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札幌護国神社・彰徳苑の碑より

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2008/6/27 8:53
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 はじめに

 札幌護国神社・彰徳苑には、約二十の碑が建っています。
 このなかから、我々の生きた昭和以降の碑をご紹介せて頂きます。
 なお、この件につきましては、札幌護国神社様のご了解を頂戴しております。

 メロウ伝承館 スタッフ

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ノモンハン英魂之碑

 建 立 昭和四十二年(一九六七)

 建立者 ノモンハン戦没将兵慰霊碑建立期成会

 昭和十四年(一九三九)五月十二日、満洲國の西方国境でノモンハン事件が勃発《ぼっぱつ=突然発生》した。事件の起こったノモンハンは満州西北部のハイラル南方約六〇〇キロ附近の草原にある小村で、その西南方ハルハ河をソ蒙兵の小部隊が越境して清洲國軍と衝突したのが事件の発端で、二十日、ソ連機械化部隊と外蒙騎兵が再び越境し、この地区の防衛を担当した、第二十三師団との間で戦闘が繰り返された。
 ノモンハンの戦闘は七月三日から五日までがもっとも激甚をきわめ、ハルハ河を渡って侵攻してきた敵機械化部隊に対し、第二十三師団と郷土の歩兵第二十六聯隊・歩兵第二十八聯隊が遮蔽物《しゃへいぶつ=覆い》の全くない炎天のハルハ・ホルステン両河畔《かはん=川岸》及パルシャガル高地で、圧倒的な敵大軍と死闘を交えたのである。
 八月二十日から三十日にかけては、ウズル水西方七五二高地附近の激戦が展開されたが、フイ高地では猛砲撃による死傷者が続出、更に戦車を伴う歩兵の攻撃をうけ連絡が速断され、歩兵第二十六聯隊の第一大隊、歩兵第二十五聯隊歩兵砲中隊が全滅するという非運の外、歩兵第六十四聯隊、井置捜索聯隊が全滅し、ノロ高地附近では第八国境守備隊も全滅している。この反撃は総崩れの敗退となり、第二十三師団は壊滅《かいめつ=全滅》状態となり、戦場で敵の猛攻を支えているのは歩兵第二十六聯隊の二個大隊と歩兵二十八聯隊の二個大隊のみで、従って二十七日以降、ホルステン河南岸の全戦線における戦闘の中心は、第二十三師団から第七師団に移行せざる得ない状態となった。第七師団は連日にわたるソ連軍の執拗《しつよう=しつこい》な砲撃を受け多くの死傷者を出していたが、「九月十八日夜を期し総攻撃開始」の命令が伝達され、総攻撃に備えていたが、九月十五日、モスクワで停戦協定が成立し、十六日午前八時、第七師団に停戦の命が下ったのである。
 現在は、毎年九月十六日に、遺族・戦友が集まり慰霊祭が行われている。


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/6/28 9:06
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 
 アッツ島玉砕雄魂之碑

 建 立 昭和四十三年(一九六八)七月二十九日

 建立者 アッツを偲ぶ会

 ミッドウェイ一作戦が惨敗《ざんぱい》
したため、アリューシャン列島攻略に方針が変わり昭和十七年(一九四二)六月、アッツ・キスカ両島を占領し、北方よりの米軍の反攻《はんこう》
に備え、同島を警備していた。
 昭和十八年五月十二日午前十時三十分、アメリカ陸軍部隊の主力がアッツ島マサッカル湾の南浜めがけて上陸を強行した。米軍の兵力は二万をこえるものと推定きれたが、これに対する北海守備第二地区隊(アッツ守備隊)は、隊長山崎保代大佐以下二千六百三十八名にすぎなかった。
 この敵を迎え撃った北海道と東北出身の精兵は、上陸以来連日、概成した陣地に拠り、あるいは陣前に出撃して白兵を交え、圧倒的な敵兵カと物量に対して一歩も退くことなく各所に激戦を操り展ろげた。
 北洋の島の戦いは一日ごとに凄絶さを加えていった。この知らせ聞いてもっとも心痛したのは、隣のキスカ島にいた北海守備隊司令官峯木十一朗少将であった、いや、峯木少将ばかりではない。北千島守備隊、海軍第五艦隊、そして北方軍司令部・大本営も、このアッツ島守備隊の急援に心肝《しんかん》
を砕いた。
 救援のため第七師団の主力の派遣が真剣に計画され、アッツ島に送るべく諸準備がすすめられ、第七師団長鯉登中将は、みずから北方軍司令部に出頭し「郷土の兵隊を見殺しにはできん。この反撃はぜひ第七師団にやらせてほしい」と卓を叩かんばかりに懇請した。しかし、一兵も、一艦も、一機もアッツ島に送ることができず、ただできることは『激励』と『健闘』を祈る電報のみであった。
 五月二十九日午後九時十分、アッツ島より最後の電報が届いた。「従来ノ懇請《こんせい》
ヲ深謝スルト共二閣下ノ健闘ヲ祈念ス」残存一三〇名の将兵は、午後十時三十分、山崎大佐を先頭に、暗夜一団となって最後の突撃を敢行、全員玉砕したのである。


