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学童集団疎開物語りー友人の報告から その3

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えー

通常 学童集団疎開物語りー友人の報告から その3

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/10/13 19:51
えー  新米 居住地: 岐阜  投稿数: 5
  
その3

 父兄会があり、大阪より母が面会に来てくれることになりました。首をながくして母の来る日を指折り数えてまっていましたが、里心がつくといけないので3メートルほどはなされて、机をはさんで面会しました。

 後でわかったのですが、「おかあちゃん。」とだきついて、離れないかも?とのことで距離を置かれたとの事です。母達が持ってきてくれた慰問の品々も先生が一括あづかりされました。母は、私達の喜ぶ様子を見たかった事と思います。顔をみただけで大阪に帰りました。

 母達の帰る姿がしょんぼりと悲しげでした。半世紀以上前の出来事ですが私は、今でもはっきりとその時の光景を覚えています。今涙をながしながらホームページにタイプしています。母達はどんな気持ちで大阪に帰って行った事でしょう。悲しすぎます。

 低学年で盲腸炎が原因で、亡くなった子供もありました。お寺で葬儀があり、クラス全員でお参りしました。「ジャジャジャァー ジャァンーー」と鳴り響く経音と続経を今でもはっきり覚えています。涙がとめどなくこぼれ落ちました。悲しいお別れでした。








今。思い出しても乞食《こじき》同然の食物のあさり、蚤(のみ)。虱(しらみ)との戦い。どれひとつとしても、今の子供達には想像もつかない事でしょう。「ウッソーーー。」と言われると思います。勉強の事より、空腹の為食べ物のことのみ考え、朝食。昼食が済めば、夕食の事を考えていました。

寒い寒い雪の降る日でも裸足《はだし》で、ずぶ濡《ぬ》れになり、破れた運動靴を履き、村の学校の間借りの教室で、ただただ大阪に帰りたい、帰りたいの気持ちが一杯で、勉強もそぞろでした。手の指と足の指にしもやけが、真っ赤に腫《は》れて、ひび割れしていましたが、塗り薬などありませんでした。自然に治るまで辛抱していました。少々の痛みは耐え忍ぶのがあたりまえの時代でした。「勝つまでは!勝つまでは欲しがりません。」と心に誓っていました。


 親からの便りも検閲《けんえつ=調べる》され、望郷を想い起こす様な文章は墨で消されていました。その消されている文章を見たくて、見たくて夜。電球にすりつけ、親の文字を求めました。私の父は筆まめで度々手紙をくれました。とても楽しみで、毎日毎日郵便受けをのぞいて、父からの便りを待っていました。

 栄養失調と不衛生で、クラス全員疥癬《かいせん》(皮膚病)に罹患《りかん》しました。ひとりつづ先生と寮母さんの前で裸身になり、隅々まで、罹患のほどを検診されました。凄《すご》く恥ずかしい思いをしたのを今でも覚えています。
 サイパン島が玉砕されたと真夜中にクラス全員叩《たた》き起こされ、涙を流し黙祷《もくとう》して、又また拳《こぶし》をあげて、「撃ちてし止まん」の合言葉で勇ましい精神をうえつけられました。

 寺の鐘は、いつの間にか姿を消していました。金物類は、戦争に役立ててもらう為に全て国に奉納されました。どうなるのかしら? との思いでしたが、勝利の日を信じていました。










続く

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