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心のふるさと・村松 元少通生らが寄せる村松への思い 37

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通常 心のふるさと・村松 元少通生らが寄せる村松への思い 37

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/3/3 7:36
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 サヨナラ電車・私の青春
             村松町  小島 ヒサイ

 私は農家に生まれ、親は小作人、金もない貧乏暮らし。
 ある日の事、叔父が鉄道の主任でもあり、私を薦めて蒲原鉄道に入社させてくれました。

 大東亜戦争の真只中だったので、男の方は出征して居らず、女の運転手でした。とは言っても、なかなかなれず、一年間は毎日のように電車の油ぬり、窓ガラス拭き。顔中油にまみれ、其れは其れは口では言い表せないくらいの辛さでした。

 一つ一つ機械を覚え、電車の屋根に登り。パンタグラフを直し、手には何時もハンマー。危険は身についていました。

 若さと勇気があり、自信は一杯あり、やがて一年間の講習も終え、試験にもパスして、手には白い手袋、私にとってはやり甲斐のある職場でもあり、反面、大勢の命を頂かる責任重大なお仕事でした。

 今でも、一生忘れる事の出来ない思い出があります。
 それは昭和十九年秋。電車の窓ガラスには黒いカーテン、頭には必勝と書いたハチマキをして、品物の無い時代でしたからゾウリを履いての運転でした。私は電車二両編成で加茂駅まで村松通信学校を卒業して出征する若い兵隊さんを運びました。

 百名位だったと思います。特攻隊でした。車中スクラムを組んで歌っているではありませんか。歌声は「貴様と俺とは同期の桜」 の歌でした。

 私は振り向くと、同じ年頃、十八・九才の美少年達でした。急に熱いものが胸にこみ上げてきて、涙が止めどなく流れ、涙しての運転でした。そんな切ない思い出があります。

 やがて終戦となり、帰らぬ人々の御霊が愛宕山の「戦没陸軍少年通信兵慰霊碑」にあります。

 生き残りの方が五年に一度位全国からツアーで来られます。
 その方々が、偶然に私の家に立ち止まり「たしかこの辺は練兵場だった」と話され、「ああそうだった、戦地に向かう方々を加茂迄乗せて運転した女運転手は私です」 と言ったらビックリされました。

 あれから五十有余年の歳月が過ぎ去っており、白髪の目立つ方もおられ、「次の慰雪祭にぜひお会いしましょう」 とお別れしました。

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