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Re: 成瀬孫仁日記(二) 昭和十六年六月~七月

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あんみつ姫

通常 Re: 成瀬孫仁日記(二) 昭和十六年六月~七月

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/10/26 12:13
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
白井長助さんのことども
                       (成 瀬 孫 仁)

一学年一学級、一学級五十名、一年生から五年生まで全員二百三十名の離島(香川県小豆島)の田舎中学校から哈爾浜学院へ入って驚いたことが二つあった。

一つは教練のルーズなこと(後では厳しくなったが、入学当時の昭和十五年は驚く程ルーズであった)。配属将校は阿部大佐、配属軍官松井将校、他に井出口少佐という手塚院長と陸士同期の人のいいお爺さんがいた。

 入学した年、哈爾浜西南方の香坊までの野外演習があった。演習の課目とか途中何があったか全然今の記憶にない。空砲五発貰ったので四、五人で三八銃の先に赤カブを刺し込んで空砲を発射し、その赤カブが何メートル飛んだか競争した事しか覚えていない。

哈爾浜開拓義勇軍高等訓練所で晝食後、迎えに来た馬車に三八銃を投げ込んで、手ぶらでブラブラ勝手に帰ったのには驚いた。

 もう一つは白井長助教授の歴史の試験場にノートでも何でも持ち込み自由ということである。これにも驚いた。

 この先生、教課目が民族学とか歴史理論とかに変わっても、卒業する最後まで日本史を教えていたように思う。丸刈りの鉢の大きな頭、強度の近眼鏡の奥に光るヤブにらみのどこを見ているのか解らない眼、反軍的(反院長的といってもいいでしようか)な言動にかかわらず確固たる日本的(右派的)な信念を持っていた。

 鉢の大きな頭は親譲りらしい。鈴木淳栄がポームニムに書いている「新京脱出行」に出て来る第二航空軍特殊情報部(中村博一、福岡健一、瑠璃垣馨、城所尚爾、鈴木淳栄、成瀬孫仁、の六人が居たソヴィエート航空部隊の暗号解読部隊。同級生が六名も集まった部隊は珍しい。この外に数名の先輩が居られた)高級部員の小原豊中佐から先に私信を頂いた。

小原中佐は露西亜語は堪能で満州でずっと対ソ情報に関係された権威である。「大尉時代旅順の要塞司令官だった白井二郎中将(白井長助先生の父君)に二年間お仕えしたことがあるが、頭の鉢の大きい人だった」と書いておられた。やはり親譲りである。

 白井さんはなかなか油断の出来ない方で(この言い方は失礼だと思うが、悪い意味でないので御勘弁願いたい)、平気で事実でないこと、正しくないことなどを口にした。

さすがに学院の正式授業の時は言わなかったが、北方亜細亜研究会ではたびたびこうした問題発言にぶつかった。調べていると、先生が言われたことと反対のこと、またその事実がなく他の事実が現れて来るのである。

 それを白井さんに告げると「良く研究した。お前たちはもう中学生ではないのだから、人が言っていることが正しいことか、正しくないことか、事実であるのか、事実でないのか自分で研究して判断していかなければならない。しかしよく解った。これからも注意せよ。」と。偉いものだ、顔の表情一つ変えないで言ってのけた。

 すると白井さんが言ったこと、教えたこと、すべてが半分か、三分の一か、正しくない、事実でないことがあるのか、今となっては全く関係のないことだと思っている。

 ところで「ポームニム21」の試刷りに書いた白井さんの父君白井二郎少佐のことが気になって来た。これは白井さんに当時聞いたままのことであるが、確かめようもない。四十数年前の亡霊に悩まされて心は揺れ動くのである。渋谷院長は終戦時、ご家族とともに自決された。白井さんも岸谷隆一郎先輩も皆死を家族と共にされている。

 いずれも御夫人、子供を殺して最後に自決している。人にはそれぞれの主義、思想、立場があり、複雑なものであることは理解出来る。

 私は八月十五日の終戦を愈々哈爾で迎えた。その時、妹が新京に居たので電話を掛けたが、戦争の混乱で通じない。悪いことだが、私は部隊の作戦用の電話で新京の本部を呼び出し、かねて知っている交換手に頼んで市外の妹の所につないでもらった。
私は「兄さんは愈々哈爾で死ぬから、お前帰ったらお母さんにそのとおり伝えてくれ」と言うと、恐ろしく元気な声で「帰ったらその通り伝えてあげる」と言った。

 院長も、白井さんも、岩谷先輩も死ぬのなら自分だけ死ねばいいので、何で御夫人、子供さんを供にしなければならないのか。私にうちのばあさんが「貴方が死ぬ時一緒に死にたい」と云う。あまり出来すぎているから話三分の一にしても嬉しい。

 妻が夫に、子供が父に一緒に死のうと言われた時、あの一九四五年八月の終戦時の国際的状況、社会事情、これに伴う人間の心の混乱を思えば拒否出来なかったのではないか。子供に至っては拒否の方法手段すら解らなかったはずである。

 院長、白井さん、岸谷先輩とも夫人、子供さんたちを供にすることなく一人で死ぬべきであったのではないか。明治の美学のためにあたら妻子の命を奪った感なきにしもあらず。
と考えるのは、心得違いということだろうか。

               (成瀬孫仁日記(三)につづく)

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あんみつ姫

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