心のふるさと・村松 元少通生らが寄せる村松への思い
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少通校における思い出 その2
元 旦
昭和二十年、十六歳を迎えたり。(注 満十四歳)「起床」 不寝番の声に飛び起きた。まだ薄暗い四時であった。本日は元旦でもあり、勢よく起床することができた。「お目出たう」 と挨拶を交わしながら、入浴場に一目散、早い者は入浴して居る、元旦の朝風呂だ。少しぬるかったが、一番で少しも汚れて居らぬ、風呂で心もさっぱりした。
入浴後床をとり洗面して内務班に落ち着いたのは五時頃であった。父母に挨拶す。父母と離れて居るとやはり変な感じがする。父とは三年の間別れておるのである。家中一同にて正月を迎えたし。戦友とも「お目出たう」の挨拶を繰り返し点呼を待った。その頃になって大分明るくなった。
校庭で点呼を受く。この冬には珍しく晴れて来た。よき元旦の朝を迎えた。食事は雑煮であった、少し固い餅であったがこの学校においての大御馳走であった。
元始祭は十時より始まったがすぐ終ってしまった。
元旦の午後は全員寝てしまひ、入院中の班長殿が病院よりきて「寝正月だな」と笑われた。正月は雪合戦などで本当に休んだ時は無かった。
二、三日の朝は、汁粉の中に餅をいれたもので、これだけはたいした御馳走で旨かった。二、三日の昼は煮染めなどあり、家の正月を思い出す。雪合戦の血だらけになった跡もさっぱりして愉快であった。
久しぶり正月のうまい御馳走を喰った。正月は御馳走をまって過ごしてしまった。
入 浴
入校以来、本校において日常の楽しみは、食事、入浴、就寝である。
入校当時は、風呂にはいるのはあまり好きでなかった。その理由としてはなにもなかった。又その頃に、入浴場に行くのが一苦労であった。それは二年生殿に敬禮をせぬと、どなりつけられるのが、おそろしかったのである。
だが大分なれてきた頃になって、入浴が好きになった。夏の演習が終わって汗をかいた時、すぐ入浴場へ行き、さっぱりするのはいい気持ちだ。月をながめながら涼しい風にふかれながら、中隊に帰る気持ちはなんともいへぬ。又冬は入浴が待ち遠しかった、毎日いきたくてたまらなかった。夏は入浴してもすぐ上がったが、冬は時間一杯暖まっている。その夜は自習時間も楽にすごし、夜も寝つかれぬ事はなかったが、入浴のない日は夜をすごすのが一苦労であった。
今では入浴のある日は、課業が終ると早く中隊の石廊下に飛んでいって、入浴は何時かを、たしかめ、入浴時間五分前となったら、内務班は人一人おらなくなってしまふ。
(平成十六年・区隊会配布資料)
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父から息子へ、姉から弟へ
-当時の記録からー その1
十二期六中隊四区隊 大口 光威
これは、当時、村松に在った私に、東京の父と姉が、寄せてくれた書簡の一部である。
私信であるが、あの厳しい戦局下における、父と息子、姉と弟の、心の交流といったものが、或る程度、表われていると思う。
このような意味で、本稿が、御遺族の方々の、回想の縁ともなれば幸せである。
私はいま、当時の父をかなり上回る歳になったが、総てに真摯であった亡父の生き方に、尊敬とたまらない愛着を覚えている。
また、十五の春から十六の秋という、人生の最も多感な時期を、村松で過ごしたことを、少しも悔いてはいない。
ただ、恨むらくは十一期生徒の事。本稿の末尾に、その出陣式の感想を、私の日記中から抜粋したが、送る者と送られる者と、誰がその十日後に訪れる不幸を予想しえたであろうか。
遭難記の伝えるところによると、五島列島沖で輸送船が撃沈されたあと、なお多くが、船の破片に綴りつくなど、漆黒の海上を漂っていたが、はじめこそ、お互いに励まし合い、軍歌を歌うなど、必死に気力を奮い立たせていた彼等も、極度の寒さと疲労のおとずれとともに、ひとり、また二人、母の名を呼ひっつ、海上に没していったという。