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/6/29 8:16
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 北千島慰霊之碑

 建 立 昭和五十年(一九七五)八月二十三日

 建立者 北千島慰霊の会

 千島列島最北端の占守・幌筵など北千島の諸島は、大東亜戦争に於ける国土防衛の北東方面最前線であった。ここを守る第九十一師団は、総兵力二万八千、海軍部隊を併せると三万二千、当時の陸軍においては最精強師団であった。
 昭和二十(一九四五)年八月十七日深夜、時既に終戦であるにも拘わらず、カムチャッカ半島先端のロバトカ岬と、占守海峡を挟んでわずか十四キロの距離に対峙する、占守島北端の竹田浜一帯を猛砲撃し、午後十一時三十分頃竹田浜に上陸を開始した。しかしソ連軍に対する我軍は見事なものであった。緒戦で戦闘指揮所がロバトカ岬の砲台を第一撃で制圧・完全に覆滅《ふくめつ》し、竹田浜の我側防陣地は
両側から上陸するソ連軍に激烈な砲火を浴びせ、竹田浜はソ連兵の屍で宛ら地獄絵図のような惨状となった。
 ソ連軍は約一方の大軍を投入し一気に押し潰そうと躍起になったが、幌筵より援軍が第一線に増強、池田戦車聯隊も全軍突入し、重砲・高射砲は水平射撃で、進出して来る敵を猛射、陸海軍航空隊は敵艦船・輸送船を撃沈・撃破する等敵に壊滅的打撃を与えて、敵を殲滅《せんめつ》するの態勢が整い、堤師団長は二十一日午前六時を期して総攻撃にうつる直前、五時五十分北部方面軍司令部より「至急停戦、武装解除セヨ」との命令を受けて止むなく攻撃を停止し、翌二十二日停戦協定に調印、占守島の戦いは終わった。日本軍の損害は、戦死者約三五〇名、ソ連軍の戦死者約三千名 (ソ連側資料)。
 この戦いで、ソ連の釧路・留萌を結ぶ北海道分割占領の意図を打ち砕いたのである。もし占守島で何の抵抗もなく侵攻を許していたならば、千島列島のみならず、北海道北半分の武力占領も確実に実現され、北海道もまた「ベルリンの壁」に象徴される分断国家の悲劇を招いたことは必死である。
 占守島の戦いは、「国土を護った最後の戦い」であった。


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/6/30 8:32
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 沖縄戦英霊記念の碑

