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硝煙の海 菊池 金雄

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/3/9 7:31
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 

 2 緒戦の海

 恵昭丸、海軍徴用船となる

 航空ガソリン輸送

 昭和十六年八月施行の「戦時海運管理要綱」に基づき、同月恵昭丸は海軍徴用船となり、横須賀鎮守府に配属になった。

 開戦直前には南洋群島方面へ、ドラム缶入りの航空ガソリンの輸送任務に従事した。当時これらの島々には海軍機が多数配備され、まるで開戦さながらのように飛び回っていた。この群島には大型船の荷役設備がないため、荷揚げ作業が長びき生鮮食料が枯渇気味となり、マーシャル諸島のケゼリン(クワンジェリン)環礁では釣り上げた南海の魚で栄養補給につとめた。約一ヵ月後やっと揚げ荷が完了し、横須賀へ帰航の途についた。


 「付記」

 南洋群島の日本海軍航空基地:
 下記Webによると、開戦時に南洋群島の島々に完成した陸上航 空基地は9箇所、水上航空基地は10箇所であったとのことである。

 参照Web http://www.kaho.biz/main/nanyo.html

 ところが入港の前夜(昭和十六年十二月七日)東京湾口で触雷した貨物船からSOSが発信された。

 誰も翌日開戦するなど知る筈もなく、一体日本海軍がどうなっているかと不審が高まったのは当然である。 不思議なことに、このSOSは尻切れになってしまった。おそらく海軍も大慌てしたことと思う。

 翌朝(昭和十六年十二月八日)、開戦のラジオ放送があり、横須賀港の水路を海軍の内火艇がジグザグに先導した。

 これは昨夜のうちに海軍が防潜策を行ったためであったろう。











前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/3/10 7:06
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 
 軍から叱責

 その後樺太から丸太を名古屋まで輸送した。名古屋港在泊中に長文の暗号電報を受信したが解読できないので、公衆電報でも再送を受けた。

 しかし全く同文の暗号で解読に至らないまま荷役が終わったので基地の横須賀に戻った。

 直ちに鎮守府から船長と局長が呼び出され、通信参謀からお目玉をくらった。理由は。該電報は佐世保への回航指令で、「なぜ暗号解読不可を申し出なかったか」と詰問され、早々に抜錨しなければならなかった。当時簡易な暗号解読の指導は受けていたが、長文の解読には慣熟していなかったためのハプニングであった。

 おそらく乗組員たちは「ぶつくら」言いながら佐世保に向かったことと思う。 佐世保軍港に入港後、上陸許可が出た。寒いのでオーバーのポケットに手を入れたまま衛門を出ようとしたら衛兵から「何たる恰好か」と、どやされてしまった。丁度、本船の機関長が海軍少佐の軍服姿で通りかかり「どうしたのか」と衛兵に言ったら無罪放免になり、将校の威厳を目のあたりにした。

 商船の士官でも、高等商船学校卒は海軍の予備将校であった。戦時、海防艦や輸送船で黙々と責務を果していたことは、あまり知られていないように思う。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/3/11 8:15
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 さらば恵昭丸

 兵庫県尼崎港を船出してから早くも二年が過ぎ去り、四六時中同じ釜の飯を食う五十余名の大家族的仲間とともに、太平洋を東奔西走して異国を見聞。山育ちのヒヨコも、潮やけしたいっぱしの船乗りになった。

 その間、久木原局長等親しい幹部の交代もあり、私はかねて二年をめどに、陸の空気や技量を充電したいと思っていたので、昭和十七年三月に下船した。

 当時、大会社以外は予備員制度がなく、一度下船すると会社との雇用関係が切れて給与は出なかった。パーサー(事務長)兼務の門広チーフオフサーが、給料日の都度私に「貯金しろよ」と忠告してくれた真意が、下船してから納得できた。

 時局がら、海運界にも戦時体制が敷かれ、同年四月「船舶運営会」(各船会社所有全船舶の運航と船員の配乗を一元的に管理する特別法人)が設立されたので、下船中も予備員として基本給が支給されるようになったことは幸いだった。


 恵昭丸の最後

 会社の記録によれば、恵昭丸は昭和十八年十月十二日、ラバウル港内で米機の空爆に遭い沈没。全員救出されている。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/3/12 7:33
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 高瑞丸(こうずいまる)

