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新京脱出行

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/11/29 16:32
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
新京脱出行(一) -1

   哈爾浜《ハルピン》学院 21期生   鈴木 淳栄(1989年 記)

終戦から引き揚げまでの新京《しんきょう=現在の中国長春、吉林省の省都、かつての満州国の首都》を主とした生活を振り返ってみた。
 ソ連軍による武装解除《ぶそうかいじょ=投降者などから強制的に武器を取り上げる》を三十里堡で受けたが、その時、9期の田中美次さんが第二航空軍特種情報部(通称四〇〇部隊)に居られた。また同期の成瀬孫仁、中村博一、福岡健一、瑠璃垣馨、城所(現水野)尚爾の諸君も一緒だった。

 その四〇〇部隊が8月16日、新京から南下、周水子《中国読みでチョウシュイズ=中国遼寧省の大連の郊外で鉄道の分岐点の町》に着いた夜、武装解除時の通訳として部下一名を連れて三十里堡へ行けと命ぜられた。当時上等兵だった田中英次さんを選び、私の少尉の襟章を、私は隊長の大尉のを貰ってつけ、生まれて初めての飛行機、それも座席のない輸送機に乗せられて三十里堡へ。

 そこの航空隊には飛行機は見当たらなかった。後で聞いたところによると、まともな飛行機は幹部連中が乗って内地へ帰ってしまったとのこと。自分だけよければいいのか。部隊長の大西中佐にだけ本当のことを申告し、他の人達には大尉、少尉のまま通した。

 武装解除後は大西部隊長と私だけは帯刀《たいとう=刀を腰につける》を許されたものの、私は別に自決《じけつ=自ら自分を処分する》用の拳銃を持っていたので、これを隠すのに一苦労した。
しばらくソ連兵《それんへい=ソビエート連邦共和国の兵隊、現在のロシヤ-》と暮らし、雑用の通訳をしていたが、次第に彼等の望みがエスカレートし性本能を満たす方向に移っていった ―彼等にはこれしかない― ので田中さんと相談、民泊の家から背広を貰って着替え、深夜の新京方面に向かう列車に便乗した。田中さんの家族は新京に残っておられるので心配な訳だ。

大石橋駅で駅員から、貴方達のその格好では危険だ。昨日も奉天《ほうてん=現在中国の瀋陽、遼寧省の省都》でよい服装の日本人が現地人に襲われたと言うので、駅員のワイシャツとズボンを無心《むしん=こいねがう(頂く)》し背広を提供、コンドゥクトルと書いた赤腕章を巻いて機関車の直ぐ後ろの石炭車に乗った。新京に着いたのが9月下旬、ワイシャツ姿ではもう寒い。

ちょうどその時、この列車の列車長と称するソ連将校が来て「この列車は白城子《中国読みでパイチャンズ=吉林省の内蒙古自治共和国との境界にある町》へ行く。どうだ、一緒に来ないか。防寒具も支給する。明朝出発する」と言う。決してソ連領内へ連れて行くとは初めからは言わないところがくせ者だ。「スパシーボ、実は新京市内に恋人がいる。一目会って来たい。明朝出発までには必ず帰って来るから」と言うと彼は案外簡単にOKし、夜道は危険だ、気を付けて行け、彼女によろしくな、と付け加えてくれた。個人的には人が好いのがロシア人だ。

今のうちにと田中さんと二人、夜の街へ出て殊更に暗がりを選んで梅ケ枝町へ。田中さんの家族は白菊町の方だということで、梅ケ枝町の満鉄寮の前で別れた。

 何たる幸運、寮には母が他の家族と一緒に身一つだけだったが、北鮮から戻っていた。財産を捨てに行ったようなものだったが、無事で何より、天いまだ我等を見捨て給わず。




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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/11/29 16:34
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
新京脱出行(一) -2

 満鉄《まんてつ=南満州鉄道株式会社(当時国策として日本が施設していた)》新京本社調査部に新京商業時代の恩師安達正栄先生が居られたので何とか働き口をお願いしたところ、新京駅構内運転所での通訳という仕事を見つけて下さった。通訳の中には20期の大西(現小林)栄さんもおられた。

