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学童集団疎開物語りー友人の報告から その6

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えー

通常 学童集団疎開物語りー友人の報告から その6

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/10/13 20:12
えー  新米 居住地: 岐阜  投稿数: 5
  
その6

 私は、勉強がしたくても出来ない虚しさで、瓶はりと農作業を黙々としていたのを今でもハッキリ覚えています。日本が戦争に勝つ為の私達のご奉公だと頑張っていました。12才の現在の中1です。

 精神を鍛える意味で、夜。暗闇《くらやみ》の中、出席簿順に墓地の内の火葬場の前に籠《かご》を置いてきて、次の生徒が取りに行く訓練もありました。私は、犬に吠えられ怖かったのを覚えています。途中で空襲警報になり中止になりました。飛んで家に帰り防空壕に潜り込みました。

 姉と甥《おい》(3才)は、家に帰る途中で「ダダダーーダ。!!」ンと機銃掃射機(低空を飛び機関銃で掃射)に遭い草むらに飛び込み命拾いをしました。生きているのが不思議だと聞き、身ぶるいしました。何時も死と隣り合わせの時代でした。
 私達は、何のための学童集団学童疎開だったのでしょうか ?? 国民学校6年生までの学童集団疎開だったのです。同学年の皆さんは、何処へ避難されたのでしょう?

 昭和20年8月15日の正午。敗戦の玉音放送を動員先の工場の庭でお聞きしました。

 晴天の猛暑下で、ギラギラと太陽が照り付けていたのを今でも不思議と鮮明に覚えていますが、ラジオからの放送の内容は、聞き取れませんでしたし理解もできませんでした。どうやら戦争が終わったようだとは、周囲の動きでわかりました。

 私は、張り詰めていた気持ちに「ポカンーー」と穴があき、茫然自失《ぼうぜんじしつ=あっけにとられて我を失う》してしまいました。それからすぐ、日射病になり、農業学校に行けなくなりました。転校を母に希望しました。

 人間万事塞翁が馬《にんげんばんじさいおうがうま=人生は思いがけなく幸せになったり不幸になったりするもの、という中国の諺》で、日射病に罹患したので、母も私の熱意に負け、私の希望通りにしてくれました。

12才でしたが、自分自身の将来を深く考え直して、満員電車で潰《つぶ》されそうになりながら、通学しました。

 それからが私の前向きの人生の始まりです。学童集団疎開で忍耐力が身につき、「艱難辛苦《かんなんしんく》 汝《なんじ》を玉にする」を心の支えに感謝して生きてきました。

8才で大平洋戦争勃発《ぼっぱつ》。11才で学童集団疎開。帰阪してすぐ家族疎開。12才で生まれ育った家がB29の爆撃機で被災。学徒動員で工場へ。農作業。終戦と食糧難。今思い出しても悲惨です。

 二度と再び戦争が起きない事を切望します。

 戦中。戦後の物資不足の混乱の時代を生き抜いた世代も2005年度。平均年齢73才と聞き愕然《がくぜん》としました。
 私は、今パソコンを趣味に自適で、日々変化するユビキタスの時代に、学童集団疎開物語りを、シニアになりましたが、インターネットでお話出来る事が幸いです。









  <新時代 永久(とわ)にかわらぬ 母の愛> sweet

  完

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