Re: 成瀬孫仁日記(二) 昭和十六年六月~七月
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成瀬孫仁日記(二) 昭和十六年六月~七月 (あんみつ姫, 2008/10/26 11:27)
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あんみつ姫
居住地: メロウ倶楽部
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七月二十日(日) 晴 暖
朝七時起床。日下、遂に赤痢と決まる。琿春の陸軍病院に入院のため九時貨物自動車にて出発。同行する。中台先生も一緒。
日下、第三四二部隊(陸軍病院)に入院。後中台先生と、第一六四部隊(駐屯軍司令部か)、次に県長の自宅を訪問。当地滞在中の世話になった労を謝す。主食はチャン料理。午後、中台先生の知人、入江先生(元工大の先生)を訪ね、御厄介になり、別荘(?)に宿す。
当七月十六日第二次近衛内閣総辞職、七月十八日第三次近衛内閣成立。南進か北進で迷っているのか。松岡外相の日ソ中立条約は失敗か。ひょっとすると国境を越えてシベリヤへ等と云うことがあるのかね。
七月二十一日(月) 曇 暖
所謂「別荘」で一夜を過ごす。中台先生の御伴。午前中琿春発。訓戎(朝鮮領)で税関検査、新京行急行に乗替える。列車内空席多く楽。吉林から若い満人の御婦人と一緒になる。片言同士の満語(支那語)と日本語の会話。何處の国でも若い御婦人は良く笑う。
新京駅食堂にて学院庶務課長広瀬六郎先輩(一期)にお会いする。御話によると「三年生は八月一日から学業を止め、関東軍に従軍、二年生は夏期休暇取止め露西亜語の授業をしながら待機。一年生は帰郷を許す」と。愈々来るものが来たなと心は奮い立つ。
哈爾浜への列車混雑して眠られず。
七月二十二日(火) 曇 暖
八時頃、哈爾浜駅着。電車で中台先生宅へ。朝食を頂く。男の子が一人。女の子が一人。奥さんはしなやかな細めの眼鏡をかけた美しい方だった。
学校へ行くと朝礼の最中。仕事を片付けて、寮に帰り整理する。帰郷と思っていたのが、取止めのため何だか気が落ち着かない。
駅へ山本正則君(二十二期)を見送って帰る。室に高橋のお爺ちゃん(高橋壮吉氏。寮監)と三年生の方が来ており夜遅くまで駄弁る。
七月二十三日(水) 晴 暖
日下、のお父上に日下入院の件に付報告方々、事情説明の手紙を書く。
新京へ発つべく駅へ行ったが、最後の列車が発車した後だった。
清水裕久(二十期)さんの下宿に泊めて貰う。途中、犬に大いに吠えられる。挙動不審、犬にも解るか。
七月二十四日(木) 曇 暖
朝七時十分起床。電車で駅へ。時間を持てあます。九時四十分発大連行列車に乗る。車内混雑す。午後五時十四分正確に新京駅着。
同郷の谷上仙次郎氏宅を宿とす。陸軍病院の裏、満鉄の配給所。
七月二十五日(金) 曇 暖
新京第一日日、深坂を引っばり出して駅、喫茶店三軒、「宝山」、「三中井」を廻る。「三中井」の屋上、凪がありて涼し。
偶然、吉田修氏(十九期) に会う。バレーをしていた。中銀クラブに行き御馳走になる。閑静な都会と思へない所であった。寧ろ、贅沢な感じだ。
七月二十三日、日本軍南部佛印進駐を開始す。
七月二十六日(土) 晴 暖
興安大路が連京線と交差する所に輿安大橋があり鉄路は橋の下を走っていた。日本は「満鉄」「鮮鉄」の列車を「大連」「釜山」に集中し始め、民間列車の運行を制限し、一斉に軍隊及び軍需物資の国境へ向けての輸送、集中の大輸送作戦を始めた。「大動員(3)」が始まったのである。
興安大橋の上に立っていると軍隊及び軍需品の輸送列車が十分間隔位で北上して行っている。連京線は複線である。併し戦争が始まるのかと言う悲痛感が少しもない。
七月三十一日まで寝て食い、食っては寝、気が向いたら街へ出る。
良く他人の家に唯で宿り勝手な事をしたものと感心する。
注
(3)七月二十六日
六月二十二日に開始された獨ソ戦による北方対ソ戦備の充実のために下令された「関東軍特別演習」(関特演)の大輸送作戦の事である。
昭和十六年七月七日に第一次動員下令、同年七月十六日に第二次動員下令、之に依り関東軍は、戦時定員充足の十四ケ師団を基幹とする兵力約七十万の地上軍、飛行七十一ケ中隊を基幹とする飛行機約六百機を保有する航空部隊とより成る大軍団となった。三年生が軍要員として引っばられたのも之と関連がある。
併し極東ソ軍の独ソ戦への兵力の西送による減少が実現せず、陸軍は昭和十六年八月九日年内対ソ武力行使の中止を決定した。