 ある夜勤のとき、奉天北方で列車の追突事故が起きた。追突した方は機関車にまで鈴なりの状態だったらしく大勢の死傷が出た。即刻、山口駅長以下関係者が運転所に集められた。声を荒げて喚き散らすソ連人駅長。

 日本人側は寂として声なし。私の横に並んでいた駅員が二人 「偉そうに威張りやがって……」とささやいた途端、その横にいたソ連女性(小柄でなかなかの美人)が独言のようにしかも日本語で「あんな事言ってる、いいのか知ら」と。私は慌ててこの二人に注意した。こわい。どこに、どんな形で探りを入れているか、全く油断がならない。

 数日後の朝、出勤して運転所へ行こうとしたら下番《かばん=勤務を終えた人》の人が来て、今運転所へ行ったら危ない。夜中に、駅長さんと大西さんが引張られたと言う。直ぐさま駅舎二階にある庶務課へ逃れた。ここには新京商業時代の級友近藤智冶君が勤めていたからだ。事情を話して夕方までかくまってもらい、貴賓室通路から脱出させて貰った。友の有難味をしみじみ味わった次第。

 運転所勤務中、貴任感あふれるソ連人運転司令の言動を一つ。彼は軍人の位はわずか軍曹《ぐんそう=軍隊の階級で下士官の位置にあり少佐或は大尉よりも下の階級》。北上してくる列車の列車長はほとんどが少佐、大尉クラス。その誰もが自分の列車を優先させようと脅したり、すかしたり、あの手、この事を使ってこの軍曹に迫ってくる。
が、この軍曹、頑《がん=かたくなに》として順番を変えようとしない。自分は駅長からこの仕事を任されている。自分が最高の決定権者であり、あなた達の言い分は受け付けない、と突っ放して譲らない。

 列車長達はしぶしぶ引き下がっていったが、日本人だったらどうだろうか。肩書、学閥、コネが物を言う日本人社会では、このような頑固なまでの信念の持ち主は、かえって偏屈者《へんくつもの=性質がねじけている》扱いされるのではないだろうか。


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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/11/29 16:36
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
新京脱出行(二) -1

 昭和二十年十二月から翌年、一月まで満鉄寮に母と二人、他に満鉄社員が十家族くらいこもっていた。ご多聞にもれず、窓というまどには板ぎれを打ちつけ、正に逼塞《ひっそく=姿を隠して引き篭もる》状態。

その頃、ソ兵が満鉄社宅を駅近くに求めたいというので露月町、羽衣町あたりを歩いていると、この家が気に入ったと言う。案内を乞うと、出て来たのがナント新京商業時代の漢文の先生ナメちゃんこと戎田貞造さんではないか。これはいかんと思い、この家には悪い病気の人が居るから駄目だと告げ、別の家を物色したことがあった。

 二十一年一月十日頃、近くの家にソ兵が侵入し暴れているとの知らせに直ぐさま駆けつけ、その筋に通報するぞと脅かして、引き取らせたが、今思うと、私にもロシヤ語が多少話せた時代があったのだなあと感無量《かんむりょう=計り知れない程身にしみて感じる》だ。

 いずれにしてもソ軍兵士の程度は極端に低く、無知蒙昧《むちもうまい=愚かで道理に暗いこと》振りは驚く程だった。満洲《まんしゅう=中国東北部》に侵攻したら、そこにある日本人の財産は勿論のこと、女もお前達のものだと吹き込まれて日ソ不可侵条約《にっそふかしんじょうやく=1941/4月に日本とソビエート連邦共和国とがお互い侵入しないと条文を作り約束した(しかし1945/8月に一方的にソ連が破棄して侵入してきた)》を踏みにじって送り込まれてきた連中のこと、やりたい放題の態だった。

 生活するために何か収入の途を考えねばならない。母と相談して、机を改造して車輪をつけ、速成の「オデン屋」を開業。毎日、ダイヤ街まで引っ張って行き、母が看板オバサン、日が落ちて、薄暗くなった頃合を見て屋台を引き取りに行く。その日の売れ残りの酒は私の腹に納まるという日課。でも四月になるともうオデンはダメ。暫く様子を見ることにした。

