Re: 成瀬孫仁日記(二) 昭和十六年六月~七月
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成瀬孫仁日記(二) 昭和十六年六月~七月 (あんみつ姫, 2008/10/26 11:27)
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あんみつ姫
居住地: メロウ倶楽部
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六月二十二日(日) 晴 暖
試験後第一日、朝から布団を日光浴。室は大掃除。後学校へ行き蒙古研究旅行の出発を見送る。其の後太陽島へ行く。物すごい人魚の群。始めて太陽島へ来たが、素晴らしい。
帰寮の途中電柱に「六日二十一日獨、対ソ開戦を布告!!」と云う新聞社のビラが多数貼られているのが見られた。電撃に打たれた様になり、暫く立ち止まってジイッとビラを見つめた。頭がジィンと鳴っている様だ。一体どう云う事になるのだ。
(本人注=偶然か日誌の覧外に大伴家持のあの「海行かば水清く山行かば草むす屍大君の辺にこそ死なめ顧みはせじ」と云う有名な歌が記載されて居り、又明治三十六年本日藤村操、華厳瀧に身を投じて自殺とある)
六月二十三日(月) 晴 暖
朝から勤労奉仕の準備。種々準備品配給さる。昼頃学校三階で二時間程度昼寝。午後春日とキタイスカヤ、スンガリー散歩。点呼なし。
六月二十四日(火) 晴 暖
朝から登校。泥柳の綿が淡雪の様に飛び交ふ。午前中銃の手入。勤労作業。何故か精出してやらうとする元気がない。
正午から終業式あり。院長訓辞に日く「如何にしても露西亜語を勉強せよ」と。獨ソ戦争が勃発したからには何を態々(ワザワザ)院長先生に言われなくても、そんな事は学院生全員の胸の中にある。
午後勤労奉仕の支度金五円渡される(2)。 直ちに連れ立って街へ出る。半日ももたずに腹の内へ消える。鈴木が腹が痛いと盛んに訴える。
寮の整理は完全にやってしまう。明日起床四時半、春日、馬場は夕方五時の列車で帰って行った。
六月二十五日(水) 晴 暖
午前四時半起床。登校。院長の訓辞を受けて出発。午前八時十分哈雨浜駅発の列車で出発。横道河子、憧れの露西亜風の建物が周囲の森に良くマッチしている。美しい風景に眼を楽しませつつ午後八時牡丹江着。
下車して街に出る。夜間の為か街は殺伐なるかに見ゆ。柔道部集まりてビールを飲む。
午後十時牡丹江発。酔いのためか長く眠れた。
六月二十六日(木) 晴 暖
午前六時頃圖們《注1》着。税関検査。煙草十本以下との事。私は煙草は喫わないので持っていない。が事情が解ると、之はまるでペテンに掛けられた様なものであるので、税関に噛みついて私の分として十本返させて皆に分配した。
圖們で豆満江を渡り朝鮮へ、暫時で列車は訓戎にて満洲国領へ入り暉春へ着く。
朝鮮の風景は東満と同じく小山が多い。小山と云っても草ばかりの樹のない山ばかり。無理もない。国境線を引かれ、二つの国になっているだけで旧は同じ地方だ。午前十時頃暉春着。多数の出迎えを受けて県公署へ行き昼食。貨物自動車にて快適な旅を続ける事数時間、現地に到着。四方ソ聯に取り囲まれている様に見える。山並を越えてはるか東の方にポシェット湾が白く輝いて見えた。
六月二十七日(金) 曇 暖
午前六時起床。午前中自由時間で勝手次第。午後梅村学監先生の御話あり。
昨夜はスウスウ風が入って来て寒く眠れなかった。夜不寝番が当たる。寒くて風邪を引く。山崎が持って来た「暖流」を借り、勤務中に読んでしまう。啓子、ギン、日疋、どうなんだろうか。物足りない。映画が出来ていると。見てみたい。
六月二十八日(土) 曇 寒
国境に雲垂れて無気味である。良く見て始めて気がついたが、ポシェット湾を望む東の山の稜線に点々としてあの有名なソ聯の「トーチカ」が連なっている。兵隊の説明によると二千米程離れた山々がソ聯領だとは驚いた(3)。
炊事当番、おまけに伝令、一日中走り廻った。手紙も書けない。
勤労奉仕は「飯事(ママゴト)」みたいなもので、昨年よりはるかに楽で「キャンプ」生活みたいなものだ。
作業は道路工事。一年生と二年生は別に作業をする。昨年も勤労奉仕は道路工事。露西亜語で道路は出来ないから毎年肉体労働者か。
夕方「トーチカ」を眺めて想いに沈む。鈴木も馬場も春日も来ていないが、この国境の風光をみせてやりたい。
