沖縄特攻に散った山中正八に捧げる43年目の弔詞
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投稿日時 2008/2/6 16:17
kousei2
投稿数: 250
これは哈爾浜《ハルピン》学院21期卒業生の同窓会誌「ポームニム21」に寄稿された作間 隆美氏の記録を、久野 公氏の許可を得て記載するものです。
山中正八よ、君が、終戦の日から八十二日前の昭和二十年五月二十五日朝、福岡市郊外の太刀洗陸軍飛行場から発進した重爆《大型の爆撃機》特攻機飛龍の乗員として沖縄本島西方海上に突入して散ったことを初めて知った。
昭和十五年四月、同期入学した二十一期生を代表して同窓会機関誌「ハルビン」の紙上を借り、ここにうやうやしく弔意を表する。霊よ、このどうにも遅過ぎた四十三年目の弔詞を心よく享けてくれ。
これまで君は、本土上空で戦死ということだった。君が航空に転科したことは分かっていたので、偵察将校《航空機の航法(ナビゲータ)選科の将校》として散華《戦死》、と考えていた。
正確には、風聞に近い不正確なものだったのだが……。それが、この四月二十五日、在京の内藤操(上智大)からの葉書で一変する。
『いささか興奮して一筆する。十九期の堀内さん(斌さん・福岡県小郡市居住)が、発見して野島さん(同窓会本部長)に送ってくれた本「太刀洗飛行場物語」の「山中正八見習士官航法士-死地への道案内者」という記事を見た……早速、筆者に会ってみてほしい』
頭をガーンと鉄棒で殴られた感じだった。私も新聞関係にいて、この本の出たことは知っていたのに、山中正八が沖縄に飛行機で突っ込んだとは、つゆ知らなかった。迂閥だった。
内藤じゃないが、頭がカッとなって発行所の葦書房に走った。九州を中心にまじめないい本を数多く出しているので有名な出版社で、五十六年発刊ながら、まだストックがあった。
著者の桑原達三郎さんは、高校教諭で現在予備校の講師をなさっている。勤務先の久留米市・円のホテルで昼食をとりながらお話を聞いた。まず、本に採り上げていただいたことのお礼を申し上げた。
一番尋ねたかったのが、書中の第三話「太刀洗飛行場から直接出撃した重爆飛龍特攻隊員群像」のその一「死地への道案内者山中正八見習士官航法士」の一八ページにわたる本文のうち一四ページを占める君の日誌「修養録」についてだった。昭和十九年夏、内地から北満の綏化《中国黒龍江省ハルピン北東の都市》に向かうところから始まる日誌の内容は、削除した個所はないのかどうか。
同年八月十日の項に「新京《中国東北部現在の長春》着、任地出発迄、時間ヲ利用シ、新京ニイル学院ノ旧友達ニ会ヒ、久方ブリニビールヲ飲ミ、大イニ歓談ス 綏化二向フ学院生ハ我一人ノミ」と書いてあるが、この旧友とは内藤と小生である。二人は当時、関東軍総司令部の通訳生で、一日一回ハバロフスク放送の独ソ戦況放送を翻訳していた。三〇分もあれば終る簡単至極なもので、(バカげているが、これで内藤は十一年間もシベリア獄《捕虜抑留所》につながれた)あとは時間をもて余していた。
新京を通過する同期生連中の連絡場所だった。
君からの電話で外出許可を取って新京駅へまず私が駆けつけた。途中、吉野町で着脱自在にしていた軍属帽の星の記章を外すのを忘れていた。
「なぜ敬礼せんか」と怒鳴られた。どうせ幹侯《幹部候補生》の少尉のくせにと、屈辱感にさいなまれつつ何分かの説教に耐えた記憶が抜けぬまま、正八よ、この日のことが忘れられぬわけだ。新京駅周辺でビールが飲めたのか、我々二人の宿舎だった中央飯店まで連れ立って行ったのか、そこのところはハツキリしない。
その後の内藤の便りで「その日に、二人の名が出ているのを筆者は省いているのじゃなかろうか」との疑問も出たし、私も同感だったが、筆者桑原さんはキッパリと否定した。「一字一句、そのまま載せております」とのことだった。
桑原さんは昭和十九年に大連二中から陸士《陸軍士官学校》へ進み、戦後宮崎高農を出た人で、高校教師時代に地元太刀洗飛行場にまつわる記録をまとめるよう依頼されたのが執筆のきっかけ。資料集めの中で、特攻生き残りとして遺族探しに奔走していた犬山市の板津忠正さん (この六月まで鹿児島県知覧町の知覧町立特攻平和会館館長だった)を知り、その斡旋で「修養録」を君の妹さんの八重子さんから借り出してもらった、という桑原さんの話だった。
だから、桑原さんは直接八重子さんと接触があったわけではなかったということだ。それだけに桑原さんとしては「修養録」の中身については恣意《しい=思いのまま》を入れぬよう忠実に転写したという。
君の修養録から推しはかると、昭和十八年十二月初めに学徒出陣《注》で遼陽《中国遼寧省の都市》に入隊し、綏化を経て十九年十月一日に公主嶺《中国吉林省西部にある都市》の航空予備士官学校に入校、十一月五日、陸軍特攻隊の母校であった宇都宮教導航空師団に移る。
航法士《ナビゲーター》訓練のあと、翌二十年四月十一日、特攻出撃の命を受け、五月二十五日朝六時、機長以下四人の搭乗員の一人として双発の重爆飛龍で太刀洗飛行場を飛び立ち、同八時五十七分「我突入ス」の信号のあと、沖縄本島那覇のほぼ西方海上に突入した。大正十二年一月生まれの満二二歳と三カ月だったよね。