 新京郊外の緑園には奥地から引き揚げてきた人達で一杯。その人達に衣類をという日本人会の呼びかけに在留邦人が多少なりともと応じたが、その中で、めぼしい品物は日本人会職員が奪い合っていた。戦争がすっかり国民性の本質を暴き出した感がある。

 日本人の殆んどの者が独善的で排他的で、他人の苦しんでいるのを見ても助けようとはしない。頑なに城壁を張りめぐらし、身内の者だけよければよいというところを嫌というほど見せつけられた。

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/11/29 16:40
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
新京脱出行(二) -2

 さて、生活の糧であるが、すすめる人があり、六月からアイスクリームの製造販売に挑戦した。エキスを仕入れて来て寮の風呂場で容器(エキス販売者の考案のもの)の真ん中にエキス、その外枠に氷を詰め、汗だくになりながらハンドルを廻すと、次第にアイスク
リームが出来上がってくる。すべて手作業だが、面白いものである。これを台車に積んで宝山百貨店近くに売りに出る。この台車はオデン屋のときの屋台の上を取り払ったものである。

 昼間、一杯五円で売るのだが、なかなか売れない。ところが夕方からダイヤ街で一杯十円で売ると、この方がよく売れた。人間の心理って常識では判らぬことが多い。この分なら何とか母と二人やっていけるのではと喜んでいたらコレラが発生、氷物・水物は販売禁
止という通達。これには参った。売り食いするような衣類等は全くない。

というのは終戦直前の十一日、母は満鉄社員と一緒に北朝鮮経由帰国すべく大急ぎで荷造りをし新京出発、鴨緑江《おおりょっこう=北朝鮮と中国との国境を挟む川》を渡ったところで終戦。持って行った荷物を置いたまま急拠新京へ引き返したので、まるで満鉄社員(一部)は財産を北鮮へ渡しに行ったようなものだった。私は当時、軍隊に居り、十六日に部隊と共に南下したので知る由もなかった。

 アイスクリームのあとは煙草の売人を始めた。城内へ煙草の葉と香料を仕入れに行き、これを刻んで香料を振りかけ、適当に乾燥させたところで紙巻き煙草に仕上げる。勿論「前門」「ルビークイン」等も仕入れてきて一緒に並べる。いくらで仕入れて、売り値をどうしたかは忘れたが、そこそこの収益にはなった。机の引き出しに並ベて道端に腰を下ろして買い手を待つわけ。

その頃、中国人が話かけて来た。日く「日本へ帰ってもアメリカの空襲で殆ど壊滅状態だ。それより新京に残って働かないか」と。どういう素性の人物かは分からないが、いかにも親切そうな人だった。しかし母も居ることだし、内地へ帰りたがっているからと辞退した。どういう心算だったのだろうか。

 ポッボツ引き揚げの噂が聞こえだした。緑園地区などから先に帰れるのだという。

 昭和七年に満洲へ渡り、十四年、新京商業の修学旅行時と、十五年、ハルビン学院入学時、束京代々木の日本青年館に集まった時の二度しか内地へ行った事のない身が、これで内地へ帰れると思ったのが二十一年八月。ところが、また大難。母が急病でオコリのように全身をふるわせ、血の気はなくなり、歯を食いしぼっての苦しみ。医者の当てもなく私はただオロオロするばかり。

と寮内に、旧満洲国《まんしゅうこく=中国東北部に日本が国策として建国させた国》政府の医者でドイツ帰りの人を知っているので、良い薬を持っているかも知れない、と教えてくれた。その医者に症状を話すと、粉薬を二服くれて、一服で利くはずだという。早速のませると効果てきめん。症状が治まると共に、排便と一緒に大きな回虫が二匹も出てきた。二十センチ以上だったと思う。腸壁に食いついていたらしい。

もし腸を破っていたら腹膜炎になるところだった。これで病源が取り除かれたので、あとは元気をつけるよう食養生することになった。


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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/11/29 16:44
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
新京脱出行(二) -3

