Re: 成瀬孫仁日記(二) 昭和十六年六月~七月
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成瀬孫仁日記(二) 昭和十六年六月~七月 (あんみつ姫, 2008/10/26 11:27)
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あんみつ姫
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七月十日(木) 雨 涼
朝から雨にも拘らず作業に出たが直ぐ中止。講堂で学監先生から「張鼓峰事件」(1) に就いて話を聞く。
皇軍将兵の勇戦敢闘に感歎すると共に蘇軍《ソグン=注1》に満領を不法占拠されたまま放置し、未だ解決し得ない日本政府の不甲斐なさに涙を絞る。丁度、三年前の明日の夜から蘇軍の侵入が始まった。五百名の戦死者を含む干五百名の死傷者は一体何のために悪戦苦闘をしたのか。
日本の不甲斐なさに比べ欧羅巴《ヨーロッパ》ではどうだ。獨軍の進撃。蘇軍の大敗退!!
七月十一日(金) 雨後晴 涼
朝から雨降る。雨中の作業は休に悪いので「サボル」。作業に出ている者に悪いと思う罪悪感もある。
午後久し振りに雨止み、太陽が輝く。国境が一ぺんに明るくなった。
休んでいると本が読めるが、始めて一日作業を休み黒星一点と云う感じも淋しい。
昨日から防空演習発令。国境なので若干の悲壮感は有る。
七月十二日(土) 雨 涼
雨の中午前中のみ作業あり。此の頃頓(トミ)に国境方面は緊張して来た。防空演習は始まる。晝間は勿論、特に夜間前照燈に覆いをした貨物自動車が貨物を満載して、国境への山道を荷を運んで来る。
兵隊の移動も激しい。聞くと十五日までに戦闘準備を完了せよとの事であると。愈々悲しくも有り又嬉しくもある事が起るのではないか。
間食に「善哉(ゼンザイ)」。毎晩Y談ばかりで十二時前に寝たことはない。
米国海軍「アイスランド」に上陸占領す。
七月十三日(日) 晴 暖
午前、午後共作業なし。午前中休息、洗濯。午後廣渡先生の「ノモンハン」(2) 実戦談あり。先生は歩兵大尉。歩兵聯隊で生き残った将校の内の最高位の人である。
「ビスコ」「羊羹」を食べ「サイダー」を飲みながら聞く。戦いの真実を知ることが出来た。
最初に戦いに参加したのは在海拉爾《ハイラル=注2》の第二十三師団(師団長小松原中将)と第七師団(在斉々哈爾)の一ケ旅団で、戦傷死が全部で六万とか七万とか云はれているのはデマであるが、ソ軍機械化部隊に大敗した事は事実である。
日本軍には戦車も対戦車砲も数量が充分でなく質も劣り、ソ軍戦車の装甲を貫通出来ず、数少ない野砲、山砲で悪戦し、前近代的な火炎瓶など用いたが、役に立たず、ソ軍の戦車は草原を走り廻って日本軍陣地を蹂躙した。
もう戦斗でなく殺戮である。戦車はなくても、有効な対戦車砲さえあればあのような無残な敗北はなかった。
日本軍は後に四ケ師団とニケ旅団の兵隊。全満の、東満の第一線からも対戦車砲を集め、日本及び支那派遣軍からも飛行部隊を転属させ攻撃を準備したが、九月十五日停戦協定成立、ソ聯は九月十七日ポーランドに侵入して行った。日本など傍えも寄れない鮮かな外交の手口である。
廣渡先生の聯隊の定員が干二百名、生き残りが三百名。そして全聯隊の死傷者総数干五百名。此の数字は補充された兵隊が、次々戦傷死していることを物語っている。誠に悲惨の一語に盡きるが、国民はこの事を知らない。
七月十四日(月) 晴後雨 暖
