、金田郁平大尉の宿泊旅館(常遼屋)に行き同大尉と話している。
しかし「金田大尉ハ事件ニ関シテ殆ンド語ラズ。タダ
① タイラーハ本所ニ移管スルコト
② 二、三日中ニ将校ヲ派遣シタイラーヲ護送セシムルコト、ノ二項ヲ聞イタダケ」とある。
多分三十日カ三十一日ノ早朝(六時頃)野須軍医(本所勤務)、外山衛生兵、川原傭人三名ニテタイラーヲトラックニ乗セ本所ニ向フ」
これより前、本所の所長、村田宗太郎大佐から指示命令を受けた。「八・二九午後命令事項
① 金田大尉ヲ派遣事件処理ニ当タラシメル。金田大尉ノ指揮ヲ受ケヨ
② 東畑部落(注=タイラーの逃亡場所)ニ早ク行キテタイラーガ世話ニナッタ謝礼ヲセヨ」これとは別に後日、受けた指示もある。
「本所長指示
① 事実ヲ決シテ漏ラスナ
②捕虜全員ヲ集メ訓示シ、タイラーハ本所へ移籍シ軍法会議ニテ裁判ニ廻ス準備中ナル旨伝達セヨ
③憲兵、警察其ノ他外部ニハ軍法会議ニテ裁判スル旨答ヘヨ」
というものだった。
タイラー事件についてはさら記述がつづく。「タイラー出発マデニ数回営倉ニテタイラーヲ見ル。朝夕必ズ営倉ヲ見廻ル。下士官以下職員衛兵ニハ特ニタイラーヲ殴打スル等暴行ヲ加ヘザル様注意ス。入倉中のタイラーハ出血ヤ傷ハ認メズ。給食ハ労役二服セザルモノトシテ五六〇瓦(?)ヲ与フ。炊事ヨリ衛兵所へ、衛兵ガ運ブ。タイラー犯行前ノ健康状態、就労状況正確ナル記憶ナシ。軽患者トシテ軽労働(製縄)-手伝ノ極軽キ労働---ニ従事セル様記憶ス…(中略)トラックニテ出発時ノタイラーヲ門デ見タガ偶々意気狙喪《そそう=気落ちする》セルノミニテ外傷等認メラレズ、モタレテ眼ヲ閉ジテ坐ッテ居タ様ニ思フ。薬ノ臭気鼻ヲ打ツ。出発後タイラーハ市岡(収容所か)へ向フ途中死亡セル旨外山衛生兵ヨリ聞ク。…(中略)スベテハ金田副官卜野須軍医ニテ処置セラレ、余ハ処置ニ関シ相談ヲ受ケタルコトナシ」(要約)。
倉西中尉はタイラーの急死に疑問を持ち、薬臭との関係に思い悩んだのではなかろうか。
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編集者 (代理投稿)