 建 立 昭和四十年(一九六五) 九月二十七日

 建立者 北海道沖縄遺族会

 場 所 中央区伏見 藻岩山ロープーウェイ前

 昭和二十午(一九四五)四月一日、沖縄本島に米が上陸、連合軍にとって沖縄は東京への門であり、この攻略は太平洋戦争最大の陸海軍共同作戦であった。
 攻撃を開始した米の総兵力五十四万八千名、艦船千二百十三隻、援護空母機五百六十四機。これに対し沖縄を守備する日本は、牛島満中将率いる第三十二軍の将兵五万、海軍陸戦隊一万、それに現地の学徒隊・防衛隊四万の計十五万名を数えるだけであった。
 米は猛砲撃にて嘉手納を廃墟に帰した後、全戦カを嘉手納沿岸に集結し、たった一日で主力十八万余を上陸させ、豊かな物量を投じて日本との一大決戦を予想し攻撃をくわえてきた。我軍は強力な砲爆撃に耐える堅固な陣地のなかで静かに待機し、五日に本格的な攻撃が開始され、殺到する米に多大な損害を与えたのである。
 首里一帯の陣地を死守する我軍は、米軍数個師団を迎え撃ち、一ケ月に近い激戦を続けたが、しだいに戦力が低下し、五月四日からは文字通りの持久態勢にはいった。
 米はじりじりと侵攻し、二十九日には首里が占領され、山岳地帯に拠って最後まで抵抗する事となった。兵器、弾薬は欠乏し、米の火力、兵力に圧倒され、第一線陣地は相次いで玉砕。組織的な抵抗は不可能となり、挺身切り込みを行うのがやっとであったが、我軍の抵抗も凄まじく、米のバックナー司今官は日本の必死の反撃で戦死するほどの凄まじさであった。
 六月二十三日、牛島司今官は自決し、沖縄は陥落したが、三ケ月にわたる戦闘で我軍の損害は十一万を数えたが、このなかには従軍看護婦として戦死した沖縄第一高女生、義勇として玉砕した沖縄師範学校生など若い生命も含まれている。
 一方、米の死傷者は三万九千名。
 この戦いで戦死した北海道出身将兵は判明分一万八百余名にものぼり、沖縄戦没者の慰霊と、世界平和の実現を世の人々に呼びかけるため、沖縄遺族会が建立した。


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/7/1 7:27
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 メレヨン島戦没者慰霊

 建 立 昭和四十六年(一九七一)

 建立者 北海道メレヨン会

 メレヨン島は、中部太平洋の赤道線上のほぼ中央に位置する西カロリン藷島にある絶海の弧礁《こしょう》である。この島は、第一次世界大戦の終結により、旧独領の赤道以北が、わが国の領土となり、南洋庁の管轄下におかれていた。
 昭和十九年(一九四四)初頭から米の反撃が熾烈になり、マキン、タワラ島の玉砕《ぎょくさい》に次いで、マーシャルの失陥《しっかん》が相次ぎ、ついには国土防衛の最前線に位置した内南洋への攻撃が始まり、メレヨン島はこの方面で作戦する艦隊、航空機にとっては貴重な拠点として重視された。この島の守備は当初海軍が担当していたが、広く内南洋の強化のため陸は逐次兵力を投入し、守備の強化を図ったのである。
 メレヨン島の守備力増加を察知した連合軍は、昭和十九年三月末、各種軍施設を猛爆しその機能を破壊するなどわが軍に甚大なる被害を与えたが、四月に入ると戦線は後方のマラリア地区へと進展し、サイパン更にベリリユー島を経てフィリピン、小笠原方面と延進し、戦略的価値を喪ったメレヨンは彼我両軍から見捨てられて海上に孤立するかたちとなった。ために増援は勿論のことその補充さえ困難になり、現地部隊は巳むなく自活体勢を執らざるを得ない苦境に追い込まれた。
 「全員が百姓、全員が漁夫となれ」の掛け声も虚しく、兵力の過半数が飢餓と疾病のため陣没し、陸海軍の総兵力六千四百二十六名のうち、帰還後の死没者を含めて実に約五千名が亡き数に入り、復員時の生還者も約半数の七百名が疾病、体力の回復が叶わずして死去し、実質的生還者は六百名に過ぎなかった。
 戦後この厳粛《げんしゅく》にして過酷《かこく》な数字は「メレヨンの悲劇」として伝わり、多くの遺族たちが暗澹たる思いに沈潜していたが、昭和四十二午、顕彰《》を発意し、最も犠牲者を多く出した北海道は、札幌護国神社の境内に慰霊碑を建立し、英魂《えいこん》の安らかに冥されんことを祈念したのである。


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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 樺太大平炭鉱病院殉職看護婦慰霊碑