(つづく)
注
昭和18年10月 当時の大学 高等専門学校学生には徴兵猶予の制度があったが これが撤廃され文科系学生は12月に 学窓から軍隊に徴兵された
山中正八よ、君が、終戦の日から八十二日前の昭和二十年五月二十五日朝、福岡市郊外の太刀洗陸軍飛行場から発進した重爆《大型の爆撃機》特攻機飛龍の乗員として沖縄本島西方海上に突入して散ったことを初めて知った。
昭和十五年四月、同期入学した二十一期生を代表して同窓会機関誌「ハルビン」の紙上を借り、ここにうやうやしく弔意を表する。霊よ、このどうにも遅過ぎた四十三年目の弔詞を心よく享けてくれ。
これまで君は、本土上空で戦死ということだった。君が航空に転科したことは分かっていたので、偵察将校《航空機の航法(ナビゲータ)選科の将校》として散華《戦死》、と考えていた。
正確には、風聞に近い不正確なものだったのだが……。それが、この四月二十五日、在京の内藤操(上智大)からの葉書で一変する。
『いささか興奮して一筆する。十九期の堀内さん(斌さん・福岡県小郡市居住)が、発見して野島さん(同窓会本部長)に送ってくれた本「太刀洗飛行場物語」の「山中正八見習士官航法士-死地への道案内者」という記事を見た……早速、筆者に会ってみてほしい』
頭をガーンと鉄棒で殴られた感じだった。私も新聞関係にいて、この本の出たことは知っていたのに、山中正八が沖縄に飛行機で突っ込んだとは、つゆ知らなかった。迂閥だった。
内藤じゃないが、頭がカッとなって発行所の葦書房に走った。九州を中心にまじめないい本を数多く出しているので有名な出版社で、五十六年発刊ながら、まだストックがあった。
著者の桑原達三郎さんは、高校教諭で現在予備校の講師をなさっている。勤務先の久留米市・円のホテルで昼食をとりながらお話を聞いた。まず、本に採り上げていただいたことのお礼を申し上げた。
一番尋ねたかったのが、書中の第三話「太刀洗飛行場から直接出撃した重爆飛龍特攻隊員群像」のその一「死地への道案内者山中正八見習士官航法士」の一八ページにわたる本文のうち一四ページを占める君の日誌「修養録」についてだった。昭和十九年夏、内地から北満の綏化《中国黒龍江省ハルピン北東の都市》に向かうところから始まる日誌の内容は、削除した個所はないのかどうか。
同年八月十日の項に「新京《中国東北部現在の長春》着、任地出発迄、時間ヲ利用シ、新京ニイル学院ノ旧友達ニ会ヒ、久方ブリニビールヲ飲ミ、大イニ歓談ス 綏化二向フ学院生ハ我一人ノミ」と書いてあるが、この旧友とは内藤と小生である。二人は当時、関東軍総司令部の通訳生で、一日一回ハバロフスク放送の独ソ戦況放送を翻訳していた。三〇分もあれば終る簡単至極なもので、(バカげているが、これで内藤は十一年間もシベリア獄《捕虜抑留所》につながれた)あとは時間をもて余していた。
新京を通過する同期生連中の連絡場所だった。
君からの電話で外出許可を取って新京駅へまず私が駆けつけた。途中、吉野町で着脱自在にしていた軍属帽の星の記章を外すのを忘れていた。
「なぜ敬礼せんか」と怒鳴られた。どうせ幹侯《幹部候補生》の少尉のくせにと、屈辱感にさいなまれつつ何分かの説教に耐えた記憶が抜けぬまま、正八よ、この日のことが忘れられぬわけだ。新京駅周辺でビールが飲めたのか、我々二人の宿舎だった中央飯店まで連れ立って行ったのか、そこのところはハツキリしない。
その後の内藤の便りで「その日に、二人の名が出ているのを筆者は省いているのじゃなかろうか」との疑問も出たし、私も同感だったが、筆者桑原さんはキッパリと否定した。「一字一句、そのまま載せております」とのことだった。
桑原さんは昭和十九年に大連二中から陸士《陸軍士官学校》へ進み、戦後宮崎高農を出た人で、高校教師時代に地元太刀洗飛行場にまつわる記録をまとめるよう依頼されたのが執筆のきっかけ。資料集めの中で、特攻生き残りとして遺族探しに奔走していた犬山市の板津忠正さん (この六月まで鹿児島県知覧町の知覧町立特攻平和会館館長だった)を知り、その斡旋で「修養録」を君の妹さんの八重子さんから借り出してもらった、という桑原さんの話だった。
だから、桑原さんは直接八重子さんと接触があったわけではなかったということだ。それだけに桑原さんとしては「修養録」の中身については恣意《しい=思いのまま》を入れぬよう忠実に転写したという。
君の修養録から推しはかると、昭和十八年十二月初めに学徒出陣《注》で遼陽《中国遼寧省の都市》に入隊し、綏化を経て十九年十月一日に公主嶺《中国吉林省西部にある都市》の航空予備士官学校に入校、十一月五日、陸軍特攻隊の母校であった宇都宮教導航空師団に移る。
航法士《ナビゲーター》訓練のあと、翌二十年四月十一日、特攻出撃の命を受け、五月二十五日朝六時、機長以下四人の搭乗員の一人として双発の重爆飛龍で太刀洗飛行場を飛び立ち、同八時五十七分「我突入ス」の信号のあと、沖縄本島那覇のほぼ西方海上に突入した。大正十二年一月生まれの満二二歳と三カ月だったよね。
(つづく)
注
昭和18年10月 当時の大学 高等専門学校学生には徴兵猶予の制度があったが これが撤廃され文科系学生は12月に 学窓から軍隊に徴兵された