六月二十九日(日) 晴 暖
今日始めて道路作業に出る。休憩が多くて結構楽だが、矢張り辛いことは去年と変わらない。どうも体が鈍(ナマ)っているか、手袋を使わず作業をすると、すぐ手に豆が出来た。
相馬さんの話(ピー屋《注2》の話、何時童貞を失ったかの話)を聞く(4)。 男ってそんなものか。それが自然かも知れないが、人間だもん、少しは反自然的であって良いのではないか。
間食はない。皆煙草ばかり喫っている。学院は吾々の様に煙草を喫わない者まで煙草を喫えと云わんばかりの環境を作っているのか。
夕暮れの美しさは何時も見られるとは限らない。が物想いに沈むのは矢張り夕方だ。夕方になると雲が四方に立ち込めて国境の山々を隠す。
六月三十日(月) 晴 暖
昨夜、皆夜遅くまで唄ばかり歌って騒ぐ。作業は午前中のみ。
昨年の黒龍江畔、孫河では風がさっぱり無かった様に思うが、今年は日本海が見える所のためか風があって有難い(5)。 併し矢張り、樹陰が欲しい。午後は昼寝、故里の夢を見る。
獨ソ戦争!! 濁軍圧倒的優勢。ドイツ国防軍の威力たるや全く凄まじい。赤軍は手も足も出ないのだろうか。併しソ軍はどうやら焦土戦術を行っているらしい。ゲネラル、クツウゾフに習おうとするのか。長期抗戦で行こうとするのか。
案外、赤色政府はこれまでの人民弾圧の反動が出て簡単に倒れるかも知れない。三十年後の日獨大決戦を目ざすか。その時私は四十八歳の予定。併し此の戦争で果たして生き残れるか。
晩飯はボタモチ!!
注
(2)六月二十四日 勤労奉仕に支度金五円貰った事は覚えてない。
(3)六月二十八日一年生の時、孫河で山の上からアムールの向こうのシベリヤを遥か遠くに眺めた気持ちは憧れに似た感じであったのに、二年の時はソ聯の山々を身近で見ると何だか不気味なものを感じた。
(4)六月二十九日 相馬勇さんの話を聞く……恐らく二十期の相馬勇さんだろうが、二十期の人が勤労奉仕に吾々と一緒に来ていたのだろうか。彼は一年生の時に室長だった福真吾四郎さんと同郷とかで良く来ていたので知っている。
(5)六月三十日 ソヴィエート政府は崩壊せず、日獨大決戦もなかった。有ったものは日本軍の捕虜と獨軍の捕虜がシベリヤで相見えただけだと云う甚だ淋しい結果に終わった。
注1:図們(ともん)中国吉林省延辺朝鮮族自治州に位置する
注2:俗称は戦前にあった女郎屋で 売春を目的とする場所
試験後第一日、朝から布団を日光浴。室は大掃除。後学校へ行き蒙古研究旅行の出発を見送る。其の後太陽島へ行く。物すごい人魚の群。始めて太陽島へ来たが、素晴らしい。
帰寮の途中電柱に「六日二十一日獨、対ソ開戦を布告!!」と云う新聞社のビラが多数貼られているのが見られた。電撃に打たれた様になり、暫く立ち止まってジイッとビラを見つめた。頭がジィンと鳴っている様だ。一体どう云う事になるのだ。
(本人注=偶然か日誌の覧外に大伴家持のあの「海行かば水清く山行かば草むす屍大君の辺にこそ死なめ顧みはせじ」と云う有名な歌が記載されて居り、又明治三十六年本日藤村操、華厳瀧に身を投じて自殺とある)
六月二十三日(月) 晴 暖
朝から勤労奉仕の準備。種々準備品配給さる。昼頃学校三階で二時間程度昼寝。午後春日とキタイスカヤ、スンガリー散歩。点呼なし。
六月二十四日(火) 晴 暖
朝から登校。泥柳の綿が淡雪の様に飛び交ふ。午前中銃の手入。勤労作業。何故か精出してやらうとする元気がない。
正午から終業式あり。院長訓辞に日く「如何にしても露西亜語を勉強せよ」と。獨ソ戦争が勃発したからには何を態々(ワザワザ)院長先生に言われなくても、そんな事は学院生全員の胸の中にある。
午後勤労奉仕の支度金五円渡される(2)。 直ちに連れ立って街へ出る。半日ももたずに腹の内へ消える。鈴木が腹が痛いと盛んに訴える。
寮の整理は完全にやってしまう。明日起床四時半、春日、馬場は夕方五時の列車で帰って行った。
六月二十五日(水) 晴 暖
午前四時半起床。登校。院長の訓辞を受けて出発。午前八時十分哈雨浜駅発の列車で出発。横道河子、憧れの露西亜風の建物が周囲の森に良くマッチしている。美しい風景に眼を楽しませつつ午後八時牡丹江着。
下車して街に出る。夜間の為か街は殺伐なるかに見ゆ。柔道部集まりてビールを飲む。
午後十時牡丹江発。酔いのためか長く眠れた。
六月二十六日(木) 晴 暖