 占領地航路の高瑞丸こうずいまる

 南方航路

 昭和十七年六月九日、私は舞鶴鎮守府所属徴用船高瑞丸(七〇七二トン、乗組員四十八名)に乗船を命じられた。

 同船はラバウル攻略作戦の輸送任務から帰国したばかりで、戦火のほどぼりが覚めやらぬためか、大半が交代するありさまだった。

 当時本船は、わが社の最優秀船で船長はベテランの渡辺礼儀氏であった。

 局長は船務に小うるさいと評判の林銀次郎氏で、いささかうんざりする場面もあった。

 本船には最新型の無線機器が設備されていたが、敵の無線探知防止から電波管制が厳しくなり活用できない状況に追い込まれていた。

 スーパー方式の高性能受信機が設備されていても、林局長は故障すると大変だからと言って使用させなかった。  彼は古いタイプの無線技師でハード面には弱く、軍指定発信電波の自主調整にも消極的。万事がこんな調子で、宝のもちぐされの感がなきにしもあらずなので、私はこっそり活用のスルリを楽しむように立ち回っていた。

 高瑞丸の就航先は昭南島(シンガポール)や蘭印方面の占領地回りが主であった。

 緒戦当時、この海域のシーレーン(海上通商の常用航路)の制海、制空権は確保 されていたので、警乗の警戒隊員(対空、対潜武器専従の海軍兵)の任務は見張りが 主だった。往復スルー海コースが常用で、灯火管制下、キラめく南の星座は一瞬、戦時下の緊 張を癒(いや)してくれた。

 ジャワ島ではスラバヤに入港。現地人は日中の暑さをさけ、夕刻から街にくりだして賑わっていた。私たちもペチャ(人力三輪車)に乗り、ジャランジャラン(散歩)にでかけ南国情緒にひたった。ここは内地とくらべ衣食が豊富で住民も親日的であり、まるで宝の島のようだった。

 ある日、大日本航空(株)の台湾出身の同級生G君と街で偶然出会い、彼からフルコースのジャワ料理を奢られ、次々に運ばれるご馳走に目を見張ったことも懐かしい思い出である。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/3/13 8:08
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 マニラ湾に仮泊

 ジャワ島からの帰路、マニラ湾に仮泊したことがあった。港外はうねりがあり、海軍の機動艇移乗はタラップ(舷梯)でなくジャコップ(縄梯子)を使用した。

 うねりで上下する起動艇に飛び下りるタイミングが大変で、上陸をあきらめる者もいた。

 当時各輸送船には海軍の警戒隊員(輸送船装備の武器を取り扱う兵隊)が乗船し、彼らと船員がそれぞれ仲良く上陸した。

 私もマニラは初めてなので仲間と上陸、常夏の繁華街をぶらついた。

 ここはアメリカナイズの色濃く、派手な衣類や日用品等が店々にあふれ、現地女性の強烈な香水が鼻をついた。

 私はここでジレットの安全カミソリを買った記憶がある。

 市街にはほどよく街路樹があり、マニラ湾も絶景で南国のオアシスのように感じた。


 船内刺殺事件発生

 帰船する機動艇に乗り合わせた一人の酒に酔った海兵が、ジャコップ飛びつきに失敗して海に落ち、ずぶぬれのまま何の不満か司厨長室にどなり込む気配があった。

 司厨長はとっさに片手に柳包丁を持ち、ドアを内部から抑えていたが腕力でドアを開け、途端に海兵は柳包丁に自分からのしかかり、運悪く即死するという突発事故が起きてしまった。

 司厨長は「殺すつもりはなかった」と遺体に泣きくずれた姿は哀れであった。

 この海兵の不満の原因は、海兵側の軍票(戦地、占領地で軍が正貨に代えて発行する紙票)交換で事務長に不信があったらしく、司厨長の所掌外のことを誤解していたものと推察された。

 こともあろうに軍属が軍人を刺殺した形となったので、船長は経緯を詳しく軍に説明し、穏便な処理を要望したことは当然である。

 しかし残念ながら彼は拘束され、軍法会議に付されることになってしまった。

 彼は人柄もよくメニューも好評で、船側としては実に痛恨にたえない事件であった。

 当時、蘭印方面の航路は時々敵潜が出没する程度で、海兵たちは通常訓練と見張りが主で、船員からみると、なかば徒食しているようにも見えた。

 彼らと船員との仲は親密であったものの、手持ちぶたさから内心何か鬱積したものがあったのかも知れない。 本件処理は戦時下とはいえ、船員側としては甚だ遺憾にたえないものがあった。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/3/14 8:00
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 女性便乗者

