モンテンルパの夜は更けて・3
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モンテンルパの夜は更けて (編集者, 2009/11/29 8:16)
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- Re: モンテンルパの夜は更けて (えー, 2009/12/25 21:47)
編集者
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14名が絞首刑に
連合国による対日講和条約が結ばれる数日前の昭和26年1月19日夕刻、中村秀一大尉以下14名の死刑が執行された。このいきなりの執行は、日本との講和に対してフィリピンを軽くみるなという牽制だった。事実、巨額の賠償金を要求するフィリピンとそれを拒む日本とが盛んにかけ引きを続けていた頃だ。
14名は政争の犠牲でもあったのだ。
死刑執行の第一報を聞いた、教誼師の加賀尾秀忍はフィリピン政府には勿論、アメリカ、そして日本にも強い抗議を含んだ死刑中止の嘆願をした。しかし、執行は止められなかった。
加賀尾は死刑囚の精神的ケアをしたり刑の執行に立ち会ったりする教諭師の枠を超え、モンテンルパ戦犯囚の解放に尽力した人である。
当時の加賀尾は、既に日本復員局との契約も切れ、無給の状態だったが刑務所の一室を所長の好意で借り、コンクリートの床に寝泊りし、戦犯囚と共に生きていた。
14名の死刑が執行されると刑務所内の空気は一変した。この執行は3年半ぶり。つまり長く死刑は実行されていなかったのだ。だから、もう情勢も変化、我々も近く釈放… という気持を死刑囚は持ちはじめていたのだ。
そこでの死刑執行。残された108名の動揺は激しいものがあった。「明日はわが身」、誰もがそう思ったのは当然である。
刑務所内では14名が逝った後、全員が小我を捨て、仲間と助け合う関係が急激に生まれたという。神仏を崇拝する気持の高まり、経典や聖書の研究も盛んになった。
だが、人間は弱いものである。時がたつにつれ、死への不安が高まり、疑いの心、自我も大きくなり、所内の空気はとげとげしいものとなっていった。
モンテンルパの歌を
加賀尾は、この澱んだ空気を晴らしたいと代田銀太郎と伊藤正康に声をかけた。
「代田さん、こうなれば歌しかない。皆さんで歌える歌を作ってください。伊藤さん、あなたは代田さんの詩に曲をつけてください」。
代田は文学好きで折々に詩を書いているのを加賀尾は知っていた。そして、代田の詩に伊藤が即興の曲をつけ、オルガンを弾いているのも知っていたからだ。
代田は長野県飯田市出身の憲兵少尉。死刑囚である。
伊藤は愛知県知多市出身の陸軍大尉。死刑囚であった。
その日から二人は懸命に「モンテンルパの歌」に取り組んだのである。
この頃伊藤は悩んでいた。「処刑の14名の中に自分はなぜ入っていないのだ」。
14名の中には彼より階級が低いものが多い。自分が先頭に立って処刑台に向うべきだった。彼らのほとんどは冤罪。伊藤も冤罪である。ならば職業軍人たる自分が率先して行くべきだった。 ―― 自分は生き恥をさらしている、という思いがあったのだ。
残された108名の中で彼の階級は最も上の大尉。年長でもある。
「今の自分は何をすべきだろう。何ができるだろう」
彼はそう自問し、苦悩していた。
そこに作曲要請。これだ、と思いながらも、ちゃんとした作曲などしたこともない。これも辛い作業であった。