只々、御霊のご冥福を祈る許りである。
× × × ×
○ 父から (正式入校を知って、六月十五日付)
光威、元気か、六月七日付消印のはがき受領した。お前の正式入校の便りを、家内一同、どんなに待った事か。希望の学校に入校、軍服に帯剣姿の入校式の状況が目に浮かぶよ。小さいけれど破邪の剣を帯し、軍籍に身を置き一騎当千の通信兵に成る覚悟と聞いて、この父も愈々嬉しい。どうか、その覚悟でお願ひする。
本日、中学へ行き退学手続を完了した。田中校長先生も、君の立派な便りには感心して居られた。中学卒業生も及ばぬ文面とね。
編集者
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父から息子へ、姉から弟へ
-当時の記録からー その2
○父から (七月三日付)
光威、其の後、元気で軍務に精励且つ御勉強か。入校以来、既に一ケ月、少しは校風になれた事と思うが如何。当方は、小生を始めとして母も姉も弟も妹達も、至極丈夫だから安心せよ。千寿子も来る六日には御誕生日だ。此の頃は家中の人気者で、母も一日後追ひだ。
それに引替へ、征三の一周忌も目前に迫った。今日は彼のため岐阜提灯を吊してやった。思ひ出してくれ、昨年の七月を。良くお前が世話をしてやった事を。彼も地下で満足して居ることと思ふ。今年はお前を軍に送って俺も何となく淋しい。だが、お前は立派な帝国の軍人、お前の成功を楽しみに、将来に希望を持って、毎日銃後の治安維持に精励している訳だよ。お前の軍服姿が見たいが、仲々簡単には行かぬ。写真でも撮れたら頼むよ。次に、何か不自由なものはないか。あったら申し越せよ。小遣は如何。通信の許される範囲で様子が知りたいものだ。但し軍機は口外すな。軍紀は何処までも厳正にな。幼にして親許を離れ軍籍に身を置くお前の事、俺は寸時も忘れた時は無いぞ。無事故で錬成を積んで呉れ。この間、穂積隊長から御手紙を頂いた。宜敷しく申伝へて貰ひ度い。又、通信致そう。出来たら、子供達にも通信頼む。
○姉から (七月七日付)
光ちゃん。お元気にて御勉学の事と存じ上げます。姉さん達も、貴方に負けないような日々を送って居ります故、御安心下さいませね。警報が発生されませうとも、赤蜻蛉が飛んで参りませうとも、少しも驚きは致しません。戦局多難な折、家のことは絶対御心配なく、一日も早くお国の勇士としてお役に立って下さいませね。
七月七日。今日は支那事変の記念日ですのね。八年、長い間、日本も戦って参りましたわね。でも、まだまだ先の長い話しね。お互いに頑張りませうね。この戦争に勝つ迄……。
雅道ちゃんは、毎日、ゲートルを巻いて登校よ。御飯も給食ですって。すっかりお兄さん振って千寿子ちゃんのお守りです。千寿子ちゃんも、お誕生日を昨日迎えました。お父さんにお人形と犬の可愛らしいのを買っていただいて大喜びです。
征ちゃんの命日も近付いて参りました。お盆、新盆よ。可愛想にね。でも今頃、優しくて大好きだった光ちゃんのことを誰も知らない世で想い出してゐる事でせうね。お墓参りもして参りますわ。光ちゃんの分まで……。御心配なく毎日を送って下さいね。
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父から息子へ、姉から弟へ
-当時の記録からー その3
○父より (七月十四日付)
元気溢るる希望に満ちた入校記念写真、昨十三日拝見致しました。
軍帽、軍服は相当大きさうだが、もう丁度よく、体も成長した事と思ふ。
幹部の方々の慈愛に満ちた眦り、安心致しました。父は、この写真を如何に待ち設けた事か。個人写真も出来との事、早く早く。
○父より (八月三日付)
