Re: 新京脱出行
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- 新京脱出行 (あんみつ姫, 2007/11/29 16:32)
あんみつ姫
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 485
新京脱出行(二) -2
さて、生活の糧であるが、すすめる人があり、六月からアイスクリームの製造販売に挑戦した。エキスを仕入れて来て寮の風呂場で容器(エキス販売者の考案のもの)の真ん中にエキス、その外枠に氷を詰め、汗だくになりながらハンドルを廻すと、次第にアイスク
リームが出来上がってくる。すべて手作業だが、面白いものである。これを台車に積んで宝山百貨店近くに売りに出る。この台車はオデン屋のときの屋台の上を取り払ったものである。
昼間、一杯五円で売るのだが、なかなか売れない。ところが夕方からダイヤ街で一杯十円で売ると、この方がよく売れた。人間の心理って常識では判らぬことが多い。この分なら何とか母と二人やっていけるのではと喜んでいたらコレラが発生、氷物・水物は販売禁
止という通達。これには参った。売り食いするような衣類等は全くない。
というのは終戦直前の十一日、母は満鉄社員と一緒に北朝鮮経由帰国すべく大急ぎで荷造りをし新京出発、鴨緑江《おおりょっこう=北朝鮮と中国との国境を挟む川》を渡ったところで終戦。持って行った荷物を置いたまま急拠新京へ引き返したので、まるで満鉄社員(一部)は財産を北鮮へ渡しに行ったようなものだった。私は当時、軍隊に居り、十六日に部隊と共に南下したので知る由もなかった。
アイスクリームのあとは煙草の売人を始めた。城内へ煙草の葉と香料を仕入れに行き、これを刻んで香料を振りかけ、適当に乾燥させたところで紙巻き煙草に仕上げる。勿論「前門」「ルビークイン」等も仕入れてきて一緒に並べる。いくらで仕入れて、売り値をどうしたかは忘れたが、そこそこの収益にはなった。机の引き出しに並ベて道端に腰を下ろして買い手を待つわけ。
その頃、中国人が話かけて来た。日く「日本へ帰ってもアメリカの空襲で殆ど壊滅状態だ。それより新京に残って働かないか」と。どういう素性の人物かは分からないが、いかにも親切そうな人だった。しかし母も居ることだし、内地へ帰りたがっているからと辞退した。どういう心算だったのだろうか。
ポッボツ引き揚げの噂が聞こえだした。緑園地区などから先に帰れるのだという。
昭和七年に満洲へ渡り、十四年、新京商業の修学旅行時と、十五年、ハルビン学院入学時、束京代々木の日本青年館に集まった時の二度しか内地へ行った事のない身が、これで内地へ帰れると思ったのが二十一年八月。ところが、また大難。母が急病でオコリのように全身をふるわせ、血の気はなくなり、歯を食いしぼっての苦しみ。医者の当てもなく私はただオロオロするばかり。
と寮内に、旧満洲国《まんしゅうこく=中国東北部に日本が国策として建国させた国》政府の医者でドイツ帰りの人を知っているので、良い薬を持っているかも知れない、と教えてくれた。その医者に症状を話すと、粉薬を二服くれて、一服で利くはずだという。早速のませると効果てきめん。症状が治まると共に、排便と一緒に大きな回虫が二匹も出てきた。二十センチ以上だったと思う。腸壁に食いついていたらしい。
もし腸を破っていたら腹膜炎になるところだった。これで病源が取り除かれたので、あとは元気をつけるよう食養生することになった。
さて、生活の糧であるが、すすめる人があり、六月からアイスクリームの製造販売に挑戦した。エキスを仕入れて来て寮の風呂場で容器(エキス販売者の考案のもの)の真ん中にエキス、その外枠に氷を詰め、汗だくになりながらハンドルを廻すと、次第にアイスク
リームが出来上がってくる。すべて手作業だが、面白いものである。これを台車に積んで宝山百貨店近くに売りに出る。この台車はオデン屋のときの屋台の上を取り払ったものである。
昼間、一杯五円で売るのだが、なかなか売れない。ところが夕方からダイヤ街で一杯十円で売ると、この方がよく売れた。人間の心理って常識では判らぬことが多い。この分なら何とか母と二人やっていけるのではと喜んでいたらコレラが発生、氷物・水物は販売禁
止という通達。これには参った。売り食いするような衣類等は全くない。
というのは終戦直前の十一日、母は満鉄社員と一緒に北朝鮮経由帰国すべく大急ぎで荷造りをし新京出発、鴨緑江《おおりょっこう=北朝鮮と中国との国境を挟む川》を渡ったところで終戦。持って行った荷物を置いたまま急拠新京へ引き返したので、まるで満鉄社員(一部)は財産を北鮮へ渡しに行ったようなものだった。私は当時、軍隊に居り、十六日に部隊と共に南下したので知る由もなかった。
アイスクリームのあとは煙草の売人を始めた。城内へ煙草の葉と香料を仕入れに行き、これを刻んで香料を振りかけ、適当に乾燥させたところで紙巻き煙草に仕上げる。勿論「前門」「ルビークイン」等も仕入れてきて一緒に並べる。いくらで仕入れて、売り値をどうしたかは忘れたが、そこそこの収益にはなった。机の引き出しに並ベて道端に腰を下ろして買い手を待つわけ。
その頃、中国人が話かけて来た。日く「日本へ帰ってもアメリカの空襲で殆ど壊滅状態だ。それより新京に残って働かないか」と。どういう素性の人物かは分からないが、いかにも親切そうな人だった。しかし母も居ることだし、内地へ帰りたがっているからと辞退した。どういう心算だったのだろうか。
ポッボツ引き揚げの噂が聞こえだした。緑園地区などから先に帰れるのだという。
昭和七年に満洲へ渡り、十四年、新京商業の修学旅行時と、十五年、ハルビン学院入学時、束京代々木の日本青年館に集まった時の二度しか内地へ行った事のない身が、これで内地へ帰れると思ったのが二十一年八月。ところが、また大難。母が急病でオコリのように全身をふるわせ、血の気はなくなり、歯を食いしぼっての苦しみ。医者の当てもなく私はただオロオロするばかり。
と寮内に、旧満洲国《まんしゅうこく=中国東北部に日本が国策として建国させた国》政府の医者でドイツ帰りの人を知っているので、良い薬を持っているかも知れない、と教えてくれた。その医者に症状を話すと、粉薬を二服くれて、一服で利くはずだという。早速のませると効果てきめん。症状が治まると共に、排便と一緒に大きな回虫が二匹も出てきた。二十センチ以上だったと思う。腸壁に食いついていたらしい。
もし腸を破っていたら腹膜炎になるところだった。これで病源が取り除かれたので、あとは元気をつけるよう食養生することになった。
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あんみつ姫