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札幌護国神社・彰徳苑の碑より・殉職看護婦

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通常 札幌護国神社・彰徳苑の碑より・殉職看護婦

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/7/2 8:32
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 樺太大平炭鉱病院殉職看護婦慰霊碑

 建 立 平成四年(一九九二)七月十一日

 建立者 殉職者看護婦慰霊碑建立実行委員会

  昭和二十年(一九四五)八月、樺太はソ連軍の突然の参戦で大混乱となった。樺太北部の恵須取町太平地区も十六日未明の空襲で住民は一斉に避難したが、大平神社の丘の横穴式防空壕に避難していた炭鉱病院待避所には、八人の重症患者を守って高椅婦長以下二十三名の看護婦が踏みとどまっていた。
  午後になってソ連軍が上陸したことを知り、ソ連軍兵もこの重症患者に危害を加ることはないだろうと薬を渡して、炭鉱病院看護婦も夕刻になって避難をはじめた。
  上恵須取への道約二十四キロ、夏草のなかを十キロほど進んでいくうちソ連軍と遭遇したのである。誰もが一瞬、心臓が凍りついた。次の瞬間、道路脇の草の中を泳ぐようにして逃げ葡萄沢まで辿り着いたとき、ソ連軍に囲まれ、南下することも、太平に戻ることも不可能となった。
  高橋婦長が思ったのは若い者護婦を預かっている責任、もし無事な姿で親のもとにかえすことができないとしたら、死を選ぶしかないという事だった。その気待ちはみんなにも伝わった。
  死を決意すると小高い丘を登っていった。ハルニレの大木が一本あり、それを囲んですわると君が代を歌い、山桜の歌を低く唱和し、看護婦達は手首をつかんで血管にカミソリの刃を立てた。やがて自らが力を失い、倒れるからだを起こしては狂気のように掻き切った。そのまま生死の境をさまよい六名が絶命したのである。
  婦長高椅ふみ(三十三歳)・副婦長石川ひさ(二十四歳)・久住きよ子看護婦(二十二歳)真田かずよ看護婦(十九歳)・佐藤春江看護婦(十七歳)・瀬川百合子看護婦(十六歳)
 以来四十七年、殉職者への思いを募らせる遺族や生存者、この事件を終生忘れてはならないとする元大平地区居住者らが発起人となり、六姫命の御霊《みたま》を祀り、永遠の鎮魂《ちんこん》と祖国の限りない平和を祈念するためにこの碑を建立したのである。



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