光威君。元気で軍務に精励の由、安心致しました。元気が何より、健康は国家の至宝也。当方も一同無事、各自の奉公に誠を効し居りますから御放念下さい。
先日、佐藤徳夫さん (注、十一期生) が、わざわざお尋ね下された。丁度、小生退庁の行違いで面接出来なくてね。七月二十九日夜、蒲田のお宅に佐藤さんを御訪問して詳しく君の様子を伺った。大体の様子が判明して安心したよ。仲々大変な事と思った。此れも鬼畜米英の然らしむること、頑張りが緊要だ。無理でもあらうが、昭和青年に課せられた任務と思って責任を果たして呉れ給へ。小生の取調の前に出る不良児の多きにつけ、お前の、お前達少年の事を、いつも引例して不良児をなぐりつけ、訓戒を与へている次第だ。ほんとに、お前達戦友に対して心から合掌せずには居られぬ。乞ふ、我等の付託に添はん事を。
お前の事を思ふにつけ、父は頑張らずには居られぬ。此頃は非番でも帰宅は午後七時過ぎだ。父の気持も察してくれ。
母さんは母さんで、毎日隣組長として多忙を極めて居る。家事をやり乍ら、よく体が続くと感心して居る。これも一つにはお前の事があるからな。
○姉より (九月二十日付)
光ちゃん。お元気で軍務にお励みのこと存じます。こちらも皆元気で居ります故、御休心下さいませね。
東京も、この一週開、雨続きです。しとしと降る雨……ビルの窓から見る街々は雨に濡れています。
新潟の方は如何ですの。季節の方は……もう寒い事でせうね。身にしみる秋風をほほに受けつつ、遠く新潟の貴方の事を想って居りますの。また、長野に疎開した幼い子達のことが新聞を賑しています。逢うも子のため、逢わぬも子のためとか……。近頃、疎開学童の事で、同窓会の幹事会が御座居ますの。私の同期生は、もう十九と二十なので兵隊さんですの。特幹志望が多くて、壮行会が十月十七日です。今の中学生は勉強など落着いて出来なくてよ。日々々、勤労奉仕、通年動員で工場生活です。お姉さんが帰る省線の中で、奉仕作業で疲れ切った中学生を見ますと、たまらなく、御苫労様、々々々と言ひたい位な気が致します。其の気持ちと共に 「ああ光ちゃんも家にいたら……」 と思ったり致しますの。でも軍務の方面で一生懸命頑張って下さいね。それのみ祈っております。
編集者
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父から息子へ、姉から弟へ
-当時の記録からー その4
○姉より (十一月三目付)
光ちゃん。御手紙有りがたうございました。創立記念日の様子がよく分かりました。有意義な一日をお過しになって、一生の想い出になります事でせう。名月のあの日は、家でも例年の様に、ススキ、おだんごで決戦下のお月見を致しました。光ちゃんは新潟で、雅道ちゃんは有馬で、このお月様を見てゐるのかと思ひましたら、……幾年か前の征ちゃんの事が思ひ出されてしまひました。
東西古今、月に対して、幾多の人々が嬉しさ、悲しみ、さびしさを語った事でせうか。日本が大東亜の盟主となる日も、あの月は秋の夜空に輝いてゐる事でせう。
部隊長様から、御親切な御文を頂きました。ごきげんよう。
○日誌 (十一月五日付)
第十一期生徒ノ卒業式アリ。
昭和十九年十一月五日、静カナ静カナ、人ノ心ヲエグルガ如キ軍楽隊ノ調べノ中ニ、ワガ村松陸車少年通信兵学校第一回ノ卒業式ハ挙行セラレタ。
天候ハ暗雲深ク垂レ、小雨サへ混ツテヰタ。「陸軍生徒○○以下○○名ハ、十一月五日、卒業ヲ命ゼラレマシタ。是二謹ンデ申告致シマス」 卒業生代表殿ノ声が頼母シク響キ渡ッタ。卒業ハ即チ出陣ヲ意味スル。
大東亜戦争、将二酣ノ秋、日本ノ企画セル一大攻勢ノ中枢神経ト成ルベク、三百余名ノ若武者が勇躍、卒業出陣スルノデアル。現在ノ戦局ハ、丁度、今日ノ天候ノ如ク暗澹トシテ居ル。然シナガラ、コレラ卒業生殿ノカニヨリ、明ルク、清ク、晴レ渡ルデアラウ。卒業生殿ノカハ国軍ニ如何二貢献スルデアラウカ。期間ハ一年ニ満タズト雄モ、実力、技術共二充実セル立派ナ国軍中堅デアル。
