札幌護国神社・彰徳苑の碑より・北千島
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北千島慰霊之碑
建 立 昭和五十年(一九七五)八月二十三日
建立者 北千島慰霊の会
千島列島最北端の占守・幌筵など北千島の諸島は、大東亜戦争に於ける国土防衛の北東方面最前線であった。ここを守る第九十一師団は、総兵力二万八千、海軍部隊を併せると三万二千、当時の陸軍においては最精強師団であった。
昭和二十(一九四五)年八月十七日深夜、時既に終戦であるにも拘わらず、カムチャッカ半島先端のロバトカ岬と、占守海峡を挟んでわずか十四キロの距離に対峙する、占守島北端の竹田浜一帯を猛砲撃し、午後十一時三十分頃竹田浜に上陸を開始した。しかしソ連軍に対する我軍は見事なものであった。緒戦で戦闘指揮所がロバトカ岬の砲台を第一撃で制圧・完全に覆滅《ふくめつ》し、竹田浜の我側防陣地は
両側から上陸するソ連軍に激烈な砲火を浴びせ、竹田浜はソ連兵の屍で宛ら地獄絵図のような惨状となった。
ソ連軍は約一方の大軍を投入し一気に押し潰そうと躍起になったが、幌筵より援軍が第一線に増強、池田戦車聯隊も全軍突入し、重砲・高射砲は水平射撃で、進出して来る敵を猛射、陸海軍航空隊は敵艦船・輸送船を撃沈・撃破する等敵に壊滅的打撃を与えて、敵を殲滅《せんめつ》するの態勢が整い、堤師団長は二十一日午前六時を期して総攻撃にうつる直前、五時五十分北部方面軍司令部より「至急停戦、武装解除セヨ」との命令を受けて止むなく攻撃を停止し、翌二十二日停戦協定に調印、占守島の戦いは終わった。日本軍の損害は、戦死者約三五〇名、ソ連軍の戦死者約三千名 (ソ連側資料)。
この戦いで、ソ連の釧路・留萌を結ぶ北海道分割占領の意図を打ち砕いたのである。もし占守島で何の抵抗もなく侵攻を許していたならば、千島列島のみならず、北海道北半分の武力占領も確実に実現され、北海道もまた「ベルリンの壁」に象徴される分断国家の悲劇を招いたことは必死である。
占守島の戦いは、「国土を護った最後の戦い」であった。
建 立 昭和五十年(一九七五)八月二十三日
建立者 北千島慰霊の会
千島列島最北端の占守・幌筵など北千島の諸島は、大東亜戦争に於ける国土防衛の北東方面最前線であった。ここを守る第九十一師団は、総兵力二万八千、海軍部隊を併せると三万二千、当時の陸軍においては最精強師団であった。
昭和二十(一九四五)年八月十七日深夜、時既に終戦であるにも拘わらず、カムチャッカ半島先端のロバトカ岬と、占守海峡を挟んでわずか十四キロの距離に対峙する、占守島北端の竹田浜一帯を猛砲撃し、午後十一時三十分頃竹田浜に上陸を開始した。しかしソ連軍に対する我軍は見事なものであった。緒戦で戦闘指揮所がロバトカ岬の砲台を第一撃で制圧・完全に覆滅《ふくめつ》し、竹田浜の我側防陣地は
両側から上陸するソ連軍に激烈な砲火を浴びせ、竹田浜はソ連兵の屍で宛ら地獄絵図のような惨状となった。
ソ連軍は約一方の大軍を投入し一気に押し潰そうと躍起になったが、幌筵より援軍が第一線に増強、池田戦車聯隊も全軍突入し、重砲・高射砲は水平射撃で、進出して来る敵を猛射、陸海軍航空隊は敵艦船・輸送船を撃沈・撃破する等敵に壊滅的打撃を与えて、敵を殲滅《せんめつ》するの態勢が整い、堤師団長は二十一日午前六時を期して総攻撃にうつる直前、五時五十分北部方面軍司令部より「至急停戦、武装解除セヨ」との命令を受けて止むなく攻撃を停止し、翌二十二日停戦協定に調印、占守島の戦いは終わった。日本軍の損害は、戦死者約三五〇名、ソ連軍の戦死者約三千名 (ソ連側資料)。
この戦いで、ソ連の釧路・留萌を結ぶ北海道分割占領の意図を打ち砕いたのである。もし占守島で何の抵抗もなく侵攻を許していたならば、千島列島のみならず、北海道北半分の武力占領も確実に実現され、北海道もまた「ベルリンの壁」に象徴される分断国家の悲劇を招いたことは必死である。
占守島の戦いは、「国土を護った最後の戦い」であった。