 建 立 平成四年(一九九二)七月十一日

 建立者 殉職者看護婦慰霊碑建立実行委員会

  昭和二十年(一九四五)八月、樺太はソ連軍の突然の参戦で大混乱となった。樺太北部の恵須取町太平地区も十六日未明の空襲で住民は一斉に避難したが、大平神社の丘の横穴式防空壕に避難していた炭鉱病院待避所には、八人の重症患者を守って高椅婦長以下二十三名の看護婦が踏みとどまっていた。
  午後になってソ連軍が上陸したことを知り、ソ連軍兵もこの重症患者に危害を加ることはないだろうと薬を渡して、炭鉱病院看護婦も夕刻になって避難をはじめた。
  上恵須取への道約二十四キロ、夏草のなかを十キロほど進んでいくうちソ連軍と遭遇したのである。誰もが一瞬、心臓が凍りついた。次の瞬間、道路脇の草の中を泳ぐようにして逃げ葡萄沢まで辿り着いたとき、ソ連軍に囲まれ、南下することも、太平に戻ることも不可能となった。
  高橋婦長が思ったのは若い者護婦を預かっている責任、もし無事な姿で親のもとにかえすことができないとしたら、死を選ぶしかないという事だった。その気待ちはみんなにも伝わった。
  死を決意すると小高い丘を登っていった。ハルニレの大木が一本あり、それを囲んですわると君が代を歌い、山桜の歌を低く唱和し、看護婦達は手首をつかんで血管にカミソリの刃を立てた。やがて自らが力を失い、倒れるからだを起こしては狂気のように掻き切った。そのまま生死の境をさまよい六名が絶命したのである。
  婦長高椅ふみ(三十三歳)・副婦長石川ひさ(二十四歳)・久住きよ子看護婦(二十二歳)真田かずよ看護婦(十九歳)・佐藤春江看護婦(十七歳)・瀬川百合子看護婦(十六歳)
 以来四十七年、殉職者への思いを募らせる遺族や生存者、この事件を終生忘れてはならないとする元大平地区居住者らが発起人となり、六姫命の御霊《みたま》を祀り、永遠の鎮魂《ちんこん》と祖国の限りない平和を祈念するためにこの碑を建立したのである。



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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 歩兵第二十六聯隊旗奉焼《ほうしょう》之碑

 建 立 昭和六十一年(一九八六) 九月十四日

 建立者 歩兵二十六会

 旭川歩兵第二十六聯隊は、明治三十二年(一八九九)十一月二十五日、札幌月寒《つきさっぷ》において創立され、明治三十三年十一月十五日、旭川第七師団創設に伴い、聯隊本部が開庁し、月寒より移転した。
 明治三十三年十二月二十二日宮中に於いて軍旗を親授《しんじゅ=天皇より賜り》し、同年二十六日旭川練兵場に於いて聯陽に旗が授典《じゅうてん=大切に渡され》された。
 明治三十六年(一九〇三)十月二十五日、清國守備隊要員として聯隊から一個中隊が山海関に派遣。明治三十七年の日露戦役では乃木大将率いる第三軍の予備隊となり、松樹山攻撃に参加、二〇三高地及び赤坂山の戦闘は壮絶を極め、聯隊長吉田新作中佐は壮烈なる戦死を遂げ、将枚以下生存わずか六名という激戦であった。
 歩兵第二十六聯隊歴史の特記すべき戦いは、昭和十四年(一九三九)勃発《ぼっぱつ=突然発生》したノモンハン事件である。聯隊長須見新一郎大佐率いる歩兵第二十六聯隊は、ハイラル駐屯の第二十三師団(師団長小松原道太郎中将)の隷下《れいか=配下》に編入きれ、ハイラルから将軍廟までの二百十六キロ、それも炎天下の大平原を完全武装にて六日間で突破し、ハルハ河・ホルステン河を渡河し、ソ連と壮烈なる死闘が繰り返されたのである。
 第二十三師団が壊滅的打撃を受け、各部隊が全滅するなか、歩兵第二十六聯隊は、相当数の被害を受けつつもフイ高地を死守したのである。後に歩兵第二十六聯隊はもっとも長い期間戦い、大きな損害を出し「悲劇の須見部隊」と呼ばれたのである。
 大東亜戦争では、千島防衛強化のため北千島幌延島に上陸し防衛を担当していたが、昭和十九年、第七十七師団と交代、北海道東地区防衛のため本道に帰還し帯広に駐屯、昭和二十年八月十七日、ソ連軍が樺太に侵攻してきたため、第五方面軍の極秘至急電により歩兵第二十六聯隊は札幌月寒に移駐、九月十日、月寒神社境内林間において軍旗奉焼《ほうしょう=恭しく焼く)》し聯隊の歴史の幕を閉じたのであった。
 爾来《じらい=それから》四十一年、聯隊に縁りある者相集い、軍旗の武勲と栄誉を永く後世に伝え、これを顕彰するために、この碑を建立したのである。

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