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Re: 沖縄特攻に散った山中正八に捧げる43年目の弔詞

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kousei2

通常 Re: 沖縄特攻に散った山中正八に捧げる43年目の弔詞

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2008/2/6 16:19
kousei2  長老   投稿数: 250
 ここで君と私個人とのかかわりに触れてみる。
昭和十五年四月に入学して入った寮が二棟から成る北寮。学院本校舎から北西一キロほどで野っ原に建ったばかり。その三号室で一緒になる。

わずか一年の同室生活に過ぎないが、今だにこの部屋番号が同期各人の出自《出処》を決めている。林孝道(長野・南方で戦死)森田静男(熊本)高取保夫(撫順中)城所・現水野尚爾(愛知)北島・現吉田威陸男(福岡)池田栄(哈爾浜中)松並博(大分)に岐阜の君と福岡の小生、それに室長山県奉天(戦死)、副室長細田度(松山中)の二人の二年生だった。関恵禄ら二人の漢族学生もいた。

君と小生の二人とも馬術部に入る破目になってバザールで中古の長靴を買った。お互いの純朴さを相手の鏡の中に認め合ったというわけか、堅苦しい中学生活からの解放感の中で、背伸びしいしい口角泡を飛ばしていたように思う。今でいう五月病も経験した。 

やがて私は、馬術部は身のほど知らずと知って、細田さんや高取のいたラグビーに移った。君はそのまま馬術部で通したのでは? 二年になると皆ロシア人の家に下宿したので、学校で顔を合わせる程度になる。

 こちらは、講義は休んでもラグビーの練習は夜九時頃まではやるという生活でかなり疎遠になったはずだ。だから君の留年に驚くことになる。

 こんどのことで広島の木元真二郎に電話すると「三年へ上がる時に、山中は確か試験に白紙を出したと聞いたがナ」とのことだった。
 今にして君の性格月旦《げったん=人物批評》をやると、直情径行、純情、素朴、つまりナイーブというやつだ。

 このほどの手紙で、妹さんの八重子さんは「短気で感情的になり易い性格」と書いておられるが、考えてみると、悲憤憤慨《憤る》が時代の風潮だったのだから、私を含めお互い血の気の多い、激し易い愛国少年であったわけだ。それにつけても、君が残した修養録で特攻出撃の直前に記したと思われる絶筆は琵琶湖就航の歌の冒頭「我は海の子 さすらひの」の一〇文字だった。

著者桑原さんは「彼が言いたかった言葉は〝滋賀の都よ いざさらばの最後の五文字ではなかったのでは」と推察しておられる。この歌はすがすがしく、しかも哀傷切々としたロマンチックなメロディーで広く愛唱きれていた。
いつまでも続く薄暮の中で、北寮柵外の原っぱに車座になって放歌高吟したスタンダードナンバーの一つだったよナ。

 君との間をつなぐ糸の一つに思い出したことがある。ある作家の随筆に「代返の名人だった」というのを読んで記憶がよみ返ったのだ。確か二年生の秋のころ、正面本館から鍵の手になった三階の大教室でのこと。白井(長助)教授の歴史の時間だった。

白井さんは小柄で、色の白い、チョビ髭を生やした、歯切れのいい江戸っ子風の人。東京の家をたたんで一家あげて哈爾浜に引っ越してきたばかり。年は、不惑《ふわく=迷わない(40歳》には達していなかったのではネ。私はサ行だから初めの方、君はヤ行だからあと。といってもせいぜい出席者三〇人ほどの中で、代返がうまくいくわけがない。

 キッとなった白井さんが、ツカツカと靴音も高く、教壇を降りてきて、眼鏡を外し起立して待つ小生の左頬を右手でパチン。そのあと、何のこともなく講義は進んだ。こんな代返をチョクチョクやったり、やってもらったりの記憶はないし、どういう話でこうなったのかは全く忘却の中にある。

 君にして、何で自らダブったのか、私も分からぬが、強いて知ったかぶりをすれば「水清くして魚棲まず」の逆で、君のハートがクリーン過ぎて、対人関係にしろ学校生活にしろ、さらに社会や国の側の汚なさ、不正に拒絶反応を起こして免疫不全症侯群的症状を呈するに至ったのでは、と理屈づけてみたくなっている。考える芦《パスカルの名言》なのだから、傷つき易いのは当然だ。何かそうしたモメントがあったのだろうと私は思っている。

 ここで、言っておきたいことがある。君も一番聞きたい点だと考えるからだ。ハツキリ言おう。
特攻死について、君は胸を張れと。大東亜戦争は悪い戦争だったという戦後の呪縛は、やがて世界史のなかで解消するだろうからだ。五十年はもたぬのでは。早ければあと二十年もすれば、再評価の時が来るのではないかと思うよ。

大東亜戦争の悪の部分をすべて帳消しにして余りある正の部分、それは東アジアの雄中国をはじめ朝鮮半島、東南アジアの全植民地の解放戦争だったとされるのは必至だ、ということさ。さらに広げて中近東、アフリカをはじめ全世界の植民地解放へのインパクトを与えたとの評価を加えても、オーバーではないはずだ。歴史の皮肉(ヒストリカル・アイロニー)というやつだよね。

 特攻死は、狂気以外の何ものでもない。戦術面ではともかく、戦略面での特攻なぞイクオル自己崩壊ということだ。軍部による戦争指導の数多くの愚劣さに罵詈雑言《ばりぞうごん=ののしる》の限りを尽くした上で、この特攻という名の非条理極まるパフォーマンスこそ、戦後の複雑な世界政治の中で、かろうじて日本人を侮らしめなかった、肝腎かなめのパワーではなかったのか、とも思う。無駄死など、とんでもない。

 最後に十五年入学組の消息を披露しよう。八十人のうち同窓会名簿二十一期の在籍者五十二人。この三月、名古屋の早瀬茂男が逝った。隣県だし、君は割と近かったはずだ。内藤は昨年発刊の哈爾浜学院史冒頭の総括において、四分の一世紀二十五年にして夭折《よおせつ=若死に》した学院史のキーワードを「始めに終わりありき」と刻みつけた。そのひそみにならえば、お互い人間としての個人史は「生、その始めに死ありき」というよりない。

君は二十二歳にして世を去った。その日から四十三年、馬齢を加えて多くが六十代後半に入ったクラスメート五十二人は今、常時〝死″と対面している。いつ来るとも知れぬ死とだ。おののき、震えつつ死を待っているというのが偽りのないところだよね。

 二十年四月十一日に命令を受け、五月二十五日に出撃するまでの四十四日間は、君にとっての地獄の時間だったはずだ。四月十二日には太刀洗飛行場に進出して待機しているのだが、四月二十二日いらい日誌の空白が続き、判読不能の部分が多くなっている。計算できる死の日を目前にしての君の心情を思えば、慟哭よりない。 

なに、長くても二十年は待つことはなかろうよ。君ら先発組が天にあるか、西方一〇万億土にいるのかは知るすべもないが、居心地のいい場所を確保しておいてくれ。逐次、不等間隔で君らの待つ第二クラス会に参入してゆくはずだ。

 同期生に代わって、君へ寄せる限りない衷情《ちゅうじょう=真心》を汲み取ってくれれば、それにまさる善びはない。
 ヌー・パカー! 
                 昭和六十三年七月

                  (つづく)

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