午前六時頃圖們《注1》着。税関検査。煙草十本以下との事。私は煙草は喫わないので持っていない。が事情が解ると、之はまるでペテンに掛けられた様なものであるので、税関に噛みついて私の分として十本返させて皆に分配した。
圖們で豆満江を渡り朝鮮へ、暫時で列車は訓戎にて満洲国領へ入り暉春へ着く。
朝鮮の風景は東満と同じく小山が多い。小山と云っても草ばかりの樹のない山ばかり。無理もない。国境線を引かれ、二つの国になっているだけで旧は同じ地方だ。午前十時頃暉春着。多数の出迎えを受けて県公署へ行き昼食。貨物自動車にて快適な旅を続ける事数時間、現地に到着。四方ソ聯に取り囲まれている様に見える。山並を越えてはるか東の方にポシェット湾が白く輝いて見えた。
六月二十七日(金) 曇 暖
午前六時起床。午前中自由時間で勝手次第。午後梅村学監先生の御話あり。
昨夜はスウスウ風が入って来て寒く眠れなかった。夜不寝番が当たる。寒くて風邪を引く。山崎が持って来た「暖流」を借り、勤務中に読んでしまう。啓子、ギン、日疋、どうなんだろうか。物足りない。映画が出来ていると。見てみたい。
六月二十八日(土) 曇 寒
国境に雲垂れて無気味である。良く見て始めて気がついたが、ポシェット湾を望む東の山の稜線に点々としてあの有名なソ聯の「トーチカ」が連なっている。兵隊の説明によると二千米程離れた山々がソ聯領だとは驚いた(3)。
炊事当番、おまけに伝令、一日中走り廻った。手紙も書けない。
勤労奉仕は「飯事(ママゴト)」みたいなもので、昨年よりはるかに楽で「キャンプ」生活みたいなものだ。
作業は道路工事。一年生と二年生は別に作業をする。昨年も勤労奉仕は道路工事。露西亜語で道路は出来ないから毎年肉体労働者か。
夕方「トーチカ」を眺めて想いに沈む。鈴木も馬場も春日も来ていないが、この国境の風光をみせてやりたい。
六月二十九日(日) 晴 暖
今日始めて道路作業に出る。休憩が多くて結構楽だが、矢張り辛いことは去年と変わらない。どうも体が鈍(ナマ)っているか、手袋を使わず作業をすると、すぐ手に豆が出来た。
相馬さんの話(ピー屋《注2》の話、何時童貞を失ったかの話)を聞く(4)。 男ってそんなものか。それが自然かも知れないが、人間だもん、少しは反自然的であって良いのではないか。
間食はない。皆煙草ばかり喫っている。学院は吾々の様に煙草を喫わない者まで煙草を喫えと云わんばかりの環境を作っているのか。
夕暮れの美しさは何時も見られるとは限らない。が物想いに沈むのは矢張り夕方だ。夕方になると雲が四方に立ち込めて国境の山々を隠す。
六月三十日(月) 晴 暖
昨夜、皆夜遅くまで唄ばかり歌って騒ぐ。作業は午前中のみ。
昨年の黒龍江畔、孫河では風がさっぱり無かった様に思うが、今年は日本海が見える所のためか風があって有難い(5)。 併し矢張り、樹陰が欲しい。午後は昼寝、故里の夢を見る。
獨ソ戦争!! 濁軍圧倒的優勢。ドイツ国防軍の威力たるや全く凄まじい。赤軍は手も足も出ないのだろうか。併しソ軍はどうやら焦土戦術を行っているらしい。ゲネラル、クツウゾフに習おうとするのか。長期抗戦で行こうとするのか。
案外、赤色政府はこれまでの人民弾圧の反動が出て簡単に倒れるかも知れない。三十年後の日獨大決戦を目ざすか。その時私は四十八歳の予定。併し此の戦争で果たして生き残れるか。
晩飯はボタモチ!!
注
(2)六月二十四日 勤労奉仕に支度金五円貰った事は覚えてない。
(3)六月二十八日一年生の時、孫河で山の上からアムールの向こうのシベリヤを遥か遠くに眺めた気持ちは憧れに似た感じであったのに、二年の時はソ聯の山々を身近で見ると何だか不気味なものを感じた。
(4)六月二十九日 相馬勇さんの話を聞く……恐らく二十期の相馬勇さんだろうが、二十期の人が勤労奉仕に吾々と一緒に来ていたのだろうか。彼は一年生の時に室長だった福真吾四郎さんと同郷とかで良く来ていたので知っている。
(5)六月三十日 ソヴィエート政府は崩壊せず、日獨大決戦もなかった。有ったものは日本軍の捕虜と獨軍の捕虜がシベリヤで相見えただけだと云う甚だ淋しい結果に終わった。
注1:図們(ともん)中国吉林省延辺朝鮮族自治州に位置する
注2:俗称は戦前にあった女郎屋で 売春を目的とする場所
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