午前中、精魂込めて働いた。そのためか午後作業に出ると直ぐ俄雨のため中止。後数日にして作業終了の予定。
「作業しなかった日はあっても露西亜語の本を読まない日はありませんでした」。何か何虞かで聞いた様な言葉だ。
七月十二日英ソ相互援助保約締結。英はどれだけ蘇を援助出来るか。米の援英物資をソ聯に送るか。英には大艦隊が未だ健在。
七月十五日(火) 曇 涼
一日中作業。道路完成す。一年生が午後手伝いに来る。一生懸命に励む。
琿春《注3》県長と行政課長慰問に来る。講堂で県長の話あり。面影は案外優男に見えた。講演要旨は「日本内地の物差で大陸諸物を計るな」と云うことである。後作業場見学に廻る。後姿が何とも子供っぽく印象良ろし。行政課長は映画「熱砂の誓」に登場する「楊」と云う人物にそっくり。
午後七時から建国神霊廟の式典あり。後点呼。真面目に就寝。
七月十六日(水) 曇 涼
午前中道路の色直し。午後休み。午後三時頃、駐屯軍司令官来る。
一場の訓示あり。曰く
「国境の道路を構築して貰う恩恵よりも、学業を投げ打って此の淋しい国境まで来て下さった事が、兵の気持ちに与える感情が非常に有難い。諸君は学院創設の時の真の目的に生きるように。必ず近い内にその時機は来ます」
今まで来た誰よりもこの「べた金」の閣下の言葉は丁寧で、誠にジェントルマンだ。之は訓辞ではなく感謝と激励の言葉ではないか。
「学院創設の時の真の目的…」なんて何か学院の事を良く知った北方関係の人らしい。
七月十七日(木) 曇 涼
作業、午前中、道路修繕。午後なし。
丘に昇って蘇聯国境の山々を見る。ポシェット湾は遥か眼下に遠く望まれる。「トーチカ」など直ぐ目の先だと想われる程近い感じを受ける。
此の国境の山の何處かにあの「トーチカ」に照準を合はせて、引鉄を引けば良いようにして待っている砲が無数にあるに違いない。
学院生はソ聯国境さえ見せて置けば感歎、心が満ちるのではないか。
身体検査あり。結膜炎(慢性)と。
七月十八日(金) 晴 暖
本日炊事当番。伝令。
日下が病気で寝ている。昨夜五藤が徹夜で看病する。朝早く交代する。「ウンウン」唸って苦しそうだ。下痢と発熱。特に下痢がひどい。注射を何回しても止まらない。
第一号室の室会を「トーチカ」の見える国境の丘の上でする。楽しく駄弁っただけだったが、皆満足して呉れた。酒でも有れば一段と盛り上がったろうに有難い。
昨日、勤労奉仕慰問団が来る。満洲国防婦人会の御婦人達。服の繕ぎなどをして呉れた。私はワイシャツを繕って貰った。
七月十九日(土) 晴 暖
日下、昨夜一晩中、苦しみ、坤いていた。正視に耐えない程苦しんだ。朝交代する。熱は下がったが、赤痢と判明したので服を着替え消毒する。小川へ洗濯に行く。太陽はカンカン照りで暑いが、水の内へ入ると身振ひする程冷たく気持が良い。
午後、最後の仕事として完成した道路に紀念柱を立てに行く。二年生の担当した道路を「第二極光道路」と、一年生の担当した道路を「第三極光道路」と名付け、それぞれ記名した記念柱を立てた。之で新しい道路が生まれ私達の仕事は終った。
病人が出たので最後の会を出来るだけ細(ササヤカ)なものにする。併しストームは盛大にやった。ソ聯のトーチカから丸見え。何か兵隊の反乱とでも見たかお祭の行事とでも見たか。
本部を取りまき先生方にもその内に加わって頂く。梅村学監先生の見事な「お頭(ツム)」に酒を注いで摩(サス)ったり、軽く叩いたりする不らち者も現われたが、温厚な心の広い学監先生は笑いながら、一緒に「ワイワイ」騒いで頂いた。至らぬ非礼も未熟な若さのなせる技と許して頂きたい。