 そのうちに引き揚げ開始。われわれの梅ケ枝町地域は六十七か六十八団だったと思う。母の体力は回復には未だほど遠い。しかし、この機会を逃がすことは出来ない。持ち物は各自リュック一個に制限された。何としても母の分も運ばねばならない。

そこで工夫したのが、今でいう大型トランクのキャスターのようなもの。幅十センチ、長さ四十センチくらいの板ぎれ二枚を十文字に組み合わせて、それぞれ二個あて戸車を先端に打ちつけたものにリュックをのせ、紐で引っ張っていこうという次第。

南新京から無蓋貨車《むがいかしゃ=天井のないむき出しの貨車》に乗ったのだが、外廻りにロープを張り廻らし、その内側に人、荷物は真ん中に積んだ。こうしないと列車の停止中は勿論、徐行中でも手釣などを使って現地人に掠奪されるからだ。このように用心していても被害があったのだから、弱り目にタタリ目という外はない。

こうした光景は多くの方々の証言、書き物があるので読まれた方も多いと思う。どうにか金州《きんしゅう=遼東半島の先端のある町》着。ここで徹底した所持品検査が行われた。われわれの引き揚げ団は特に目をつけられていたらしい。いよいよ乗船港のコロ島《中国読み、フールタオ=遼東半島の先端、渤海湾の北にある港で島ではない(満州に散らばっていた日本人の引き揚げした港》着。ところがここで難題が生じた。

 「各団から独身男子を一名ずつ使役に出せ。給与は厚遇するが、期間は未定」とのこと。わが団では独身男子は私一人(独身者同士が日本上陸まで夫婦の形態をとっている者もいた)だ。が、病み上りの母を抱えている。どう切り抜けるか苦慮《くりょ=困り果てている》していると隣の団から救いの神が現れた。

「どうせ帰っても身寄りもない自分だ。君には大病を患ったお母さんが居る。代わってあげよう」と。正に地獄に仏とはこのことか。でもその後、その方がどうなったか、何時頃まで徴用されていたのか手掛かりも何もない。今こうして曲がりなりにも一応平和に暮らしておれるのも、その方のおかげと折に触れ今年(1989年)八十八歳になる母と話している。

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あんみつ姫

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/11/29 16:46
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
新京脱出行(二) -4

 待望の乗船。船底にピッシリ詰め込まれた。でももう直ぐ故国の土を踏めるとあれば、十四年間住んだ満洲との別れも過去の中に去ってしまった感じだ。海水にワカメを浮かべただけの汁と雑穀入りのご飯も苦にならない。

 博多港に入って、さあ、上陸という時になって船内にコレラが発生。患者は即上陸して隔離《かくり=伝染病患者を特定の離れた病室に離す-》、検査結果が判明するまで船は沖合に出て三週間の足止め。この期間の方が辛かった。

 いよいよ上陸が始まり、甲板に列をつくつていると世話人の中に何と丸林四郎(現姓近藤)がいるではないか。「引揚げ援護局の仕事をしている。お前が乗っていたのなら新聞でも差し入れしてやるのだった」と。帰国第一歩で会ったのが学院同期生とは奇遇としか言いようがない。

 上陸して援護施設の宿舎に向かう。道端の店の物は豊富だが高いのに驚く。翌朝、博多を出発、無事福井駅に降り立ったのが昭和二十一年十月某日の夕方。母もよくここまで持ちこたえてくれたものよと感謝すると共に一安心。とりあえず例のリュックを駅前の援護局の出先のような小屋に預け、われわれのように更に奥の方(私達は今の大野市)へ行く者のために用意された仮宿泊所へ向かった。

どのような歓待を受けたかは今はもう覚えていないが、故郷にたどりつき、心ばかりのお土産として取り出そうとしたとき、なけなしの金で買って来た煙草や、博多で支給された新品の軍服が抜き取られているのに気がついた。

 新京での居留民会職員といい、今回のことといい、救いの手を差しのべるべき側にある人達が、その上前をはねるとは何事ぞ、言いようのない憤りと悲しみを覚えたことだった。
                                                    (おわり)


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あんみつ姫

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