札幌護国神社・彰徳苑の碑より・第二十六聯隊旗奉焼
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歩兵第二十六聯隊旗奉焼《ほうしょう》之碑
建 立 昭和六十一年(一九八六) 九月十四日
建立者 歩兵二十六会
旭川歩兵第二十六聯隊は、明治三十二年(一八九九)十一月二十五日、札幌月寒《つきさっぷ》において創立され、明治三十三年十一月十五日、旭川第七師団創設に伴い、聯隊本部が開庁し、月寒より移転した。
明治三十三年十二月二十二日宮中に於いて軍旗を親授《しんじゅ=天皇より賜り》し、同年二十六日旭川練兵場に於いて聯陽に旗が授典《じゅうてん=大切に渡され》された。
明治三十六年(一九〇三)十月二十五日、清國守備隊要員として聯隊から一個中隊が山海関に派遣。明治三十七年の日露戦役では乃木大将率いる第三軍の予備隊となり、松樹山攻撃に参加、二〇三高地及び赤坂山の戦闘は壮絶を極め、聯隊長吉田新作中佐は壮烈なる戦死を遂げ、将枚以下生存わずか六名という激戦であった。
歩兵第二十六聯隊歴史の特記すべき戦いは、昭和十四年(一九三九)勃発《ぼっぱつ=突然発生》したノモンハン事件である。聯隊長須見新一郎大佐率いる歩兵第二十六聯隊は、ハイラル駐屯の第二十三師団(師団長小松原道太郎中将)の隷下《れいか=配下》に編入きれ、ハイラルから将軍廟までの二百十六キロ、それも炎天下の大平原を完全武装にて六日間で突破し、ハルハ河・ホルステン河を渡河し、ソ連と壮烈なる死闘が繰り返されたのである。
第二十三師団が壊滅的打撃を受け、各部隊が全滅するなか、歩兵第二十六聯隊は、相当数の被害を受けつつもフイ高地を死守したのである。後に歩兵第二十六聯隊はもっとも長い期間戦い、大きな損害を出し「悲劇の須見部隊」と呼ばれたのである。
大東亜戦争では、千島防衛強化のため北千島幌延島に上陸し防衛を担当していたが、昭和十九年、第七十七師団と交代、北海道東地区防衛のため本道に帰還し帯広に駐屯、昭和二十年八月十七日、ソ連軍が樺太に侵攻してきたため、第五方面軍の極秘至急電により歩兵第二十六聯隊は札幌月寒に移駐、九月十日、月寒神社境内林間において軍旗奉焼《ほうしょう=恭しく焼く)》し聯隊の歴史の幕を閉じたのであった。
爾来《じらい=それから》四十一年、聯隊に縁りある者相集い、軍旗の武勲と栄誉を永く後世に伝え、これを顕彰するために、この碑を建立したのである。