注
(1)七月十日。(2)七月十三日。
「張鼓峰事件」と「ノモンハン事変」この二つの国境紛争事件には重大な相似性がある。
一、紛争前にソ聯軍の高級将校が日満側に逃亡して来ている。
二、ソ聯軍の圧倒的な兵力、火力、機械力の前に日本軍は完敗している。
三、戦闘後の国境線はソ聯軍の主張する線で事実上画定している。昭和十三年六月十三日、極東地方粛清工作の総元締である内務人民委員部極東地方長官リユシコフ三等政治大将が国境を越えて、清洲国琿春正面に逃げて来た。
彼の極東在住一年間に同地域で逮捕された者二十万人、その内彼自らが逮捕した者三千人。七千名が銃殺刑に處せられている。その粛清が彼自らの上に及ぶのを恐れて満洲国へ逃亡したのである。
又、昭和十三年七月末、ジャミン・ウデ (外蒙の首都ウラン・バートルと張家口街道上の国境付近に在る)に駐屯するソ聯自動車早化狙撃第三十六師団の兵器部長フロント少佐「フルンゼ赤軍陸軍大学卒業生)が内蒙古の西蘇尼特(張家口西北方約二五〇キロ) に自動車で逃げて来た。
フロント少佐の脱出三週間後に、外蒙古軍タムスク駐屯騎兵第六師団宣伝班長ビンバー大尉が満洲国内へ逃げて来た。何れもあの有名なスターリンの粛清工作が自分に及ぶのを恐れた結果である。
両事件についての戦闘の状況等については戦後数限りない記事になっているが、何れも日本の完敗で終っている。戦闘後の国境の画定も戦闘の勝敗の結果が明確に出ている。
張鼓峰事件においては正式の国境画定の作業がなく、日本軍が死守していた陣地から撤退するとソ軍は直ぐ進入して来、陣地を構築して占領してしまった。つまり日本軍は主張した国境線を自ら捨ててしまった。
ノモンハンでは両国の国境画定委員会による作業が終ったのは停戦二年後の昭和十六年八月。新しい境界線は外蒙古の主張通りハルハ河東方に国境擦、国境標柱が立てられた。
注1:ソ聯軍
注2:満州国(中国東北部)西北の市街地
注3:中国吉林省延辺朝鮮族自治州東端に位置する都市
朝から雨にも拘らず作業に出たが直ぐ中止。講堂で学監先生から「張鼓峰事件」(1) に就いて話を聞く。
皇軍将兵の勇戦敢闘に感歎すると共に蘇軍《ソグン=注1》に満領を不法占拠されたまま放置し、未だ解決し得ない日本政府の不甲斐なさに涙を絞る。丁度、三年前の明日の夜から蘇軍の侵入が始まった。五百名の戦死者を含む干五百名の死傷者は一体何のために悪戦苦闘をしたのか。
日本の不甲斐なさに比べ欧羅巴《ヨーロッパ》ではどうだ。獨軍の進撃。蘇軍の大敗退!!
七月十一日(金) 雨後晴 涼
朝から雨降る。雨中の作業は休に悪いので「サボル」。作業に出ている者に悪いと思う罪悪感もある。
午後久し振りに雨止み、太陽が輝く。国境が一ぺんに明るくなった。
休んでいると本が読めるが、始めて一日作業を休み黒星一点と云う感じも淋しい。
昨日から防空演習発令。国境なので若干の悲壮感は有る。
七月十二日(土) 雨 涼
雨の中午前中のみ作業あり。此の頃頓(トミ)に国境方面は緊張して来た。防空演習は始まる。晝間は勿論、特に夜間前照燈に覆いをした貨物自動車が貨物を満載して、国境への山道を荷を運んで来る。
兵隊の移動も激しい。聞くと十五日までに戦闘準備を完了せよとの事であると。愈々悲しくも有り又嬉しくもある事が起るのではないか。
間食に「善哉(ゼンザイ)」。毎晩Y談ばかりで十二時前に寝たことはない。
米国海軍「アイスランド」に上陸占領す。
七月十三日(日) 晴 暖