 あるとき南方のどこかで、海軍関係の中年の婦人が一人内地まで便乗したことがあった。

 通常士官浴室に入浴中は履物で入浴者の有無が分かるようになっていた。私は入浴のためノーノックでドアを開けたら、彼女が入浴していたのでびっくりして逃げだしたことがあった。彼女は履物を浴室内に入れていたためのハプニングで、刺激に飢えている船内のビックニュースになってしまった。

 私はボーイに対し「履物が入浴中の目印」であることを、彼女にアドバイスしておくように注意したのは勿論である。

 一体この女性は、軍とどういう関わりのものであったろうか。


 油槽船不足対策

 近代戦は、石油が戦力持続上欠くことのできない血液であった。しかし戦争の長期化に伴ってタンカーの損耗が累増。これが代替に貨物船のタンカー転用が急務となった。

 本船も昭和十七年末、二十隻の改造対象船に入り、佐世保海軍工廠で応急タンカーに改造工事を行ない、翌年早々完成した。

 一月上旬佐世保で軍需品を積み込み、大同海運(株)からの南方子会社出向社員三名と沖仲仕十三名が便乗してシンガポールに向け出向。

 幸い敵潜にも遭わず、約一週間でセレター軍港に入港。ここで、シンガポールの子会社(大興運輸株)出向の川崎氏、およびボルネオのバリクパパンの子会社出向の二名や、沖仲仕が下船した。

 セレター軍港は、かっての英国東洋艦隊の根拠地。周辺の丘には洒落た宿舎が点在、眺望が素晴らしかった。私は仲間と白の制服で上陸し、海軍側の案内でジョホールの豪華な王宮を見学させてもらった。だが、帰船直前スコールに見舞われ、せっかくの正装も台なしだった。

 シンガポールの次はボルネオのタラカン島に回航。ここで本船は改造タンカーになって初めて原油を満載して徳山港に向かった。

 この船は、荷役中の船体トリム(釣り合い)が難しかったり、機関室に原油が浸潤するなど、危険千万な船であった。乗船中は、多少危険手当の割増しがあったが、誰もこのような船の勤務は敬遠したい思いであった。

 私は、幸い社命により昭和十八年六月本船を下船したので、この危険な船務は一航海だけで返上することができた。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/3/15 7:53
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 高瑞丸の最後

 戦史によると、これらの改造タンカーは油輸送に多大の貢献をしたが、敵潜水艦の猛威の前に次々と撃沈され、昭和十九年末には、ほとんど喪失してしまったようである。

 また、会社の記録によれば、高瑞丸も昭和十八年十月十四日、比島ルソン島沖で敵潜水艦の雷撃で沈没。幸い全乗員は救出されている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 付記

 大同海運社史にある高瑞丸の沈没地点(比島ルソン島沖)には疑問がある。それは、当事乗船中の吉田機関士の手記に沖縄近海で雷撃を受け沈没とあり、また「日本商船隊戦時遭難史」には、『昭和十八年十月三日昭南発、下津向け航行中十四日一六四四頃 27‐35N 127‐30E (那覇北北西百五十キロ付近)で,右舷百三十度 千メートル方向から雷撃をうけ、三本を回避。さらに同方向より二本が突入し、内一本が舵に命中。次いで右百度七百メートルよりまたも一本が接近し、6番船倉に命中、激しい浸水のため十五分後沈没。 便乗者二十一名 船員三名 雇人四名が戦死、重油を推定一万トン搭載。』と記録されている。他の資料等もほぼ同様の記述であることから、大同の社史にある沈没地点は誤りで、後者の戦記の地点が正しいように推定されるので、さらに確認につとめたい。

 大同の社史では船員戦死者ゼロとなっていたので、そのように本誌に載せたところ、愛読者より ”他の資料には戦死者あり” となっている、と忠告をうけたので、同船生存者に確認したところ「沈没後海軍に救出され佐世保に上陸。沈没は軍極秘とて小人数毎に旅館に分宿させられたので戦死者の有無は不詳」とのことでした。

 大同海運は他社と合併のため当時の記録が無く、今般殉職船員顕彰会に問い合わせたところ、高瑞丸の記録無しと回答がありました。戦没した船で戦死者があれば、当団体の名簿に登載される筈で、該船の記録がないことは、沈没時船員の戦死者が無かったものと認められ、会社の記録に信憑性があるものと思います。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/3/16 8:43
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 近海航路の第二大源丸(だいげんまる)