北方作戦に必要なものとして関東軍に組入れられた二十期生は再び学校には帰らず、朝鮮の龍山に入営、何の関係もない、ビルマ、ニューギニア等に送られて殺されることになる。
朝七時起床。日下、遂に赤痢と決まる。琿春の陸軍病院に入院のため九時貨物自動車にて出発。同行する。中台先生も一緒。
日下、第三四二部隊(陸軍病院)に入院。後中台先生と、第一六四部隊(駐屯軍司令部か)、次に県長の自宅を訪問。当地滞在中の世話になった労を謝す。主食はチャン料理。午後、中台先生の知人、入江先生(元工大の先生)を訪ね、御厄介になり、別荘(?)に宿す。
当七月十六日第二次近衛内閣総辞職、七月十八日第三次近衛内閣成立。南進か北進で迷っているのか。松岡外相の日ソ中立条約は失敗か。ひょっとすると国境を越えてシベリヤへ等と云うことがあるのかね。
七月二十一日(月) 曇 暖
所謂「別荘」で一夜を過ごす。中台先生の御伴。午前中琿春発。訓戎(朝鮮領)で税関検査、新京行急行に乗替える。列車内空席多く楽。吉林から若い満人の御婦人と一緒になる。片言同士の満語(支那語)と日本語の会話。何處の国でも若い御婦人は良く笑う。
新京駅食堂にて学院庶務課長広瀬六郎先輩(一期)にお会いする。御話によると「三年生は八月一日から学業を止め、関東軍に従軍、二年生は夏期休暇取止め露西亜語の授業をしながら待機。一年生は帰郷を許す」と。愈々来るものが来たなと心は奮い立つ。
哈爾浜への列車混雑して眠られず。
七月二十二日(火) 曇 暖
八時頃、哈爾浜駅着。電車で中台先生宅へ。朝食を頂く。男の子が一人。女の子が一人。奥さんはしなやかな細めの眼鏡をかけた美しい方だった。
学校へ行くと朝礼の最中。仕事を片付けて、寮に帰り整理する。帰郷と思っていたのが、取止めのため何だか気が落ち着かない。
駅へ山本正則君(二十二期)を見送って帰る。室に高橋のお爺ちゃん(高橋壮吉氏。寮監)と三年生の方が来ており夜遅くまで駄弁る。
七月二十三日(水) 晴 暖
日下、のお父上に日下入院の件に付報告方々、事情説明の手紙を書く。
新京へ発つべく駅へ行ったが、最後の列車が発車した後だった。
清水裕久(二十期)さんの下宿に泊めて貰う。途中、犬に大いに吠えられる。挙動不審、犬にも解るか。
七月二十四日(木) 曇 暖
朝七時十分起床。電車で駅へ。時間を持てあます。九時四十分発大連行列車に乗る。車内混雑す。午後五時十四分正確に新京駅着。
同郷の谷上仙次郎氏宅を宿とす。陸軍病院の裏、満鉄の配給所。
七月二十五日(金) 曇 暖
新京第一日日、深坂を引っばり出して駅、喫茶店三軒、「宝山」、「三中井」を廻る。「三中井」の屋上、凪がありて涼し。
偶然、吉田修氏(十九期) に会う。バレーをしていた。中銀クラブに行き御馳走になる。閑静な都会と思へない所であった。寧ろ、贅沢な感じだ。
七月二十三日、日本軍南部佛印進駐を開始す。
七月二十六日(土) 晴 暖
興安大路が連京線と交差する所に輿安大橋があり鉄路は橋の下を走っていた。日本は「満鉄」「鮮鉄」の列車を「大連」「釜山」に集中し始め、民間列車の運行を制限し、一斉に軍隊及び軍需物資の国境へ向けての輸送、集中の大輸送作戦を始めた。「大動員(3)」が始まったのである。
興安大橋の上に立っていると軍隊及び軍需品の輸送列車が十分間隔位で北上して行っている。連京線は複線である。併し戦争が始まるのかと言う悲痛感が少しもない。
七月三十一日まで寝て食い、食っては寝、気が向いたら街へ出る。
良く他人の家に唯で宿り勝手な事をしたものと感心する。
注
(3)七月二十六日
六月二十二日に開始された獨ソ戦による北方対ソ戦備の充実のために下令された「関東軍特別演習」(関特演)の大輸送作戦の事である。
昭和十六年七月七日に第一次動員下令、同年七月十六日に第二次動員下令、之に依り関東軍は、戦時定員充足の十四ケ師団を基幹とする兵力約七十万の地上軍、飛行七十一ケ中隊を基幹とする飛行機約六百機を保有する航空部隊とより成る大軍団となった。三年生が軍要員として引っばられたのも之と関連がある。
併し極東ソ軍の独ソ戦への兵力の西送による減少が実現せず、陸軍は昭和十六年八月九日年内対ソ武力行使の中止を決定した。
北方作戦に必要なものとして関東軍に組入れられた二十期生は再び学校には帰らず、朝鮮の龍山に入営、何の関係もない、ビルマ、ニューギニア等に送られて殺されることになる。
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あんみつ姫