午前、午後共作業なし。午前中休息、洗濯。午後廣渡先生の「ノモンハン」(2) 実戦談あり。先生は歩兵大尉。歩兵聯隊で生き残った将校の内の最高位の人である。
「ビスコ」「羊羹」を食べ「サイダー」を飲みながら聞く。戦いの真実を知ることが出来た。
最初に戦いに参加したのは在海拉爾《ハイラル=注2》の第二十三師団(師団長小松原中将)と第七師団(在斉々哈爾)の一ケ旅団で、戦傷死が全部で六万とか七万とか云はれているのはデマであるが、ソ軍機械化部隊に大敗した事は事実である。
日本軍には戦車も対戦車砲も数量が充分でなく質も劣り、ソ軍戦車の装甲を貫通出来ず、数少ない野砲、山砲で悪戦し、前近代的な火炎瓶など用いたが、役に立たず、ソ軍の戦車は草原を走り廻って日本軍陣地を蹂躙した。
もう戦斗でなく殺戮である。戦車はなくても、有効な対戦車砲さえあればあのような無残な敗北はなかった。
日本軍は後に四ケ師団とニケ旅団の兵隊。全満の、東満の第一線からも対戦車砲を集め、日本及び支那派遣軍からも飛行部隊を転属させ攻撃を準備したが、九月十五日停戦協定成立、ソ聯は九月十七日ポーランドに侵入して行った。日本など傍えも寄れない鮮かな外交の手口である。
廣渡先生の聯隊の定員が干二百名、生き残りが三百名。そして全聯隊の死傷者総数干五百名。此の数字は補充された兵隊が、次々戦傷死していることを物語っている。誠に悲惨の一語に盡きるが、国民はこの事を知らない。
七月十四日(月) 晴後雨 暖
午前中、精魂込めて働いた。そのためか午後作業に出ると直ぐ俄雨のため中止。後数日にして作業終了の予定。
「作業しなかった日はあっても露西亜語の本を読まない日はありませんでした」。何か何虞かで聞いた様な言葉だ。
七月十二日英ソ相互援助保約締結。英はどれだけ蘇を援助出来るか。米の援英物資をソ聯に送るか。英には大艦隊が未だ健在。
七月十五日(火) 曇 涼
一日中作業。道路完成す。一年生が午後手伝いに来る。一生懸命に励む。
琿春《注3》県長と行政課長慰問に来る。講堂で県長の話あり。面影は案外優男に見えた。講演要旨は「日本内地の物差で大陸諸物を計るな」と云うことである。後作業場見学に廻る。後姿が何とも子供っぽく印象良ろし。行政課長は映画「熱砂の誓」に登場する「楊」と云う人物にそっくり。
午後七時から建国神霊廟の式典あり。後点呼。真面目に就寝。
七月十六日(水) 曇 涼
午前中道路の色直し。午後休み。午後三時頃、駐屯軍司令官来る。
一場の訓示あり。曰く
「国境の道路を構築して貰う恩恵よりも、学業を投げ打って此の淋しい国境まで来て下さった事が、兵の気持ちに与える感情が非常に有難い。諸君は学院創設の時の真の目的に生きるように。必ず近い内にその時機は来ます」
今まで来た誰よりもこの「べた金」の閣下の言葉は丁寧で、誠にジェントルマンだ。之は訓辞ではなく感謝と激励の言葉ではないか。
「学院創設の時の真の目的…」なんて何か学院の事を良く知った北方関係の人らしい。
七月十七日(木) 曇 涼
作業、午前中、道路修繕。午後なし。
丘に昇って蘇聯国境の山々を見る。ポシェット湾は遥か眼下に遠く望まれる。「トーチカ」など直ぐ目の先だと想われる程近い感じを受ける。
此の国境の山の何處かにあの「トーチカ」に照準を合はせて、引鉄を引けば良いようにして待っている砲が無数にあるに違いない。
学院生はソ聯国境さえ見せて置けば感歎、心が満ちるのではないか。
身体検査あり。結膜炎(慢性)と。
七月十八日(金) 晴 暖
本日炊事当番。伝令。
日下が病気で寝ている。昨夜五藤が徹夜で看病する。朝早く交代する。「ウンウン」唸って苦しそうだ。下痢と発熱。特に下痢がひどい。注射を何回しても止まらない。