我等モ、卒業生徒殿二続キ、決戦二馳せ参ズべク、今一層ノ努力ヲ成シ、本日ノ感激モ新タニ修技修養ニ邁進セン。
“千万ノ軍ナリトモ言挙ゲセズ、取リテ来ヌベキ男トゾ思フ”
(昭五十五年・かんとう少通)
編集者
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サヨナラ電車・私の青春
村松町 小島 ヒサイ
私は農家に生まれ、親は小作人、金もない貧乏暮らし。
ある日の事、叔父が鉄道の主任でもあり、私を薦めて蒲原鉄道に入社させてくれました。
大東亜戦争の真只中だったので、男の方は出征して居らず、女の運転手でした。とは言っても、なかなかなれず、一年間は毎日のように電車の油ぬり、窓ガラス拭き。顔中油にまみれ、其れは其れは口では言い表せないくらいの辛さでした。
一つ一つ機械を覚え、電車の屋根に登り。パンタグラフを直し、手には何時もハンマー。危険は身についていました。
若さと勇気があり、自信は一杯あり、やがて一年間の講習も終え、試験にもパスして、手には白い手袋、私にとってはやり甲斐のある職場でもあり、反面、大勢の命を頂かる責任重大なお仕事でした。
今でも、一生忘れる事の出来ない思い出があります。
それは昭和十九年秋。電車の窓ガラスには黒いカーテン、頭には必勝と書いたハチマキをして、品物の無い時代でしたからゾウリを履いての運転でした。私は電車二両編成で加茂駅まで村松通信学校を卒業して出征する若い兵隊さんを運びました。
百名位だったと思います。特攻隊でした。車中スクラムを組んで歌っているではありませんか。歌声は「貴様と俺とは同期の桜」 の歌でした。
私は振り向くと、同じ年頃、十八・九才の美少年達でした。急に熱いものが胸にこみ上げてきて、涙が止めどなく流れ、涙しての運転でした。そんな切ない思い出があります。
やがて終戦となり、帰らぬ人々の御霊が愛宕山の「戦没陸軍少年通信兵慰霊碑」にあります。
生き残りの方が五年に一度位全国からツアーで来られます。
その方々が、偶然に私の家に立ち止まり「たしかこの辺は練兵場だった」と話され、「ああそうだった、戦地に向かう方々を加茂迄乗せて運転した女運転手は私です」 と言ったらビックリされました。
あれから五十有余年の歳月が過ぎ去っており、白髪の目立つ方もおられ、「次の慰雪祭にぜひお会いしましょう」 とお別れしました。
編集者
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また、渡部教官の文章にもありましたが、当時は、どの中隊でも、生徒には毎日 「日誌」 を書くことを義務付けていたように思います。様式等は特に指定しなかったようで様々ですが、今回はその一例として、次の二氏のものを載せます。
生徒日誌 1
十二期八中隊四区隊 芦田 慶作 (旧姓中村)
昭和二十年当時の通信学校生徒日誌で原文のままで、当時を偲ぶ小生唯一の記録です、
今では真に恥ずかしき少年時代の物語です。当時生徒は各種学科教育で徹底した軍隊用語の教育をされた。今も私は現代用語と文法に躓きます、この日記は週に数回区隊長が検閲し所感を赤字で記入されました、以下抜粋。
四月二十八日 土曜 曇
土居中隊長注意
一、衛生
二、動作の敏捷
反 省
入校以来モウ一年ナリ、月日ノ流ルルハ矢ノ如シ、行ク川ノ水ハ絶エズシテシカモ昔ノ水二非ズ、昔ノ懐カシイ友ハ皆散々ニナツテソレゾレノ社会二活躍ノ事ト思フ、負ケズニヤラネバナラン、今日ハ何トナク友ノ事ヲ思フ日ダ。皇国興亡一項二有り、今年ハ吾々ノ最大ノ奉公ノ時 大ナリ。
五月一日
火曜 晴後小雨
通信所勤務演習
反 省
区隊長殿ヨリ注意アリ、吾々ハ負ケズニヤルゾト誓フ、第一次ノ演習ハ予備的ナモノナリキ、三所一系ノ場合二所一系ノ如キ感アリ 系を独占スルガ如キ隊アリ実二遺憾ナリ。
春ノ雨 堤ノ草モ立チ上ガル!
