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学童集団疎開物語りー友人の報告から その5

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えー

通常 学童集団疎開物語りー友人の報告から その5

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/10/13 20:08
えー  新米 居住地: 岐阜  投稿数: 5
  
その5 学徒動員。終戦。








大阪駅周辺は、建物疎開(空襲の爆撃による火災の類焼を防ぐため)で家々は、立ち退きになっていました。

 私は帰阪して、昭和20年3月5日に国民学校6年生の卒業記念写真をとり、すぐ空襲が激しくなって来たので、千里山の伯母《おば》の納屋の2階に家族全員疎開する事になりましたが、父一人が残り家を守るとのことでした。

 空襲がはげしくなり進学する事より身の安全を守る事が優先され、私の進学の事など二の次だったのです。私は、どうなるのかしら・・・?

 兄は、4年間外地の野戦で戦って、一旦帰国して、内地勤務になりました。

 空襲警報が発令されると駐頓《とん》地に出動です。すぐに空気の抜けた自転車で、千里山の伯母の家から、電車で、7駅目の大阪市内の中学校のプールサイトの駐屯部隊地に出動していました。

 兄は、銃後を守らなくてはなりません。責任が重かった事と思います。
 昭和20年の6月7日の大阪大空襲の時。兄は妹(私の姉)の勤めていた工場が空襲の爆撃にあい燃えているのをみて駐屯地の近くなので安否を見に行き、集合時間に少し遅刻しました。上官に凄く殴られたそうです。

 戦後にその話しを兄から聞き、兄妹愛も許されないはかなさに私は咽《むせ》び泣き、しました。でも戦争中は、当たり前の罰則です。

 戦争で数多くの被害や悲惨な思い苦しみを、私達の世代は受けました。

 昭和20年6月7日の大阪大空襲で、私の生まれ育った家もB29の爆撃機の爆撃で跡形もなく被災してしまいました。町はほとんど灰になりました。

 幸い私達家族は、3月に千里山の伯母の納屋の2階に疎開していましたので全員無事でした。でも千里山の叔母の家の庭の防空壕《ぼうくうごう》の横にB29の爆撃機からの不発弾が 「ドカン。」 と落とされていました。

 防空壕から出てきて、その不発弾をみて ビックリ しました。雨が降っていて、庭の土がぬれていたのが幸いしたのでしょか・・・?

 もし雨が降ってくれていなかったら、私達家族全員即死です。幸運だったと感謝しました。



画像をダブルクリックして頂くとフルスクリーンになります。


 

千里山の田舎にも頻繁《ひんぱん》に空襲警報が発令され、B29の爆撃機が襲来し、山の手の畑に家族で避難しました。勉強どころではありません。兄は、空襲警報が発令されるとすぐ駐頓地に出動です。

 私は、村の学校になんとか編入学しましたが、学徒動員で、薬品工場でエビオスの品質表示を瓶《びん》に貼《は》る仕事をしたり、農作業で田植えをしたり、牛や馬の糞《ふん》を手づかみで運んだりと、毎日、毎日黙々と働きました。

 田植えには、閉口しました。栄養失調の体に蛭(ひる)が足の血を吸うのです。あちこち吸い痕《あと》ができるのには、12才でしたが悲しいおもいでした。喉《のど》がカラカラになりましたが、水筒禁止でしたので、池の濁った泥《どろ》水を手ですくいわけて飲みましたが、なぜか腹痛にもなりませんでした。田植えなどの農作業は始めてです。

続く

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