第一号室の室会を「トーチカ」の見える国境の丘の上でする。楽しく駄弁っただけだったが、皆満足して呉れた。酒でも有れば一段と盛り上がったろうに有難い。
昨日、勤労奉仕慰問団が来る。満洲国防婦人会の御婦人達。服の繕ぎなどをして呉れた。私はワイシャツを繕って貰った。
七月十九日(土) 晴 暖
日下、昨夜一晩中、苦しみ、坤いていた。正視に耐えない程苦しんだ。朝交代する。熱は下がったが、赤痢と判明したので服を着替え消毒する。小川へ洗濯に行く。太陽はカンカン照りで暑いが、水の内へ入ると身振ひする程冷たく気持が良い。
午後、最後の仕事として完成した道路に紀念柱を立てに行く。二年生の担当した道路を「第二極光道路」と、一年生の担当した道路を「第三極光道路」と名付け、それぞれ記名した記念柱を立てた。之で新しい道路が生まれ私達の仕事は終った。
病人が出たので最後の会を出来るだけ細(ササヤカ)なものにする。併しストームは盛大にやった。ソ聯のトーチカから丸見え。何か兵隊の反乱とでも見たかお祭の行事とでも見たか。
本部を取りまき先生方にもその内に加わって頂く。梅村学監先生の見事な「お頭(ツム)」に酒を注いで摩(サス)ったり、軽く叩いたりする不らち者も現われたが、温厚な心の広い学監先生は笑いながら、一緒に「ワイワイ」騒いで頂いた。至らぬ非礼も未熟な若さのなせる技と許して頂きたい。
注
(1)七月十日。(2)七月十三日。
「張鼓峰事件」と「ノモンハン事変」この二つの国境紛争事件には重大な相似性がある。
一、紛争前にソ聯軍の高級将校が日満側に逃亡して来ている。
二、ソ聯軍の圧倒的な兵力、火力、機械力の前に日本軍は完敗している。
三、戦闘後の国境線はソ聯軍の主張する線で事実上画定している。昭和十三年六月十三日、極東地方粛清工作の総元締である内務人民委員部極東地方長官リユシコフ三等政治大将が国境を越えて、清洲国琿春正面に逃げて来た。
彼の極東在住一年間に同地域で逮捕された者二十万人、その内彼自らが逮捕した者三千人。七千名が銃殺刑に處せられている。その粛清が彼自らの上に及ぶのを恐れて満洲国へ逃亡したのである。
又、昭和十三年七月末、ジャミン・ウデ (外蒙の首都ウラン・バートルと張家口街道上の国境付近に在る)に駐屯するソ聯自動車早化狙撃第三十六師団の兵器部長フロント少佐「フルンゼ赤軍陸軍大学卒業生)が内蒙古の西蘇尼特(張家口西北方約二五〇キロ) に自動車で逃げて来た。
フロント少佐の脱出三週間後に、外蒙古軍タムスク駐屯騎兵第六師団宣伝班長ビンバー大尉が満洲国内へ逃げて来た。何れもあの有名なスターリンの粛清工作が自分に及ぶのを恐れた結果である。
両事件についての戦闘の状況等については戦後数限りない記事になっているが、何れも日本の完敗で終っている。戦闘後の国境の画定も戦闘の勝敗の結果が明確に出ている。
張鼓峰事件においては正式の国境画定の作業がなく、日本軍が死守していた陣地から撤退するとソ軍は直ぐ進入して来、陣地を構築して占領してしまった。つまり日本軍は主張した国境線を自ら捨ててしまった。
ノモンハンでは両国の国境画定委員会による作業が終ったのは停戦二年後の昭和十六年八月。新しい境界線は外蒙古の主張通りハルハ河東方に国境擦、国境標柱が立てられた。
注1:ソ聯軍
注2:満州国(中国東北部)西北の市街地
注3:中国吉林省延辺朝鮮族自治州東端に位置する都市
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