五月二十三日 水曜 雨
区隊長殿注意アリ
兵器、被服、ノ検査等ノ着眼、如何ニシテ検査ヲヤルカヲ研究スべシ、
反 省
演習モ終り懐シイラツパ今日モナル、新潟ノ雨ハ中々止マナイ若葉益々濃イ、故郷ノ父二久方ブリニ手紙ヲ書ク、同級生ノ友ノ行先モ知レズ情ナク思フ、去年ノ今日ダ、万歳ノ声二送ラレテ故郷ヲ出タ、ヤラネバナラナイ米英ヲ打チノメス覚悟デ出発シ夕日ダ、思出深キ大転回ノ日デアル。
六月一日ヨリ六月五日
綜合演習所感
綜合演習ノ幕ハ切ッテ落サレタ、吾々ノ師団通信隊ハ村松ヨリ越後平野ヲ西二丸田方面ヨリ矢代田二向イ前進シ山ヲ越ス、自分ハ調査通信班デアル 馬ト共二本隊ヲ追及スル、右縦隊ト左縦隊トノ間二通信網が構成サレ無線分隊ノ交互躍進ガ始ル、好天気二恵マレ青々ノ大演習ハ着々ト進ム。宿営スル度二銃後ノ人々ノ有難サニ只々頭ガ下ル。
編集者
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生徒日誌 2
六月三日
吾々ノ師団通信隊ハ海岸二高キ弥彦山ト並ビ有名ナ角田山二進ム。麓ノ稲島村落二馬ト車ヲ置キ
通信機ノ分担携帯通信機重イ発電機ヲ背二敢闘精神二燃ユル分隊員ハ四十度モノ傾斜面ヲ物トモセズ遂二滝ノ如キ汗ヲフキフキ山頂二達ス。山頂ノ陣地ニテ敵ノ砲弾ヲ避ケル為通信所壕ヲ堀開、遂二対所右翼隊ト左翼隊トノ連絡ヲ確保シテ敵ノ上陸ヲ粉砕スベク努力ス、
今日ノ演習ハ実戦ソノモノナリキ 而シテ 角田山頂ハ眺ヨシ、北ヲ眺ムレバ間近ク眼下二日本海ノ海岸二波高ク白シ 南ヲ眺ムレバ越後平野ガ一目千里二田園ガ続ク、遠クノ果ハ霞シテ見エズ 実二広イソノ向フノ故郷二比シテ全ク広キ平野ナリ。我々ハ通信ヲヤリナガラ見敵必殺ノ意気二燃エ上ツタ、近クデ有線隊ノ活躍モ始ル 山頂マデ三百米ノ絶壁モ遂二架線張り連絡ヲ確保ス有線隊ノ労苦押シテ知ルベシ 夜間行軍ノ視号班ノ活躍回光機ノ光モ強ク通信終了ス。
明クレバ四日 巻町 添山村須田村方面二敵ヲ追撃、我軍師団司令部、右翼追撃隊ト左翼追撃隊トノ三縦隊ノ配置アリ、自分等ハ無線第九分隊トシテ第三分隊ト交互躍進シテ追撃戦ヲ展開ス。
六月四日
今日モ終了カ。須田村ナル信濃川岸二宿営ス 信濃川故郷ノ山河目二浮プ、父母ヨ最後ノ演習モ明日一日ニテ終了シマス 元気ナ姿ヲ見セタク思フ。
六月五日
綜合演習最後ノ日 今日ノ演習ハ戦闘ニテ敵二近接シツツ追撃退却ト 山野二響ク銃音モ勇マシク 十五時本演習無事終了ス、思エバ苦労ダツタ夜ノ有線モ角田山ノ演習モ追撃戦モ何事モナク過ギタ、体ノ調子悪キ者相当アツタ様ダ、幸ニシテ落伍セズニ良カツタ、大演習ナリシ師団通信隊ノ演習モ終ル、イツデモ戦場二行ケルヨウ心ヲ更二新ニセリ。
六月十四日 木曜 晴天
勤労作業デ田植
反 省
十全村デ田植、二年ブリノ田植ニテ実二愉快ナリキ 故郷ヲ偲ビッツ戦友二人デ出来ルダケ植エタ、家ノ田ヲ父ト二人デ植エタモノナリ 今頃家デモ父ト兄デ一心ニヤッテイル事ダロウ、「夏ダ」ノ感深クセリ 柿ノ花モ散り竹ノ子モ伸ビニケリ、木々ノ葉モ濃クナリ我々活動ノ最高期ナリ。
七月二十三日 月曜 曇
反 省
空襲が激化スル 自然校舎モ偽装セネバナラン色ノ配合困難ナリ、段々ト天気良クナル梅雨期明ケナリ、夜雪中演習場デ映画ヲ見ル、題名 「母子草」母ノ偉大ナル子ニ対スル愛情ニ感動ス 我ガ家ノコトヲ思イ出ス、消燈ラッパヲ聞ク 苦シキ中ヲ育テタ母ノ恩大ナリ涙出ル、「消燈ラッパ」 シンミリ床ニ。
八月十七日 金曜 晴
環境ノ整理
反 省
通信兵ハ防諜二注意スベシ、秘密書類一切ヲ焼却セリ 錬エニ錬エテクレタ通信兵操典ヤ頭ヲシボツタ教範モ燃エテユク 学科教科書参考書類モ身ヲ切ラレル思イ。今トナレバ仕方ナシ、タダ暗黒ナル世界ニ。
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日誌から
