札幌護国神社・彰徳苑の碑より・アッツ島
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アッツ島玉砕雄魂之碑
建 立 昭和四十三年(一九六八)七月二十九日
建立者 アッツを偲ぶ会
ミッドウェイ一作戦が惨敗《ざんぱい》
したため、アリューシャン列島攻略に方針が変わり昭和十七年(一九四二)六月、アッツ・キスカ両島を占領し、北方よりの米軍の反攻《はんこう》
に備え、同島を警備していた。
昭和十八年五月十二日午前十時三十分、アメリカ陸軍部隊の主力がアッツ島マサッカル湾の南浜めがけて上陸を強行した。米軍の兵力は二万をこえるものと推定きれたが、これに対する北海守備第二地区隊(アッツ守備隊)は、隊長山崎保代大佐以下二千六百三十八名にすぎなかった。
この敵を迎え撃った北海道と東北出身の精兵は、上陸以来連日、概成した陣地に拠り、あるいは陣前に出撃して白兵を交え、圧倒的な敵兵カと物量に対して一歩も退くことなく各所に激戦を操り展ろげた。
北洋の島の戦いは一日ごとに凄絶さを加えていった。この知らせ聞いてもっとも心痛したのは、隣のキスカ島にいた北海守備隊司令官峯木十一朗少将であった、いや、峯木少将ばかりではない。北千島守備隊、海軍第五艦隊、そして北方軍司令部・大本営も、このアッツ島守備隊の急援に心肝《しんかん》
を砕いた。
救援のため第七師団の主力の派遣が真剣に計画され、アッツ島に送るべく諸準備がすすめられ、第七師団長鯉登中将は、みずから北方軍司令部に出頭し「郷土の兵隊を見殺しにはできん。この反撃はぜひ第七師団にやらせてほしい」と卓を叩かんばかりに懇請した。しかし、一兵も、一艦も、一機もアッツ島に送ることができず、ただできることは『激励』と『健闘』を祈る電報のみであった。
五月二十九日午後九時十分、アッツ島より最後の電報が届いた。「従来ノ懇請《こんせい》
ヲ深謝スルト共二閣下ノ健闘ヲ祈念ス」残存一三〇名の将兵は、午後十時三十分、山崎大佐を先頭に、暗夜一団となって最後の突撃を敢行、全員玉砕したのである。