札幌護国神社・彰徳苑の碑より・沖縄
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沖縄戦英霊記念の碑
建 立 昭和四十年(一九六五) 九月二十七日
建立者 北海道沖縄遺族会
場 所 中央区伏見 藻岩山ロープーウェイ前
昭和二十午(一九四五)四月一日、沖縄本島に米が上陸、連合軍にとって沖縄は東京への門であり、この攻略は太平洋戦争最大の陸海軍共同作戦であった。
攻撃を開始した米の総兵力五十四万八千名、艦船千二百十三隻、援護空母機五百六十四機。これに対し沖縄を守備する日本は、牛島満中将率いる第三十二軍の将兵五万、海軍陸戦隊一万、それに現地の学徒隊・防衛隊四万の計十五万名を数えるだけであった。
米は猛砲撃にて嘉手納を廃墟に帰した後、全戦カを嘉手納沿岸に集結し、たった一日で主力十八万余を上陸させ、豊かな物量を投じて日本との一大決戦を予想し攻撃をくわえてきた。我軍は強力な砲爆撃に耐える堅固な陣地のなかで静かに待機し、五日に本格的な攻撃が開始され、殺到する米に多大な損害を与えたのである。
首里一帯の陣地を死守する我軍は、米軍数個師団を迎え撃ち、一ケ月に近い激戦を続けたが、しだいに戦力が低下し、五月四日からは文字通りの持久態勢にはいった。
米はじりじりと侵攻し、二十九日には首里が占領され、山岳地帯に拠って最後まで抵抗する事となった。兵器、弾薬は欠乏し、米の火力、兵力に圧倒され、第一線陣地は相次いで玉砕。組織的な抵抗は不可能となり、挺身切り込みを行うのがやっとであったが、我軍の抵抗も凄まじく、米のバックナー司今官は日本の必死の反撃で戦死するほどの凄まじさであった。
六月二十三日、牛島司今官は自決し、沖縄は陥落したが、三ケ月にわたる戦闘で我軍の損害は十一万を数えたが、このなかには従軍看護婦として戦死した沖縄第一高女生、義勇として玉砕した沖縄師範学校生など若い生命も含まれている。
一方、米の死傷者は三万九千名。
この戦いで戦死した北海道出身将兵は判明分一万八百余名にものぼり、沖縄戦没者の慰霊と、世界平和の実現を世の人々に呼びかけるため、沖縄遺族会が建立した。