十三期三中隊三区隊 高 橋 誠
八月十一日、土曜日、晴、
校長訓示=重大戦局二対スル武人ノ覚悟ニツイテ。中隊長内務巡視=声ハ大キク、動作ハ敏速、敬礼ハ確実ニ。
自己反省=集合が遅イト注意ヲ受ケタ。
八月十二日、日曜日、晴、
休日デアルガ午前中班内大掃除。週番士官注意=生水ヲ飲マヌ、ウガイ、手洗イ。班長注意=水ノ節約、言語態度ヲ厳正ニ。
自己反省=午後生徒集会所二行キ書簡ヲ書ク。
八月十三日、月曜日、晴、
中隊長精神訓話=先月の調整演習ニ就イテ諸注意。週番士官注意=防疫デ隔離サレタ生徒が居ル。掃除当番ハウガイコップ及ビ台ヲ清潔ニセヨ。自己反省=受信試験甚ダ悪ィ、努力必要。
一日一善=ウガイコップヲ整頓セリ。
八月十四日、火曜日、曇、
課業=一、二段通信修技、三、四段電機学、五、六段銃剣術。中隊長注意=中隊ガ防疫中ナルモ課業二影響ヲ及バサヌヨウニ衛生二注意セヨ。週番士官注意=電灯ヲ不用意二用イルナ。自己反省=受信成績悪シ。本日母ヨリ便リアリ、家族全員無事トノコト安心セリ。一日一言=ウガイ用コップヲ整頓セリ。
柴田行夫区隊長日誌点検注意=攻撃精神二燃エヨ。
八月十五日、水曜日、晴、
課業=器材取扱。
十二時 天皇陛下ノ玉音放送アリ。生徒隊長訓示=天皇陛下ノ大詔ヲ拝シ、帝国軍人タルノ自覚ヲモツテ、軽ハヅミナ考へヲセズ生徒ノ本分ニ努メヨ。中隊長、区隊長ノ注意=生徒隊長訓示ト同ジ意味。反省=帝国未曽有ノ重大危機二直面ス。然レドモ動揺スルコトナク上司ノ命ニヨリ生徒ノ本分二努カセザルべカラズ。
一日一善=ウガヒ用コップヲ整頓セリ
八月十六日、木曜日、晴、
午前中臨時当番デ食糧運搬、午後ハ農耕ノ後水泳。週番士官本川大尉訓話=重大局面二到り、再起ヲ期スモ、我々ノ時代二於テ出 来ヌトモ子孫ニ軍人精神ヲ傳エネバナラヌ。
反省=朝会デ本川大尉殿ノ訓話ヲ聞キ、神州不滅ヲ信ジ、再起ニ努力スル決意ナリ。
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四、悲惨だった十一期生の運命
而して、先に触れましたように、村松校で学んだ生徒のうち、戦争で悲惨な運命を辿ったのは十一期生でした。
戦局の急迫で修学年限を削られて出陣していった 「繰上げ卒業組」 の出航直後の輸送船上での遭難死、ルソン島での飢餓とマラリアが原因の 「生き地獄」、そして、四月遅れで卒業した 「後発組」 のシベリア抑留、等々。詳しくは昨年纏めた小冊子「鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ、 十一期生敢闘の記録」 をご覧いただきたいと思いますが、これらの報告を受けた高木校長は、後年亡くなられるまで、悶々とした日々を送られ、特に「繰上げ卒業組」 については、「如何に軍の命令だったとはいえ、年端の行かない子供たちを繰上げ卒業までさせて出陣させたくはなかった」 と悔やんで居られたと伝えられています。
なお.この 「繰上げ卒業組」 には、ルソン島に向かった南方要員のほか、特殊情報要員として陸軍中野学校に七期戊種学生 (下士官候補出身者)として送り込まれた三十名があります。前記 (十二頁)の石綿 光氏もその一人でしたが、彼らは軍服を脱ぎ背広を着て「見えない戦争」に挑むべく終戦まで厳しいエリート諜報要員としての訓練を続けました。しかし、「中野は語らず」で、戦後も長いこと沈黙を続けましたので、その模様は余り知られることはありませんでした(その後、十二期生も八期戊種学生として派遣されています)。
では、ここで、これら敢闘の総括として、ルソン島で戦い、同島で終戦を迎えた高市正一氏の文章を載せます。
正に、氏が云われるように、十一期生が辿った悲惨な運命は 「過大な代償」そのものだったと思います。