 北支~九州航路

 私は社命により高瑞丸を下船して半月後の昭和十八年七月十三日に第二大源丸(一九九九トン、乗組員約四十名)に無線局長として乗船した。

 今まで遠洋の大型船に乗っていたので、小型貨物船は初体験であった。

 就航先は主に北支(中国北部沿岸)と九州間の石炭輸送で、小さな港にしばしば出入するので出費が増えてしまった。

 次席通信士は年長の久保氏で、実務を如才なく処理してくれたので大助かりだった。

 エンジンはレシプロ式で、酷熱の機関室では火夫たちが玉のような汗を流しながら石炭を焚き、夜になるとアース(石炭灰)を機関室からチェーンブロックで「がらがら」と吊り上げて海面に投棄していた。

 このエンジンはディーゼルエンジン船にくらべると機関音が静かなのに、対象的にこの作業の騒音が妙に気になった。

 私は、この船で戦火のおよばない平時なみの航海を、大いに楽しむことができたように思う。


 第二大源丸(一九九九総トン)の最後

 (元大同海運所属・当時の所属 大洋興行)
 昭和二十年六月十日 空船で伏木を出港し、石炭搭載のため小樽向け単独で八ノットの速力で航行中、同日〇二四〇頃 N四三‐二六 E一四〇‐三六(北海道積丹岬北東十七粁付近)において、濃霧の海上で敵潜水艦の雷跡を右舷一四〇度三〇〇米に発見し、直ちに転舵したが三本中二本が機関室に命中、大爆発して急速度で沈没した。警戒隊員八名、船員三十八名、外八名戦死。

 出典『戦時船舶史』駒宮真七郎

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/3/17 8:39
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 3. 苦闘の海

 小型タンカー昭豊丸(しょうほうまる)

 戦時標準型船に乗る

 近海航路の第二大源丸に乗って八ケ月後の昭和十九年四月十日、私は播磨造船所松浦工場(戦後、石川島重工と合併)で建造中の戦時標準船のE型タンカー昭豊丸(八三五トン・乗組員二十八名)の、艤装員(新しい船をつくるとき、造船所に行って各部の工程のチェックに立会い、仕上げ後にその船の乗組員になる人をいう)を命じられた。

 逼迫してきた原油輸送船の補填のため、小型タンカーの増強建造が行われていた。 造船所の工員補助に受刑者も動員、船室各部は厳重に施錠するよう注意があったが、彼らはプロであるからドアの開錠など朝飯前で、厳戒態勢中での頻繁な窃盗は、稼業とはいえ見事ではあった。

 この船は三十五日間の突貫工事で進水(船台から海に浮かべること)、すぐ本州近海を処女航海したところ、漏水箇所が見つかりドックに逆もどりするありさまだった。

 その間に、この船はスマトラ島のパレンバン~昭南島(シンガポール)間の油のピストン輸送に二年間派遣との内報が入った。

 私は思えもかけぬ島流し的長期派遣に、大いに抵抗を感じてしまった。

 今にして思えば若気のいたりであるが、あの手この手で会社に交代者の派遣を要請してみた。

 結果。先輩の久保氏から「僕は新婚故、君がそのまま乗ってくれ」との連絡があった。

 そこで、次善策として次席通信士の増員を要求したところ、新卒の谷津君(二十才)が五月九日乗船したので、私の打つ手がなくなってしまった。

 その頃この種小型船は、通信士が一名乗船していればよいほうで、通信士ゼロの船もあった。よもや増援とは私には予想外で、会社の対応に戸惑うとともに、そこまで努力してくれたのでは、男子として潔く職務遂行を決意せざるを得なかった。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/3/19 8:22
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 いざ昭南島へ

 船体各部を入念に再点検して、五月下旬にドックを出て昭南島に向かった。

 当時の南方航路は敵の潜水艦の出没がひんぱんで、大型輸送船の場合は数隻まとまって目的地まで軍艦の護衛がつく護送船団方式であったが、本船は陸軍徴用の小型船であることから単独で行くことになった。

 宮本船長は安全な島づたえの飛び石コースをとり、門司経由で鹿児島に向かった。

 鹿児島港では母国最後の決別のため一夜仮泊。乗組員はわれ先に夜の街に出て行った。


 エンジンルーム浸水騒ぎ

 さて、いよいよ迎えた出港の朝---誰かが「機関室が浸水している!」と、大声で叫ぶ---すぐ一等機関士が機関室に入り、何やらコックを操作して騒ぎがおさまった。

 原因はビルジ(アカ水)排出用キングストンバルブ(舷外弁)の閉め忘れであった。

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