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札幌護国神社・彰徳苑の碑より・メレヨン島

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通常 札幌護国神社・彰徳苑の碑より・メレヨン島

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/7/1 7:27
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 メレヨン島戦没者慰霊

 建 立 昭和四十六年(一九七一)

 建立者 北海道メレヨン会

 メレヨン島は、中部太平洋の赤道線上のほぼ中央に位置する西カロリン藷島にある絶海の弧礁《こしょう》である。この島は、第一次世界大戦の終結により、旧独領の赤道以北が、わが国の領土となり、南洋庁の管轄下におかれていた。
 昭和十九年(一九四四)初頭から米の反撃が熾烈になり、マキン、タワラ島の玉砕《ぎょくさい》に次いで、マーシャルの失陥《しっかん》が相次ぎ、ついには国土防衛の最前線に位置した内南洋への攻撃が始まり、メレヨン島はこの方面で作戦する艦隊、航空機にとっては貴重な拠点として重視された。この島の守備は当初海軍が担当していたが、広く内南洋の強化のため陸は逐次兵力を投入し、守備の強化を図ったのである。
 メレヨン島の守備力増加を察知した連合軍は、昭和十九年三月末、各種軍施設を猛爆しその機能を破壊するなどわが軍に甚大なる被害を与えたが、四月に入ると戦線は後方のマラリア地区へと進展し、サイパン更にベリリユー島を経てフィリピン、小笠原方面と延進し、戦略的価値を喪ったメレヨンは彼我両軍から見捨てられて海上に孤立するかたちとなった。ために増援は勿論のことその補充さえ困難になり、現地部隊は巳むなく自活体勢を執らざるを得ない苦境に追い込まれた。
 「全員が百姓、全員が漁夫となれ」の掛け声も虚しく、兵力の過半数が飢餓と疾病のため陣没し、陸海軍の総兵力六千四百二十六名のうち、帰還後の死没者を含めて実に約五千名が亡き数に入り、復員時の生還者も約半数の七百名が疾病、体力の回復が叶わずして死去し、実質的生還者は六百名に過ぎなかった。
 戦後この厳粛《げんしゅく》にして過酷《かこく》な数字は「メレヨンの悲劇」として伝わり、多くの遺族たちが暗澹たる思いに沈潜していたが、昭和四十二午、顕彰《》を発意し、最も犠牲者を多く出した北海道は、札幌護国神社の境内に慰霊碑を建立し、英魂《えいこん》の安らかに冥されんことを祈念したのである。


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